リンゴの色は赤ですか?

物部がたり

リンゴの色は赤ですか?

 字とは面白いもので、認識を共有していれば様々な情報のやり取りができる。

 昔の人の思想や文化なども文字が残っていれば知ることができる便利なものだ。

 暮らしの中には文字が息ずいていて、便利だからこそ何をするにも識字力が要求される。

 しかし、世の中には様々な原因で文字を読み書きできない人たちも存在し、そのような人たちにとってはとても暮らし辛い世の中だった。


 れいもその一人だった。

 れいは生まれて間もなく熱病を患い、視力と聴覚を失った。

 それに伴い、言語も不自由になるヘレン・ケラーのような三重苦を背負ってしまった。

 一歳から三歳までは、他の子供とさして変わりはしなかったが、他の子供たちがしゃべり始める時期になっても、れいは「あ」とも「う」ともしゃべらず、光を識別できるほどの視力しなないので、同じ場所からほとんど動こうとしなかった。


 れいの両親は自分たちの不届きで、三重苦を背負わせてしまったことに罪の意識を感じないわけにはいかなかった。

 罪滅ぼしというわけではないが、両親は言語聴覚士や視能訓練士に訓練してもらうべく、週にニ三度往復数時間かけて病院に通った。

 その甲斐あり、れいが五歳になるころには、簡単な発音で意思表示ならできるようになった。

 両親は涙を流して喜んだ。

 

 そんなある日、訓練士にこんなことを言われた。

「家でも何か刺激になるようなことをしてあげてください」

 訓練士の言う通り、家では殆ど刺激になるようなことをしてあげていなかった。

「例えば、どんなことをすれば……」

「例えば、失われていない触覚や味覚、嗅覚などを刺激すると良いと思います」

 れいの両親は訓練士に言われた通り、様々な方法でれいの三感を刺激した。


  *             *


 訓練を続け一年が過ぎるころ、様々な刺激に触れてアダムとイブが知恵の実を食べ目が開いたように、れいの物心も明瞭になり、自分が他者と違うことを理解した。

「お父さん、お母さん、みんなには何が見えて、何が聞こえているの?」

 れいには見えるという感覚と、聞こえるという感覚がわからなかった。

 れいにとって見えるとは、まぶたを通して感じるかすかな光のことであり、聞こえるとは静寂だった。


 両親は上手く説明することができなかった。

 クオリアを他我に伝えることは不可能であり、説明してあげたくても説明する術を知らなかった。

 両親はれいの手を取って、まるで現代アートの概念化のように、視覚と聴覚から得られる情報を触覚で表現してあげようと努力した。

 視覚と聴覚の触覚化を続けること数年、れいの脳内で不思議な現象が起こるようになっていた。

 

 それは超感覚的知覚であった。

 手の平の特定の場所を特定のリズムと力加減で触れることにより、れいは脳内で色を感じ、音を聴く(感覚を感じる)ことができるようになった。

 その感覚は健常者が五感を通して感じることのできる感覚とは、恐らく違うものだが、下界の情報に触れたことのないれいにとって、触覚から派生する視覚映像と聴覚こそが真実だった。


 この不思議な現象の際、活性化する脳波を測定すると、想像力を司る前頭葉と、五感を司る脳部位が過剰に働いていることが判明した。

 れいと両親は触覚の超感覚を巧みに利用し、れいに様々な体験をさせてあげることに成功した。

 中でもれいを最も喜ばせたのは、感覚的読書体験だった。

 普通、読書とは視覚を利用し文章を読むことで、脳内の情報にアクセスして世界を想像するプロセスをいうが、れいの場合は違っていた。

 触感覚で感じたことを、脳内で疑似体験できるのだ。


 例えば、触書しょくしょで痛覚を感じ、嗅覚を感じ、味覚を感じ、視覚を感じ、聴覚を感じる脳部位が過剰に反応する。

 れいはみんなと同じように五感を感じることができ、とても幸せだった。

「お母さん、お父さん。これが見えるってことなのね。これが聞こえるってことなのね」

 他我に感覚情報クオリアを伝えることが不可能ならば、れいが感じている感覚と、他の人々が感じている感覚の何が違うと言えるだろう。

「ええ、それが見えるってこと。それが聞こえるってことよ」

 れいにはれいの感じている世界があり、それは間違いではない――。

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