5 之にて終幕
―――失敗した。
「全て望むままに。資産に余裕がある事は君も良く知っているだろう?」
―――失敗した。
「これが君の戸籍だ。きちんと公式で発行したもので、身受けした相手に隷属するのではなく対等な権利を持っている。」
「――君は、これで一人の人間として。女郎でも≪蛇太夫≫でも【しらみず】でもない女の子になれる。」
―――これを失敗だといわずしてなんと言うんだ。
初めはただ体格がよく、体温が高そうだと選んだだけ。
二度目は余りにも暖かな体温だったから、何時もの様に常客にしてしまえと思っただけ。
軍人であるとか、初日の会話が相手の琴線に触れるなんて考えもしなかった。だけど、漸く回り始めた頭で考えて、おかしい事に気付いたときには遅かった。
張見世はすっかり見世物部屋として、私の過ごす姿を見せるだけに変わり、袖引きを許されなくなった。
密かに廊主に客をつけられることが増え、その際に身上代が途方もない値であることを時折聞かされていたが、それを幾度目か訪れた男に零した次の夜には廊主も雑用付きの男もいなくなり、【霧無】には無かった禿を使う様になっていた。全く知らない男が廊主だと名乗り、男に媚び諂っていた姿をよく覚えている。
見世の廊主が変わってから仕入れの規模が小さくなったり、『先輩』と人を呼ぶ見慣れない女郎が増えていった脇で泣き喚く嘗ての隣人がいたのを男は気にした風でもなく、誇らしげに借用書を私に見せてきていた。あの叫びが借金額が年季そのものである事を知らされた彼女らの絶望だったのだろう事は容易に知れたが、果たして彼女らは幾らで売られていたのだろうか。
そうして私の今の全てを容易に変えていくというのに、男ははじめと変わらぬ様であるのが酷く恐ろしかった。幾度となく通いを拒絶し続けても、見世に通され男は私の下へやってきた。
私の意志は何一つ聞き届けられることはなく、時折釣り上げられる身上代を気にすることなく、あの男は通い続けた。
貢ぎ物も、私の願いも、これではないのだと、違うと言っても聞かなかった。
男の目は戦場で壊れた人間の目だと、漸く気づいたときにはその腕から逃げ出せなくなっていたのだ。
元々碌に歩けもしない身体に作り替えられていたのだ。それをこれ幸いと囲い込み、貢ぎ続けた所為で外気すら肌を痛め始めた。
部屋にいる時間が長くなり、人の適温では寒くなってしまう程にやわにされてしまった。
口にするもの全て男の買い与えた食材のみで。男が把握していない事など、最早私の思いしか――。
―――嗚呼、あれは妄執だ。
―――何かを失った男の執着が私に矛を向けたのだ。
だから、もう遅いのだ。
「これじゃない、」
「…君の本名を教えて欲しい。名前を変えよう、家族に会いたいなら会えるように尽力する。外出も体調に気を付ければ可能だ。」
「違う、」
「室温が低いか?適温を探っていくしかないが、これで操作できる。自由に使って欲しい。食事はキッチンにあるし、電話も使える。」
「ちがう...」
「...遊郭に用があるなら、出来れば言って欲しい。何かあっては事だ。できるだけの事はする。どうか、望みを言って欲しい。」
「望むものを与えてみせよう。」
すっかり忘れかけていた高層ビルの夜景の透ける窓に映る【しらみず】が、恐怖に震えた何時かの顔でこちらを見てる。
綺麗に磨かれたグラスに映る顔を掴み、窓の顔に投げつけても一時歪んでまた映るだけ。
顔に爪立て崩れ落ちた私を何時かの様に抱き寄せて、何時かとは反対に慰めるように背を叩く男が酷く憎かった。
「お前には、決して与えられない...!!」
しくじったんだ。お前も私も。
これは私じゃない、私の、姿じゃない。
お前の望んだものでもない。
私は、ただ【私】を返して欲しかった―――。
(もうだめだ、戸籍も姿も全部うそになった。私は死人、もう【私】を取り返せない。)
テーブルの上に並べられた戸籍の書類、全ての自由を求める女郎が望むだろうそれと。
欲しいものを殺してしまった、この男を何よりも恨んだのだ。
渇望の崩壊 史朗十肋 平八 @heihati46106
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます