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『蛇太夫にご執心の熊がいる』

 それは熊と称された当人の耳にも届いているうわさ話。

 ひとたび遊郭に足を踏み入れれば視線を感じるほど≪熊≫の姿はすっかり知れ渡っているようである。

 統括案内業務を担う大門屋の番頭すら楽し気に笑っては≪熊≫に対し手土産の候補を並べるほどには、話のネタとして随分と遊郭に馴染んだようだった。

 初めて遊郭に訪れた≪熊≫を知る者からすれば余りに愉快な事らしく、≪熊≫が訪れるたびに番頭は遊郭内での流行を教えては、代わりと言わんばかりに他の客へ≪熊≫の話を吹き込んでいる。

 それに乗せられまた砂糖菓子を手に【霧無】を訪れる≪熊≫は見世でも異様な注目を得ていた。


 今の蛇太夫は≪婿取り≫をしない。≪熊≫が蛇太夫の夜をすっかり買い上げてしまったが故に。

 張見世に座す≪蛇太夫≫の薄い着物しかなかった身には暖かなひざ掛けが与えられ、直ぐ傍に火鉢が添えられ温まっている。暖かくなったゆえか僅かに肌を晒す様になった姿を目にしようと見物人が絶える事はなかった。最早張見世は≪蛇太夫≫を魅せる為だけの部屋へと変貌していたのだ。

 いたずらに薄荷の煙を吹きかける事もあるしらみずを買おうとする者も変わらずいたのだが、≪熊≫はそれを許さなかった。

 ≪熊≫が初めてしらみずと床入りして直ぐは、≪蛇の婿取り≫は変わらず続いていた。

 ≪熊≫がそれを知った途端、しらみずの夜を買い占める事で他の客を取り上げてしまった。更には、暖房器具を貢いでは張見世に置いて行く始末。

 すっかり太客となった≪熊≫を見世が無碍にできる訳もなく、しらみずが袖にすることもなかったという。

 それを羨んだ他の女郎が≪熊≫を狙い、見世も利を求めあてがった事もあったそうだが揺らぎもせずしらみず一本を買い囲んでいる―――。

 それが、遊郭に広がっているうわさ話だ。

「蛇が娶られそうだ」「熊は蛇を食うと言うしな」「すっかり間夫になっちまったのかね?」「嗚呼、あの肌を独り占めとは。」

 「羨ましい。」

 ひそひそ、囁かれる声も気にせずに部屋へ訪れる。

 あの日と変わらず開かれた襖に、月はなかった。

「…来たぞ」

「そうでありんすね、」

 窓辺にしな垂れ、半纏を羽織った姿で煙を吹かす。

 部屋はすっかり薄荷の匂いに満ちていたが、詮無き事、近ごろでは何時でもこうである。

 初めの内はしらみずも≪熊≫を歓迎してくれてはいた。手ずから茶を入れたり、琴を奏でたり、床に誘う事も当然ながら。

 しかし、≪熊≫は買い占めている事情を知らぬ者にすら、そう言われるほどに通った。それこそ三日に一度と言う頻度で、だ。

 その間≪熊≫はしらみずと情を交わすことをしなかった。抱くと言っても文字通り腕に収めるか、寝るとしても本当に就寝するだけ。見世の客と女郎の関係では本来あり得ないことだとは分かっている。

 だからだろう、何もするでもなく頻繁に通われるしらみずは、その内に杜撰な態度になっていった。

 この全ての夜、≪熊≫が訪れない日まで容易に買えるほど【霧無】もしらみずも安くはない。果たして≪熊≫の蓄えはどれ程なのか、快適な穴倉で冬眠しているのだろうとしらみずが笑えば。

 「大門の娘一人身上げできる」と告げてみせた。

 それが如何程の大金か、しらみずにはとんと見当がつかなかったが。

 大門屋は大見世、それも遊郭を取り仕切る元締めそのもの。客が選ぶのではなく見世と女郎が客を選ぶ最上格だ。【霧無】の身代よりも途方もないことだろうとしか、わからない。寧ろそれが可能なのであれば大門屋の女郎を買うものだ。

 それでも≪熊≫だと称されても、噂の対象をしらみずとした。


 憐憫の情だと言われたとして、≪熊≫ は否定できない。

 自分たちの身に置く戦場から巡り巡った結果が、目の前のうつくしい姿をした罪だと、≪熊≫ は考えている。

 部隊の誰もが敬愛を示した上官は、混合部隊によって行われた掃滅戦線で行方をくらませた。彼の上官は望んで戦場に身に置き、その戦果が国の発展へと役立つものであるのだろうと吐き捨てていた。

 ≪熊≫ にとって遠い記憶となった上官の姿が必ずどこかで過っては、現状を皮肉って笑っていく。

 己らの戦果、その結果が目の前の娘なのだと。

 手に入れた獣族の肉体を用いて人間を作り替えたのだろう。――まがい物の蛇へと。

 娘が請うのは色でも金でもなく、失われた体温に過ぎない。

 だから≪熊≫ は施しだと言われようが与える事にしたのだ。戦場で得た己の利益を使って、娘の望むものを望むままに。

 口寂しいと甘えた声に、薄荷煙管を与え。腹がくちくなる程にと嘯く声に、甘い菓子を買い。温もりと囁くならば、暖房器具を纏わせた。

 女として抱かれるのがよいというのであればやぶさかではないが、娘はそれを口にはしなかった。只管に温もりだけを強請る言葉を紡いでいた。

―――望まぬ行為であるというならば、無用に性を売る必要がないように己が娘を買うのだ。

 自己満足と言われようとも止める気などなかった。

 他の見世の女郎や山とある凄惨な定めにある者ら等、それら全てを掬うほどに≪熊≫ の手も懐も大きくはない。

 目の前に現れたこのがすっぽりと収まって、他が入る余地などないのだ。

 人はそれを執着を呼び、恋情とするのかもしれない。だが、≪熊≫ にとっては『憐れみ』と『親愛』に違いない。


「悪趣味な戯れでありんすね...」

「戯れで終わるつもりは、私にはない。」

「ほんに。それが悪趣味でありんすよ。」

 しらみずが袖にしなかった?否、娘は確かに袖にしようとしたが、見世が許さなかったのだ。

それほどに金子を以て囲い込んでいたのだから。


≪熊≫ が問う。

「君が望むものは?」

≪蛇太夫≫ が哂う。

「お前さんが、決して与えられぬもの。」


 それを与えてみせようなどと告げる≪熊≫を≪蛇太夫≫は嗤い続けた。




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