3
≪蛇太夫≫の袖引き。
今宵の相手は着物の上からも分かる程の逞しい体には不似合いな、柔和な顔をした男であった。
幾度と遊郭を歩き回り、今一つ気乗りしない様子であった男だが、興味本位で踏み込んだ【霧無】の小路にてしらみずに見初められた。
もうし、と艶っぽく囁くしらみずの誘いに戸惑う様は不慣れな初心さを感じさせ、うっかり客の女人を騒めかせたが雑用付きには関係ない事。雑用付きの説明にも困り顔のまま、男は誘いを突っぱねた。
ーーお代なれば、わっちが支払いましょう。
ーー何卒、わっちの一夜にあなたさまの熱をくだいませ...
しらみずの≪婿取り≫を聞き届け、雑用付きは男を見世の中へと誘うが納得いかない男に雑用付きが囁く。
―――≪婿取り≫と見做されたなら、男が床入りせずとも代金は支払われる。何故ならこれはしらみずの気まぐれであり、客を選ぶ行為もしらみずが勝手に行っていることに過ぎないからだ。
それは見世の経営を考えれば何もおかしい事ではないと、至極真っ当な事を言っているという顔でそう教えられた男は諦めたように息を吐き、部屋へと進んでいく。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
案内された部屋は、踏み込んだ瞬間から妙に温度が高かった。部屋の空調自体がそう設定されているのだろう。
部屋の灯りは僅かな行燈しかないが、窓のふすまは開けど嵌め殺しの窓ガラスはそのままに、差し込んだ月明かりが女の柔肌を浮かび上がらせていた。
「ここは大門より遠くありましょう?喉は乾いておりませぬか?」
「熱ぅ御座いましょう?わっしに触れしゃんせ、ひんやりとしておりましょう?」
月の光を閉じ込めた様な白銀の髪、それは人とは思えない美貌を湛えた妖魔と呼ぶに相応しく。気が付く頃には、示され導かれるまま茶を片手に、しな垂れかかる女を抱えていた。
膝に乗り上げるしらみずもまた、茶とは違う物を口にしている。
それは?と問えば「生姜湯でありんす」と。確かに、香りはまごうことなく生姜であった。
如何するか困り暫し茶をすするが、男自身何も初心ではない。元々遊郭の様な場は好まず、付き合いで訪れたはいいものの連れは己を置いて何処かへ行ってしまい、ぐるりと歩き回っていただけなのだ。
女を抱くこともやぶさかではないが、どうも遊郭の空気が合わないのだ。
詰る所、この男は融通が利かない朴念仁である。
誠実や真面目と言ったものを人の容にすればこうなるであろうと言われた事は幾度あるやら。最早数えられない程度にはその様に笑われ、時に恋人に振られ、今まで生きてきたのだ。
はてさて、どうすべきか。などと懐に収まる女を見遣る。
「...お嫌いでありんすか?」
「...何が、と聞いても?」
「遊女を抱くのは。」
「...貴方たちを厭うているわけでは無いのですが、」
「ここの水は合いませぬか。」
「どうも、性に合わない。」
「わっちもですよ。」
瞠目する男にふふふ、と笑う。冗談であったのか、湯飲みを置いた手をするりと袂に滑らせる。
「お熱いでしょう。この部屋は」
「...少し、」
「そうしてありんすよ。わっちの肌に触れたくなるように。」
細く麗しい女の手が、己の湯飲みも脇に置き、首元に手を当てる。その手はひんやりと冷たく、とても人の体温とは思えなかった。
「何故、こんなに冷たいのですか。」
「ふふ、どうしてだとおもいんすか?」
人ではない、と思ったが故か。職業病の様に過ったのは己の相対するその種族の姿。
「...蛇...獣族...?」
己の呟きに僅か目を開きながら、頬を包み込んでくる女を好きにさせる。その腰も着物からはだける肌も、異様に白く細い。
「あれま、獣を目にしたことがおありでありんすか?」
「蛇でなければ、戦場にて。」
「軍人さんで御座いましたか、はてどうしましょう...」
くつり、微笑む。魔性――。
「わっちも殺されてしまいんすか?」
戯れに身を寄せ見下ろす女の両手を掴んだのは、最早職業病に近いのかもしれない。ただ、前線にいた軍属ならば、咄嗟であればおかしくはないと皆一様に口にするだろう。
畳に押さえつけても、女――しらみずは薄く笑んだまま。
「貴方は、」
「ふふふふ、そうでありんしたら。わっちを熱ぅして下さいますかえ?」
はだけて晒された足が腿を撫で上げ、腰を抱く。着物ごしで触れるその足が到底歩行に適した大きさをしていないことに、気が付いた。
「この暖かな部屋で、わっちを凍えさせずに、熱をくださいますか?」
大柄な己に比べればしらみずは余りにも小さく、捕えた手首は簡単にへし折れそうな程。とてもその身に強靭な能力を潜ませる獣族には見えなかった。
獣族であれば、どれ程小柄であろうとも硬くしなやかな筋肉を身に着け、身体の何処かにその種族の特徴を持っているものだ。
片手で拘束したまましらみずの着物を脱がせども、何処にも体毛も鱗も存在すらなく、ただ滑らかな白い肌があるだけ。
「いや…なぜ…」
「如何しました?」
そう、おかしなほどに滑らかな肌と生物として歪な骨格だけ。
「何故、毛穴すらない?これは、これではまともに汗もかけない...、――っ!」
「軍人さんは、賢うありんすねぇ。」
毛穴が無いなら汗腺もまともにないと考えられる。ならばそれに対応した人間の 肉体は、果たして正常に体温調節できるのか?体格に合わない足など自重を支えるのがやっとだろう。正常に発達したものではない。いや、そもそも、何方が先なのか?
体温が低いから【蛇太夫】なのか。【蛇太夫】だから冷たいのか。
「君はーー、きみたちは、」
「しーっ、」
優しく子供に言い聞かせるように、薄く、柔く、笑んだ女が、囁く。
「お国の軍人さんが、お国のおみせを嫌っちゃあいけないでしょう?」
嗚呼、それが答えだ。
遊郭が初めてあろうと、聡明であるつもりの男には分かった。
結局歪な戦争は歪な世を生み出している。国軍に属す己が心のどこかで理解したフリをして目を瞑っていた事だった。
『お前は御綺麗過ぎる。人間は歪み切るのは簡単だ、欲を詰め込み欲を作ればそこが生き地獄さ。目で見るまでお前は分からんだろうな。』
男の嘗ての上官も己へそう常々嘲笑っていたものだ。
掻き抱いた細く小さな体は、己らの行いが歪み辿り着いた形なのだろうと唯々、虚しさを覚える。
押し倒され抱き寄せられた女は、ゆるりとわずかにしか届かない背に手を添える。
「今宵は夢を見んしたのですよ...、ぱちりと目を覚ませば朝が来るだけ。怖い事なんて一つも御座いません。」
ぽんぽんと、泣いてもいないと言うのに幼子を宥める様に優しく叩く。怖い夢を見たと泣いた子供への子守唄如く静かに、唯々甘さよりも温かさを以て言葉が紡がれている。
「おやすみなさいな…怖いのはわっちが全部食べましょう、蛇のわっちがぱっくり呑んでみせましょ。」
優しく嘯く小さな娘に情けなさと共に堪らぬ愛しさを覚え、漸く湧いた僅かな気力を以て抱き上げる。
部屋に敷かれた布団の上に寝かせてやると、とたん艶やかな女の顔に変わる娘を宥める様に再び抱きしめた。
「寝よう、私があたためていますから。」
懐にすっぽりと収まるほどに小さな娘は、色を感じさせない己の提案に瞠目せども次には呆れたように笑んで見せた。
「あれまぁ...、酔狂でありんすねぇ」
上掛けと整え素肌を隠してやれば、己が本気で就寝する気であると理解したのだろう。諦めたように体勢を整えると、胸元へすり寄る。
「ふふ、あったかい」
男の無力を知る娘はそれを咎める事もせず、ただうつくしく笑う。胸の中、微かに漏れた声は無邪気な少女の様だった。
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