山から下りてくるもの

シンカー・ワン

帰りたい

 気がついたら深い闇の中にいた。濃い緑の臭いが鼻を打つ。視線を上に向けると鬱蒼とした木々の隙間からわずかばかりの空が拝めた。雲が多く流れが早い。どうやら山の中、それも森に居る様だ。少し体を動かすと全身のあちこちが痛む。くそっ、なんだってんだ? どうして……こんなところに居るんだ俺は? 落ち着け。先ずは落ち着くんだ。それから記憶を辿れ、ここへ到るまでを思い出せ。……そうだ、思い出した。呼び出されたんだ俺は、あいつに、司馬しばの奴に。大事な話があるからと、それから奴の車に乗せられて……そう、山だ、空気のいいところへ行こうとか言って、山の上まで連れて行かれたんだ。あいつと付き合うのは嫌だったんだが、どうしてもって懇願されたから承知したんだっけ。けど、奴が切り出したのは事もあろうに俺の恋人のみゆきを譲れなんていう、ふざけた内容で、交換条件が営業成績を融通するだったか、ふざけやがって。確かに俺の成績は奴よりも悪いが、それ使ってみゆきを奪おうだなんて。奴の魂胆はわかってる。みゆきが取引先の重役の娘だという事を知ったからだ。奴はあそこからヘッドハンティングされているなんて噂もあったっけ、移った時に自分のステータスを良くするつもりでみゆきを使おうとしてやがる。でなけりゃ、ゴージャスな美女好きの奴がみゆきに色目を使うはずが無い。言っちゃあなんだがみゆきの容姿は十人前で、スタイルだってそれほど良くない。ただ気立ての良さが最高で、俺はそこに惚れたんだ。高校の時からだから、えらいさんの娘だなんて関係なかった。だのにあの野郎はいけしゃあしゃあと……。そうだ! 断った時だ、いきなり頭を何かで殴られて……奴に道路下へ投げ捨てられたんだ! 切り立ったところだったから下は深い谷で、そこに転がり落ちたんだ。……周りに枝が結構な数落ちているところからすると、枝に引っ掛かってブレーキがかかったのと下生えが深くてクッションになったんで助かったみたいだな。あちこち痛むのはそういう事か。頭の方は……血が固まって髪がバリバリだ。頭の傷は小さくても血は出まくるからな。よっと、何とか立てるな……、足はどうにかだが、右手が肩から上がらんな、筋でも痛めたか。とにかくこの程度で済んだのはラッキーだ。歩けるみたいだから、何とか山を下りないと。司馬の奴がみゆきに実力行使しちまう、急ごう。……とは言うものの、ハッキリした位置が判らない。携帯があればGPSで現在地も判るんだが、落とされた時にどこかへ行っちまったみたいだ。あったとしてもきっと壊れちまっているだろう。ちくしょうっ。近くに沢でもあれば、沿っていけば麓に着けるんだが、この闇夜に無暗に動き回るのはそれは厳しいか。とりあえず、俺が背にしているのが山の上側だ、正面が下りなら、そっちが下りる方向って事だろう。行ってみるか。……さすがに……歩きづらいな、せめて月でも出てりゃ、もう少し進みやすかろうが、この雲じゃな。むしろ雨になったら怖い、山の天気は変わりやすいからな。進めるだけ進まないと。前に転がりそうな感じがあるから下っているのは確かだろう。気絶してたのが幸いしたな、おかげでこの暗さでも夜目が効いてる。全然見えないなんて事がなくてよかった。……それにしても、静かだ。虫の声すら聞こえない。夜鳴く鳥もここらにゃ居ないのか、耳が痛くなるくらいの静けさだな、下生えを踏みしめてく音が耳障りなくらいだ。それに、何かにずっと見られてる感じがしてる。付かず離れずの距離でずっと見られてる。四方八方からずっとだ。たぶん野生動物だろう。俺が獲物になるかどうかを見極めているんだろうな。力尽きたら奴らの腹の中か、それは御免だな。……こうして山の中歩いていると、田舎の爺ちゃんの言葉を思い出す。普段はとても愉快な爺ちゃんが山に遊びに行こうとすると厳しい顔して戒めてたっけ。深くに入るな、嫌な感じがしたらすぐ下りて来い、明るいうちに帰れ、夜には絶対入るな。川遊びなんかはそんなに言われないのに、どうして山だけそんなに厳しく言うのかよく判んなくて、理由を聞いたっけ。ガキの言う事なのに爺ちゃん、すっげえ難しい顔しながら答えてくれたよなぁ。山からはよくないものが下りてくる。下りてきちゃいけないものがたまに下りてくる。爺ちゃんたち村の者はそれを追い返したり、人の里に来れない様にしてた。だから、山は怖いところだ、お前も気をつけろって。なに言ってんのかよく判んなかったけど、爺ちゃんがすごく心配していってくれてる事だけは判ったから、その言いつけはずっと守ってたなぁ。あぁ、爺ちゃん、どうしてるかなぁ。もう何年会ってなかったっけ? 婆ちゃんの葬式以来か、婆ちゃん死んでから一人きりだよなぁ、淋しいだろうなぁ、淋しいに決まってるよなぁ。そうだ、無事に戻れたらみゆきも連れて会いに行こうか。俺の嫁さんになる娘だって紹介しよう、爺ちゃんきっと喜ぶだろう、きっと曾孫の顔見るまでは死ねねぇなんて言い出すだろうな。そうと決まれば愚図愚図してられないぞ。一刻でも早く山を下りてみゆきに会いに行かなきゃ。俺の爺ちゃんに会いに行こうって言わなきゃ、あぁ、プロポーズが先かな? もう少し生活良くしてからにしたかったけど、司馬の野郎が横槍入れてくるなら四の五の言ってられねぇ。さっさと言っちまおう、きっとみゆきも受け入れてくれるはずだ。あいつは絶対いい嫁になる、で、いい母親になる。子供は……そうだな二人は欲しいよな、一人っ子じゃ淋しいだろうし、甘やかせ過ぎるかもしれないしな。出来れば男の子がいいな、盆や暮れに爺ちゃんとこ行って、思う存分遊ばせるんだ。あー、みゆきは女の子がいいって言うかもなぁ、あいつ男兄弟しかいないから姉とか妹に憧れてるって言ってたっけ。自分には出来なかった事を子供にはやらせたいだろうし。あぁ、みゆき、お前の顔が見たいよ。どのくらい見てないんだろう? お前の優しい笑顔が見たい、柔らかな声が聞きたいよ。胸も尻もそれほど無いけど暖かな身体を抱きしめたい。……俺はどれくらい気絶してた? 一昼夜か? それとも? 畜生、時間がわからないのがもどかしい。心が急く、早く早く早く早く早く、早く山を下りなくちゃ。下生えを踏み均し、茂みを掻き分け、俺は一心不乱に歩き続ける。今進んでいるこのルートが果たして麓への道なのか? そんな事は考えていられなかった。ただただ、少しでも早く山を下りたかった。見られているような感覚はいつの間にか感じられなくなっていた。気にしていられなくなったと言った方が正しいのかもしれないが。……どれほど歩いただろうか? 木々の間隔が開けてきて、森が開けてきていた。下の方からトラックらしい走行音がかすかに聞こえてきた。麓が近い、俺は山を下りれたのか。足取りが軽くなる、急く気持ちのまま駆け下りると、唐突に森がなくなり、舗装された道に辿り着いた。山から出れたのだ。まばらに設置された街路灯に目をやり、その先を追っていくと、闇夜に煌々と輝く店舗らしきものが見える。こんな辺鄙なところなのに24時間営業のコンビニのようだった。きっとドライブインも兼ねているんだろう、なんにしても助かった。あそこへ行けば電話も借りられるだろう。携帯を無くしているのでみゆきのところへはかけられないが、警察か救急車を呼んでもらう事は出来るだろう。警察ならば司馬の俺への暴行を訴えられるし、いや、谷底へ落とされた事から考えればこれはもう殺人未遂か? 救急車なら傷をおった身体を診てもらえる。とにかく早くあそこへ。気が緩んだのか、山を下りている時ほどに足が動かない。忘れていた疲れが出たのかもしれない。それでも、気持ちはコンビニを目指す。段々と重くなる身体に鞭を打って、這這の体で転がるようにしてコンビニへと入る。倒れこむ一瞬、ガラス扉に名状しがたいものが映り込んだ様に思えたが、疲労から来る錯覚だろう、そんな事よりも店員に話をしなければ。レジカウンターに居るであろう店員の元へと足を引きずるように向かう、身体はもう限界のようだ。声をかけようとレジへと歩み寄る。が、店員は俺を見るなり、意味不明の叫び声を上げてレジから裏のスタッフルームへと逃げ出してしまった。おい、待ってくれよ、確かにボロボロの風体だが、怪しい者じゃない、頼むよ、電話を、電話を貸してくれ。店員を追いかけようとレジの裏手に回り込もうとしたが、足がもつれて倒れてしまった。倒れ掛かったのは扉付きの冷蔵陳列棚。外の暗さと店舗の明るさの差からその扉は鏡の働きをして俺の姿を映し出す。そこにはボロボロの衣服をまとった半分白骨化した何かが居た。それが俺が動かしたように手を動かし、扉に触れていた。それは、俺だった。……あぁ、爺ちゃん。山から下りてくる怖いものって、これなんだね。爺ちゃんたちはこれを追い返したり、人里に入れないようにしてたのか。人じゃなくなった何かに引導を渡してたんだね。だからあんなに難しい顔してたんだ。俺ももう人里には入れなくなったのか。あぁ、淋しいなぁ、爺ちゃんにもみゆきにももう会えないのか、悲しいなぁ、淋しいなぁ。俺はもう流れはしない涙を流しながら元来た道を戻っていった。そして山に帰った。山は優しく俺を迎え入れてくれた。

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