笑顔の裏側

夢喰

笑顔の裏側

「もう、出てってよ!!」


 生まれて初めてこんな大声を出したと思った。

 静まりかえった病室で彼がびくりと肩を震わせる。

 それをみた瞬間、チクリと針で刺されたような痛みが胸のあたりに広がった。


「ごめん。美亜の気持ち考えずにあんなこと言って」


 ポツリと呟く彼の顔は暗く沈んでいる。

 あまりにも痛々しくて直視できなかった。


「もう、帰るね。今日はほんとにごめん」


 彼が席を立ってわたしのもとを離れて行く。

 本当は後ろからぎゅっと抱きしめてあげたかった。

 優しい言葉をかけて、大丈夫だよって言いたかった。

 でも、わたしの身体はまるで錆びついた機械のように軋む音を立てるだけだった。

 バタンとドアが閉まり、彼が見えなくなる。

 わたしはその瞬間、崩れるように泣いた。

 嗚咽が漏れるだけでわたしの身体が悲鳴を上げる。

 胸が痛い、骨が軋むような音が鼓膜に響いた。

 もう、痛くて泣いてるのか寂しくて泣いてるのかわからなかった。

 それでも、わたしは一人病室で泣き続けた。


 わたしは先生に言われた病名を覚えていない。

 初めて聞かされた時は何語かと思った。聞いたこともないような難しい漢字で出来上がった言葉は上手く頭に入らなかった。

 でも、その後に聞こえた言葉はカチリとパズルのピースのように頭にはまった。


「難病指定の病気で、助かる見込みはないと言って良いです」


 長ったらしい病名なんかよりもよっぽど簡潔でわかりやすい死刑宣告だった。

 それを聞いても、わたしはまるで実感がわかず、ただ呆然としていた。

 スローモーションのように流れる景色の中で隣にいる彼が医師に向かって頭を下げた。


「美亜を助けてください。お願いします」


 その声を聞いた途端、「ああ、死ぬんだ」という実感が湧いて涙が溢れた。

 しかし、彼の願いは届かず、医師は無情にも首を振った。

 そして、わたしはこの死は逃れられないのだと悟った。


 医師が言うにはわたしの病気は全身が筋肉になる病気らしい。

 なんだか、ふざけたジョークみたいだと思った。

 頭の中で解剖医が警察に死因を説明するドラマのワンシーンが流れる。


「彼女の死因は身体が筋肉になったことです」


 なんか、筋トレのしすぎで死んだみたいで嫌だと思った。

 テレビでよく知らない女優が筋肉は裏切らない、なんて言っていたのを思い出す。

 なら、筋肉にすら裏切られて、死んでしまうわたしはなんなんだろう?

 今まで何のために生きてきたのかな。

 そんなことを一度考え出したら、もう止まらなかった。

 連鎖するように嫌な考えが浮かんでは消えて。

 日に日に身体は筋肉に蝕まれて行く。

 ついには車椅子なしでは動けなくなって、介助がないとベッドから起き上がれなくなった。

 もう、嫌だった。

 生きるのも何もかも。

 でも、何よりも嫌だったのはそんなことではなくて、彼にこんなわたしの姿を見られることだった。

 動けなくなって、衰弱して行くわたしを彼は隣で介助してくれた。

 弱音を吐くわたしに寄り添って、優しい言葉をかけ続けてくれた。

 ずっと、そばにいると。きっと、大丈夫だからと。

 でも、そんな希望に縋り続けるのは無理があった。

 根拠のない希望を笑顔で話す彼に、わたしは限界だった。

 だから、わたしは彼に別れを告げた。

 もう、別れようと。

 しかし、そう言っても彼は食い下がった。

 だから、思わず大きな声を出してしまった。

 また、去り際の彼の顔が脳裏をよぎる。

 あんなことを言ったんだ。もう彼はこの病室には来ないだろう。

 これで良いんだと。自分に言い聞かせるようにひとりごちた。


 次の日もその次の日も彼は病室に来なかった。

 ああ、捨てられたんだと思った。

 当然だ。わたしから別れを切り出したんだから。

 覚悟は決めていたはずだった。後悔なんてしないと思っていたなのに……

 涙が止まらなかった。昼も夜も些細なことで彼を思い出しては泣いた。


 ご飯を食べるときはいつもあーんしてくれた。

 身体が痛いときはすぐに主治医を呼んでくれた。

 愚痴ばっかり言っても、ずっとそばにいてくれた。

 辛くても苦しくても、いつも隣に彼がいた。

 わたしにいつも変わらない笑みを浮かべてくれた。


 その事実に今更気づいて涙が溢れて止まらなかった。

 でも、もう何もかもが手遅れだった。

 こんなことを言っても、わたしが突き放したんだから、彼はもう二度と戻ってこない。

 後悔しても、今更遅い。

 なんであんなこと、言ったんだろう。

 自分のことばかり考えて、彼の気持ちを何一つ考えなかった。

 あの、いつも変わらない笑顔の裏で彼は泣いていたはずなのに。

 そんな簡単なことにも気づけなかった。


「ごめんなさい」


 わたしは病室で一人謝り続けた。

 こんなことを言っても、誰にも届かないとわかっていた。

 でも、謝らずにはいられなかった。


「ごめんなさい」


 あんな酷いこと言って。


「ごめんなさい」


 別れてなんて言って。


「ごめんなさ——」

「美亜!!」


 聞き覚えのある声が届いて、思わず目を見開いた。そこにはわたしの大好きな彼がいた。


「……アキくん」


 信じられなかった。わたしが別れようと言い出して、突き放したはずなのに。


「ごめん、一人にさせて。俺ずっと一人で変なこと考えてた。俺なんかいない方が良いのかもとか。美亜の負担になってるんじゃないかとか。なんか、ここに来るのが怖かったんだ。馬鹿だよな。俺なんかよりも美亜の方がずっと心細かったはずなのに」


 アキくんはポロポロと大粒の涙をこぼしていた。そんな彼を見て、また涙が溢れる。

 世界がぐにゃりと歪んだみたいだった。


「わたしもごめん。別れてなんか言って。ほんとはアキくんのこと大好きなの。わたしアキくんがいないと生きていけない」

「俺も美亜がいない生活なんて考えられなかった」


 じっと、二人で見つめ合う。


「仲直り、してくれる?」

「うん。仲直りしよ」

「じゃあ、キスして」

「……うん」


 そっと、柔らかい唇が触れ合う。彼の暖かさが唇から伝わって全身に広がって行く。


「ねぇ、アキくん。ずっとわたしのそばにいてくれますか?」

「うん。ずっとそばにいるよ」


 まるでプロポーズの時みたいな台詞を言い合いながら、わたしたちは笑いあった。


「ありがとう、アキくん」


 そして、わたしは今までずっと言えなかった感謝の言葉を彼に告げた。

 いつも変わらなかった彼の笑みが、今日だけは涙で濡れていた。

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笑顔の裏側 夢喰 @natsunotsuna

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