第2話 目を閉じて暗闇しか見えないのなら、それがお前の想像力の限界

 私は今、17才の無職だ。


 小さい頃から私は母親からの虐待を受けていた。「お前なんて産まなきゃよかった」と何度言われたか分からない。少しでも私が母の機嫌を損ねれば、母は何度も私の頬を叩いたり、髪を思いきり引っ張ったりした。包丁を私に向けてきたこともあった。私には生まれつきお父さんがいない。母はよく家に知らない男を取っ替え引っ替えして連れてきた。きっと、私のこともそうやって妊娠したのだろう。だから父親が誰なのか分からない。老朽化が進んだ平屋だから、よく母の情事の声が私の部屋まで届いた。私は思春期になると、母の声の意味を完全に理解した。それ以来、そういう行為を想像するだけで吐き気を催すようになっていた。実の母の「女の部分」を見せられると、私は気持ち悪くて仕方なかった。生殖という概念そのものに嫌悪感を抱いた。私は一生子供なんて作る気はない。生理が来るたびに自分が女であることを自覚させられ、私は少し陰鬱な気分になる。中学生の頃、母に「お母さんはどうして色んな男の人連れてくるの」と質問したことがある。母は痛みきった茶髪を揺らして「生活費が要るから」とだけ言った。私が高校生になると、母は何故かこれまでとは一転して私に無関心になり、暴力を振るうことも暴言を吐くことも無くなった。高校1年の時、私は初めて自分の手首を切った。赤い血が流れた。


 私は高校では孤立していた。中学を卒業した私は偏差値50の地元の公立高校に進んだ。歪な家庭環境で育ったからか、高校に入学する頃には私の自己肯定感なんて微塵も残っていなかったし、昔はそれなりに明るくて剽軽だった性格はとても暗くなっていた。とにかく自己主張が苦手な人になっていた。他人の存在が怖かった。そんな状態だったから、当然高校では常に孤立していた。入学して、最初の方は私に話しかけてくれる人もそれなりにいた。でも、会話なんて全く続かなかった。話しかけられると私の頭は真っ白になってしまい、何も言葉が出てこないのだ。だんだん私の暗い性格が周りにバレてきて、誰も話しかけてこなくなった。私は自分から話しかける勇気もなかった。入学してしばらくが経って、クラスの中でグループが固定され始めた時、どこにも属していない私はかなり焦りを感じた。クラス40人のうち、どのグループにも属していないのは、私と、あともう1人、髪の長い暗そうな男子だけ。別に高校生活なんかに最初から期待なんてしてなかったけど、それでも、もしかしたらと心の中でほんの少し期待はしていたのかもしれない。私は部活にも入らなかった。孤立の日々が続いていくうちに、私は何のために生きてるんだろうと真剣に思い悩むようになった。この世の誰からも必要とされない人生を、生きる意味があるだろうか。私さえ私を必要としてないのに。


 現実の世界に居場所のない私は、寂しさを何とか埋めたくて、ネットの世界に居場所を求めた。高校2年の時、某SNSで大学1年の19歳の男の人と知り合った。住んでる県は私が群馬で彼は神奈川だった。何ヶ月もずっと文字だけのやりとりをしていた。それが、高校生活に楽しみの無い私にとっての唯一の楽しい時間だった。相手は優しい人だったし、話も面白かった。でも、そのうち「みくちゃんの顔が見たい」とか「みくちゃんと通話したい」って言ってくるようになって、私はどうしようと思った。「私の顔見たら嫌いになるかもしれない」と言ったら「俺は見た目で人を判断したことないよ」と言われた。その言葉を信じて、私は私の顔の写真を送った。すると「めっちゃかわいいじゃん!」と褒めてくれた。その数時間後くらいに、その大学生は「みくちゃんと付き合いたい」と言ってきた。私も彼のことが好きになっていたから、彼と付き合うことにした。その週末に神奈川で彼と初めて会って、その日のうちに私はラブホテルに連れていかれた。抵抗する私の腕を引っ張って、半ば無理矢理連れていかれた。今思えば、そこに至る前の段階で彼は性欲しかない人だと気付くべきだった。でも私は孤独でとても寂しかったから、感覚が麻痺していた。ベッドの上。激痛で泣いている最中、私は彼から愛されているんだと錯覚してしまった。その日以降、私は彼に会うたびに必ずホテルに連れて行かれた。そしたら、私はいつのまにか妊娠していた。妊娠検査薬を家で使って【陽性】のところに濃い線が入った瞬間、私は頭が真っ白になって、どうしたらいいのか分からなくて、彼にすぐラインで電話した。「さっき妊娠検査薬使ってみたら、妊娠してたんだけど……」と言うと、彼は何も言わずに電話を切った。もう1度電話をかけてみると、既にラインはブロックされていた。ツイッターもブロックされていた。彼の住んでる家なんて行ったことないから場所も知らない。彼への連絡手段は全て断たれていた。それが分かった瞬間、私は彼に捨てられたんだと確信して、泣いた。そして、そもそも最初から愛されてなんていなかったことがやっと分かった。好きなのは私の方だけだった。彼は、手軽に性欲を発散できる馬鹿女が欲しいだけだった。そして、妊娠した私だけが残された。絶望的な気分だった。未成年の中絶手術には親の同意が必要だから、私は泣きながら、母親に妊娠したことを告げた。母は無表情で「わかった。手術受けよう」とだけ言った。私は涙が止まらなかった。もう何もかもどうでもいい。私は高校には行かなくなった。とても、高校に通える精神状態じゃなかった。卒業なんてできないと確信したから、私は高校2年の時に中退した。そして、中絶手術を受けて、子供を堕ろした。


 高校をやめて、子供を中絶してから、引きこもりになった私は鬱病と不眠症を患ってしまい、精神科に通って、薬を飲むようになった。

 でも、薬が効いている感覚が全く無い。薬を飲んでも夜は全く眠れない。何も考えていないのに勝手に涙が出てきて止まらない。頭は霧が掛かったように常にぼーっとしていて、何も手につかない。食欲も無いからどんどん痩せる。私の世界から光が消えて、夜の闇に全部塗り潰されてしまったような感覚。私の脳はもう壊れてしまったのだと思う。

 効かないから、そのうち私は薬を全く飲まなくなった。すると、薬は通院の度にどんどん手元に溜まっていく。

 手元にある睡眠薬や抗うつ剤が全部で300錠を超えたから、私はそれを全部飲んで死ぬことにした。現代の睡眠薬や精神薬はいくら飲んでも死ねないことくらい知っていた。それでも死にたかった。

 母が寝ている真夜中、私は居間のテーブルの上に300錠全ての錠剤を出して、水で飲み始めた。

 でも、200錠を超えた辺りから、私の記憶はかなり曖昧だ。


「──何やってるの! みく! やめて!」


 混濁して、消失しかけている意識の中で、私はそんな声を聞いたような気がした。何故か少しだけ嬉しかった。

 ような気がする。


 ◆


 結論。私は死ななかった。

 薬を少なくとも200錠は飲んでいたから、頭が飛んでいて、あまり記憶は無い。母が救急車を呼んだ。群馬のY総合病院に搬送された私は、胃洗浄を受けた。

 他のことは朦朧として仔細に覚えてないのに、胃洗浄の苦しみだけはよく覚えている。口から太い管を突っ込まれて、それを胃まで届かせて、文字通り胃を何度も何度も洗浄させられるのだが、あの苦しみは2度と体験したくない。私は涙を流した。

 身体が衰弱していた私は、数日間そのY総合病院に入院することになった。そして退院と同時に、今度はX病院という精神病院にそのまま入院することが決まった。

 私の精神状態が不安定である事、自殺の危険性がある事から、X病院に入院させられる運びになったようだ。


 ◆


 3月下旬の午前10時。

 X病院に向かう軽自動車の中、運転している母と後部座席の左端に座る私の間に会話は全く無い。

 私は、車窓を流れるどうでもいい田舎の風景を、ただ無感情でぼんやりと眺めていた。

 全てがどうでもいい。私は馬鹿だった。ただそれだけのことだ。

 勝手に愛されてると信じ込んで、妊娠して、捨てられて、高校辞めて、中絶して、精神病になって、自殺に失敗しただけ。くだらない人生。

 私はまだ17歳だ。これから先もずっと死んだように生きていくんだろうか。いったい何のために?


「みく」


 ふいに、母が無機質な声で私の名前を呼んだ。


「何」


 私は窓の外を見ながら答える。

 しばらく間が空いて、再び無機質な声で母はこう言った。


「ごめんね。何もしてやれなくて」

「してやれることはある。今、対向車線に入って、車と正面衝突してほしい」


 それを聞いた母は無言になった。

 私も無言だった。


 ◆


 30分ほど車に乗っていると、X病院に到着した。初めて来た病院だが、思っていたよりとても大きな病院だ。中に入ると、休日ということもあってか、とても混んでいた。私は人の多い場所が苦手だ。

 受付の女の人に、母が何かを話している。すると、受付の人はどこかに内線電話をかけた。

 母から少し離れた場所で私が俯いてぼーっと突っ立っていると、そのうち、どこからか若い男の看護師が2人近づいてきて、私と母に「じゃあ、こちらへ」と手振りを交えて明るい声で言った。2人とも若くて屈強で、少し怖かった。私がもし逃げたりしたら捕まえられるように、男の看護師が来たのだろうか。

 ついていくと、やがて、大きな扉の前で看護師が立ち止まって、鍵穴に鍵を挿して開錠した。

 扉の上には【第1病棟】と書いてある。

 どうやらこの扉の向こう側が、私が入院する場所らしい。

 第1病棟に入ってすぐ右に、ナースステーションのような区域があった。私と母はナースステーションの中に案内されて、沢山の看護師や他のスタッフの中を歩いて、誘導されるがままに進む。やがて【診察室3】と書かれた引き戸の前に辿り着いた。


「中で少々お待ち下さい」

 

 と看護師は言って、どこかに行った。私は【診察室3】の引き戸を開けた。

 中は真っ白い部屋だった。部屋の真ん中に、大きいテーブル。テーブルの上にはパソコンがある。テーブルの患者側には椅子が2つあり、医師側には1つある。

 私が、ぼーっと突っ立っていると、母が「座りな」と言ったので、椅子に座った。母は私の横の椅子に座った。

 母と2人で待っていると、やがて、白衣を着た精神科医が入ってきた。30代に見える。短髪のメガネの痩せ型。目が大きくてギョロギョロしている。


「初めまして」


 と先生が明らかな作り笑いで言う。

 先生は椅子に座って、私の目をめっちゃ真っ直ぐ見て、早口でこう言った。


「新庄みくさんの主治医の尾崎智也です。よろしくお願いします。これから一緒に頑張りましょう!」

「あ、はい」


 頑張るって、何を。


「新庄みくさんは、この第1病棟に入院することになったんだけど、第1病棟には全部で先生が4人いる。新庄さんは僕尾崎が担当することになった。でももし尾崎は気に入らねえって思ったら他の先生に変えることもできます。人間だから合う合わないが必ずあるからね。主治医を変えたい時は遠慮せず言ってください」

「はい」

「Y総合病院さんやお母さんの方からある程度のお話は聞かせてもらったんだけど、X日の深夜に家で精神薬を大量服薬して、自殺を図ったっていう流れで合ってるかな」

「はい」

「そうか。これは言いづらかったら言わなくていいんだけど、新庄さんはどうして自殺したいと思ったんだろう?」

「……言いづらいです」

「うんわかった。今も、死んでしまいたいとか、消えてしまいたいっていう気持ちは強い? もう生きててもしょうがないな、みたいな」

「はい」

「うんそうか。わかった」


 その後も、尾崎先生との話はしばらく続いた。省略するが、私は尾崎先生に質問されたことにずっと答えているだけだった。途中から、尾崎先生はパソコンに何かの文を打ち込みながら、私と話していた。

 

「──今、病院には通院してる?」

「Z病院っていうところに通ってます」

「Z病院か。そこでの診断は何か出てる?」

「鬱と、不眠症です。あと、先生が、私は発達障害もあると思うって……」

「発達障害か。入院中の診察でそういう部分も診ていきましょう。多分、入院が始まって最初のうちは薬の量も多いかもしれない。入院していく中で、だんだん減らしていけるものに関しては減らしていきましょう」

「はい」

「ちなみに新庄さんは17歳だけど、お酒とかタバコはやってる?」

「…………」

「あ、大丈夫。ここは学校でも警察でもないから、新庄さんが何してても怒らない。なんなら覚醒剤やってても怒らない」

「タバコは吸いません。お酒は週に2本くらい缶チューハイを飲んでます」

「ちなみにアルコール度数は?」

「3パー」

「そうか。だったら、アルコール依存の心配は無いね」

「はい」

「それと、これは新庄さんの状態によって前後するけど、自殺念慮が切迫している状態なので、最初は閉鎖病棟っていう病室に入ってもらうことになる。トイレと水と布団と時計だけ、みたいな部屋で、窓は曇りガラスで開かなくて、部屋の鍵も常に閉められてて、退屈な思いをさせてしまうと思うけど、だんだん外にいられる時間も増えていくし、安定しているようだったらすぐに病室も開放病棟に移動になるから、安心してください」

「はい」

「新庄さんの入院期間だけど、目安としては今のところ1ヶ月程度を考えてる。前後する可能性もあるけど、大体1ヶ月と思っていてください」

「はい」

「お母様も、大丈夫ですかね。大体1ヶ月ということで」


 すると母は「はい。大丈夫です」と小さく言った。

 私は(1ヶ月か、長いな)と思った。私は精神科に入院したことがないから、どのくらいの期間が相場なのかは分からない。

 私は疑問に思うことがあったので、初めて尾崎先生にこっちから質問をした。


「あの、1番入院期間が長い患者さんって、どのくらい入院するんですか?」

「一生入院する患者さんもいる」と尾崎先生はサラッと言った。

「一生……」

「若い子は大体、1ヶ月から半年の間にはほとんど退院していく。早い人は2週間。初めての入院で不安なこともあるだろうけど、大丈夫。必ずあなたはすぐ退院できる」


 その言葉を聞いて、少し安堵した。


「入院生活についての細かい話は、新庄さんの担当看護師がこれから教えてくれるから、その人から教えてもらってください。色々話してくれてありがとう。新庄さん、これから一緒に頑張りましょう」

「頑張ります」


 尾崎先生につられて、頑張りますと言ってしまった。

 やがて尾崎先生は【診察室3】から出ていった。嫌な先生だったらどうしようと思っていたけど、嫌な感じは無かった。


 ◆


 椅子に座って待っていると、やがて、上下ともに白のナースウェアを着た女性看護師が入ってきた。

 私と目が合うと、笑顔で会釈された。

 ものすごくかわいい人。というのが第1印象だった。

 年齢は20代前半に見える。身長は平均くらい。髪は茶髪のボブ。目が大きい。顔も小さいし全てのパーツが整っている。優しそうな顔。スタイルも良くて痩せている。マスクをしてるから鼻と口は見えないけど、きっと鼻筋は綺麗で、口も綺麗。

 きっと、こういうかわいい人には、すごく立派でお金持ちでエリートな彼氏がいる。

 私が勝手な想像を膨らませているうちに、女性看護師は椅子に座って、私の目を見て笑顔で言った。


「新庄みくさんの担当看護師になりました、内田紗希です。これからよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 

 内田さんが深めにお辞儀したタイミングで私も小さくお辞儀した。

 やがて内田さんは私の目を見ながら笑顔で言った。


「新庄ってBIG BOSSと同じ苗字ですね」

「?」


 BIG BOSSって誰。

 やがて内田さんは1枚の紙を私とお母さんの前に差し出して、少し身を乗り出して喋り始めた。


「こちらの紙がですね、みくさんの入院時にご家族の方に準備していただく物のリストになります。1番上から【寝巻き、パジャマ】って書いてあるんですけど、これは服にヒモが付いていないものでしたら、基本的には何でも構いません。ただ、過激すぎる服装はちょっと控えてください。次に【室内履き】ですね。私も今そうなんですけど、ク●ックスみたいなものを履いてる患者さんは多いですね。何でもいいんですけど、できたら滑りにくいものがいいです。次に【下着】【プラスチック製のコップ】【歯ブラシ、歯磨き粉】【ボディーソープ、シャンプー、コンディショナー】【体を洗うもの】ってありますけど、体を洗うものに関しては……ちょっと固有名詞が出てこなくてごめんなさい、あのザラザラした長いやつじゃなくて、スポンジのようなものを持ってきていただくのが1番いいと思います。このあと説明する内容とも被るんですけど、当院では患者さんの安全と事故防止のため、ヒモ状の物の持ち込みを全面的に禁止させていただいてます。なので、あの体を洗うザラザラした長いやつの持ち込みはできないんです。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。次に【ひげ剃り】ですが、みくさんは女性なので必要ないですね。次に【ハンドタオル、バスタオル】【生理用品】とありますけど、生理用品に関しては売店の方でも販売しております。売店日は女子が月、水、金、日曜日の週4日間ですね。あと、盗難防止の為に、貴重品や現金やカード類はお持ちにならないようにお願いいたします。ご準備していただく物に関しては以上になります。ここまでで、ご不明な点はございますか?」

「ないです」と私。

「できれば今日中に持ってきた方がいいですよね」と母が訊ねる。


 すると内田さんは部屋にある時計に目をやって、


「そうですね。11時から19時までが面会時間になっていて、それを過ぎるとご家族の方が入れなくなってしまうんですよね。ですので、できたら今日か明日の午前中くらいまでに持ってきていただけるとあれですね」

「わかりました」

「あ、ごめんなさい忘れてました。コロナウイルスの関係で全ての患者さんにマスクを着用していただいてます。みくさんは既にマスクされてるので大丈夫です」


 次に内田さんは、また別の紙を、私と母の前にスッと出してきた。


「次に持ち込み禁止の物についてですね。さっきも話しましたが、患者さんの安全のためにヒモ類は持ち込み禁止となっております。他にもライターや刃物など危険物の持ち込みは全て禁止させていただいてます。ご家族の方が当院まで患者さんの荷物を持ってきていただいた際に、危険物が入ってないか、荷物チェックを看護師の方で毎回させていただいてるんですが、危険物の混入などが無いようにご注意ください」

「はい」と母が言う。

「あと、患者さんのおこづかいについてですが、1人1万円までが上限です。金銭の管理については盗難防止の為に看護師の方でさせていただいてます。先程も言いましたが売店日が、女性の場合は月、水、金、日の週4日になってます」

「何円くらい要る?」と母が私を見て聞いてきた。

「わかんない。お母さんに任せる」と私は俯いて答えた。

「わかった」と母が言う。


 その様子を見ていた内田さんが笑顔でこう言った。


「売店はコンビニみたいな感じになってて、色んな日用品とか、お菓子やジュースとか売ってます。あんまり大きい声じゃ言えないけど、この病院の食事は正直言って全く美味しくないです。なので、売店でお菓子を買いまくることを個人的におすすめします」


 この人、あまりに正直っていうか、自由すぎない? 看護師がそんな発言していいの?


「私も実は、みくさんと同じ年齢の時にこの病院に入院してたことがあるんです。17歳の時です。入院2日目くらいで病院食に飽きて、残しまくって、毎日売店で買ったお菓子ばっか食べてました。あんまり良くないんですけどね。看護師や主治医にはちゃんとご飯食えって怒られるし」

「内田さんって、この病院に入院してたことあるんですか?」


 私は反射的に訊ねていた。


「そうなんです。17の時に長いこと入院したんですよ。みくさんと同じ年齢の時」


 私は少し意外だった。一見、明るくて朗らかで、なんだか私とは真逆の人に見えたから。でも、いくら表面が明るく見えたからって、その人の心にどんな闇が内在してるかなんて、誰にも分からない。


「売店にお酒が売ってたら最高なんですけどね〜。みくさんはお酒飲みます?」

「たまに缶チューハイ飲みます」

「何を飲むんですか? やっぱり今時のJKはスト●ングゼロみたいな強いお酒ですか?」

「私は、ほ●よいです。私はお酒に強くないから、3%のやつで気持ちよく酔えます」

「かわいい。私が17の時はジミーペイジに憧れてジャックダニエルっていうウイスキーを豪快にラッパ飲みしてました。あとウイスキーって、めっちゃ糞田舎のおばあちゃんちの壁の味しません?」

「糞田舎のおばあちゃんちの壁、食べたことあるんですか……?」

「ないと言ったら嘘になります」

「え」

「次は、面会に関してですね。面会は平日が11時から19時。休日が9時から19時までとなっております。ですが今はコロナウイルスの関係で、面会は出来ない決まりになってます。ご了承ください。あと、ご家族の方がみくさんのお着替えですとか、必要な荷物を持ってきていただく際は、今申し上げた時間内に届けていただければと思います」


 私は、内田紗希さんという看護師さんに興味を惹かれていた。というか、既に好きになっていた。可愛くて明るくて優しくて凄く自由奔放な人。

 どうして精神科の看護師になろうと思ったんだろう。いつかタイミングが合えば聞いてみたいと思った。


「あと、スマートフォン等の電子機器についてですが、当院では、入院患者さんのスマートフォンの持ち込みの方は、申し訳ないんですが、全面禁止にさせていただいてます」

「え、そうなんですか?」

「そうなんですよ。スマホくらい良いじゃんって私は正直思うんですけど、病院全体でそういうルールなんです……」


 私は無表情のまま、陰鬱な気分になった。スマホさえあれば、無限に時間が潰せると思ってたのに。スマホ無いなら、どうやって1ヶ月も時間潰せばいいんだろう。


「入院したら退院するまでスマホが全く使えなくなってしまうので、もし連絡を取っておきたい人がいたら、今のうちに取っていただいて大丈夫ですよ」


 連絡を取っておきたい人……。

 そんな人、この世に1人もいない。私は友達なんていない。

 私は黒いパーカーのポケットからスマホを取り出して、速攻で電源を落として、そのまま黙ってお母さんに手渡した。お母さんはバッグの中に私のスマホをしまった。

 内田さんはその様子を目の前で見ていたが、何事も無かったかのように笑顔で次に進んだ。


「スマートフォンとかパソコンとかの電子機器は持ち込めないんですけど、小説とかウォークマン的な音楽プレーヤーだったら、主治医の許可が下りれば持ち込めます。私が昔入院してた時は小説ばかり読んで時間潰してました。村上龍の小説おすすめです」

「村上龍?」

「はい。興味があったら是非。作品によってはめっちゃ読みづらいのが難点ですが。第1病棟にはライブラリーっていう、図書室みたいな空間があって、本や漫画の貸し出しをしてるんですけど、結構たくさん揃ってるので、いい暇つぶしになると思いますよ」


 私は一切小説なんて読まないから、小説家の名前を聞いてもピンと来ない。村上春樹くらいは、名前だけ知ってる。ノーベル文学賞を取りそうで全く取らない、じゃがいもみたいな顔の人。


「あ、今みくさんパーカー着用されてますけど、パーカーのヒモがちょっと病院の規則的にアウトかもしれません」

「えっと、ヒモ抜いた方がいいですか?」

「そうですね。申し訳ないです」


 私は、パーカーのヒモを引っ張って、抜いて、お母さんに手渡した。


「あと、ご家族への連絡手段は、スタッフステーションでテレフォンカードを買っていただいて、病棟内の電話BOXから電話を掛けることができます。ちなみにテレフォンカードの値段は1枚1000円です」

「はい」

「あとは……何か伝えることあったかな〜」

「……」

「あ、お風呂。お風呂はね、急性期病棟の患者さんの場合、2日に1回です。男女で隔日になってます。大浴場があるんですけど、浴槽とシャワー、どっちも使えます。お風呂の時間は朝の9時からなんですけど、時間になったら看護師がみくさんの病室に来てくれるので安心してください。あとは……大丈夫ですね。もし、入院中不明な点があったら、私じゃなくてもいいので、適当な看護師に気軽に聞いてみてください」

「はい」


 直後、内田さんの顔と視線はお母さんの方を向いて、お母さんに何枚かの紙を差し出した。


「お母様。みくさんは今回、医療保護入院という形での入院になりますので──」


 私は、情けない気持ちになりながら、俯いた。

 私の家は母子家庭で貧乏だ。

 1ヶ月も入院したら、いくらお金が掛かるんだろう。

 あの時、衝動的に薬なんて飲まず、確実に死ねる方法を選択しておくべきだった。現代の薬なんかで死ねるわけないじゃん。

 母のことは小さい頃から嫌いだった。

 でも今は、100%嫌いとは言えない。

 母はずっと1人で私を育ててくれた。

 でも私は、妊娠してしまった子供を何の迷いもなく中絶した。産むなんてありえなかった。心は大して痛くなかった。

 中卒で工場で働きながら、男に体を売って生活費を稼ぐ母の人生は、辛かったのだろうと容易に想像できる。

 今の私は、きっと何の抵抗もなく自分の体を売ることができる。私はもう心が完全に汚れきっているから。呆気なく妊娠して、呆気なく中絶した。

 せめて、今回の私の入院費くらいは、私が自力で稼いで、母に返さないといけない。

 体を売るのが1番良いと思う。

 私に普通の仕事はできそうにない。17歳で無職だけど、バイトすら怖くて、1度もしたことない。人が怖い。私は人と喋るのが苦手だし、愛想も悪い。

 とりあえず、なんとか入院費の工面はしないと。もう私が私を許せない。これ以上自分を嫌いになりたくない。これ以上、最低になりたくない。

 私の自業自得で精神科に入院しておいて、入院費を母に払わせるのは、だめだと思う。


 ──ああ。だめだ。今日もずっと、私は頭がすごくぼーっとしている。霧がかかってるような感じ。体もふらつく。私の脳はダメになってる。神経伝達物質が異常をきたすと、人間の脳の働きはすぐおかしくなる。脳がおかしくなると、目に映る全世界が狂ってしまう。でも他人からはその地獄が見えない。私がまだ高校に通ってた頃、電車の中でたまに病気の人を見かけた。


「全員、私のことを殺そうとしてるんでしょう!? 私の命を狙ってるんでしょう!? こっちはお前たちの魂胆が全部分かってるんだ! 黙ってないで何とか言え! 私が一体なにをしたって言うの!」


 と、おばさんが電車の中でずっと発狂して金切り声を上げていた。その姿を見て、友達と笑ってる高校生が何人かいたけど、私はその神経を疑った。どこに笑う要素があるのか分からない。人間、いつどこで自分の世界が崩壊するか分からないのに、なんでそれを他人事だと思えるんだろう。人は簡単に壊れる。私だって簡単に壊れた。元から壊れてる部分はあったかもしれないけど、妊娠して捨てられて中絶して高校を辞めた私は脳がおかしくなって鬱病になった。そんな不幸、きっとよくあるのに。よくあること。よくある。私のお父さんに会ってみたい。どんな顔なのか見てみたい。できれば、人間のクズであってほしい。例えば、安い給料をギャンブルと風俗と酒で使い果たす、目先の欲望しか見えない基礎疾患まみれのバカが私の父親であってほしい。腹はブヨブヨ、歯は真っ黄色で、何本も抜けていている。口はドブと糞の臭気。頭は禿げ上がっていて、髪はギトギト。服は酸っぱい臭いがする。私は、そんな男から生まれた娘がいい。逆に優秀な男の精子から私が生まれてたら、不自然だ。誰か私を殺しに来てほしい。早く死にたい。


「────。──さん。みくさん」


 私の名前を呼んでいる。 

 私は考え事を中断し、頭をゆっくり上げて、内田さんの目を見る。澄んでて大きいけど優しい目。ずっと見ていると吸い込まれそうになる。


「みくさん、ずっとぼーっとしてたけど、大丈夫? 疲れさせちゃってごめんね」

「疲れてない、大丈夫です」

「少しでも具合悪くなったら、すぐ言ってね」

「はい」

「みくさん、最後に体重だけ測らせてもらってもいいかな。ごめんね。これで終わりだからね」

「はい」


 私の横に体重計がゆっくり置かれた。私はスニーカーを脱ごうとした。


「あ、靴のままで平気だよ」

「はい」


 私は体重計に乗った。

 針は38キロで止まった。153センチ38キロ。


「はい、オッケーです」


 その声を聞いて、私は体重計から降りた。


 ◆


【診察室3】を、内田さんとお母さんと私で出た。看護師や事務員が沢山いる空間を通過して、スタッフステーションを出た。私の左には、第1病棟の外に繋がる大きな扉、右には、入院患者たちのいる病棟がある。まだ1人も患者の姿は見ていない。

 私は俯いているが、内田さんが私の方を見ているのはわかる。


「みくちゃん。これで、退院するまでお母さんとは会えなくなっちゃうけど……」


 みくちゃん、なんて呼ばれたのは中学生のとき以来だ。あ、いや、あの大学生も私のことをみくちゃんとか呼んでいた。気持ち悪い。

 私はゆっくり顔を上げて、母の目を見る。すると母が言う。


「みく……」

「お母さんごめんなさい」

「なにが?」

「色々」

「みくのせいじゃない」

「……」


 ◆


 そのうち母は大きな扉の向こう側に行って、私だけが第1病棟に残された。

 内田さんは扉に鍵を閉めた。これでもう私は外に出られない。

 やがて内田さんが言う。


「みくちゃん、さっき頭がぼーっとするって言ってたけど、ずっとモヤがかかってる感じ?」

「あ、はい」

「脳がすごく疲れてる状態なんだね。脳が頑張りすぎて疲れてる状態。みくちゃんには、ちょっと休む時間が必要なんだよ」

「はい」

「ちょっと着いてきて。病室まで案内する」

「はい」


 内田さんの背中を見ながら歩く。

 少し歩くと、大きな四角いテーブルと椅子が沢山ある広い空間に出た。5〜10人くらいの患者が椅子に座っている。男女比は半々くらい。前方にテレビがあって、大体の人はそれを見ていた。1人、本を読んでる若い男の人がいた。若い女の患者が3人くらいで固まって喋っている。


「ここはホールって言って、みんなでお昼ご飯食べたり、作業療法をしたりする場所。今はみんな自由に過ごしてる」

「……」


 何人か、私の方をチラチラ見てきた気がした。

 私は怖くてすぐに俯いた。

 思ったより、男女共に若い人が多い。

 

「じゃあ行こうか」


 内田さんに着いていって、ホールを通過すると、廊下に出た。

 端から端まで引き戸の扉が並んでいる。扉には各部屋の番号が書いてある。

 内田さんは廊下の1番奥まで歩いていった。どうやら1番端っこの部屋が、私の部屋になるらしい。

 

「101号室。ここが、みくちゃんの最初の病室」


 そう言って、内田さんは扉の鍵を開けた。そして、その奥にもう1枚扉があって、更に鍵を開けた。


「閉鎖病棟だけは扉が二重なんだ」


 内田さんは、1枚目の扉と2枚目の扉の間の空間で白いサンダルを脱いで、部屋の中へと進んだ。私もそれに続く。

 本当に何もない部屋だ。

 たぶん8畳より少し広いくらいの空間。部屋の中心に白い布団と枕がある。その近くに空っぽの透明なボトルが置かれてる。

 あるのはそれだけ。


「マジで何も無い部屋でしょ」と内田さんが言った。私は俯きながら無表情で「はい」と答えた。「私も17の頃、101号室に入院したよ。懐かしい」

「何日くらい、いたんですか?」

「何日だっけなぁ。あまり覚えてないけど、1週間もしないうちに開放病棟に移れた気がする」

「うん」

「それでこれが、トイレ」


 部屋に入って左に進むと、すぐトイレがある。

 でもトイレにドアはついていない。ドアが無いから、便器が剥き出しで見えている。しかも便器に蓋がついてない。


「あの、トイレにドアってないんですか」

「ないんだな、それが」

「この部屋、独房みたい」

「めっちゃ独房だよね」


 内田さんがトイレの内部を説明してくれた。


「もし体調が悪化したり、緊急事態になったら、このオレンジの【呼出】っていうボタン押すと、看護師が速攻で駆けつけるよ」

「わかりました」

「あ、ボトル空っぽだから、水入れとくね」


 そう言って、内田さんは布団のそばにあるボトルを拾い上げて、部屋の扉付近の水道で水を汲んでくれた。

 

「閉鎖病棟は常に施錠されてて、看護師が鍵を開けないと外に出られないようになってるから、患者さんは水すら自由に飲みにいけない。だから閉鎖にはボトルがあるんだ」

「へえ」

「あと、閉鎖病棟に入ってる人は、部屋の出入りがある度に看護師にボディーチェックされる。あと布団の裏もチェックされる」

「えっ……」

「あ、そんなに厳重じゃないよ。ぽんぽんって触るくらい。一応、閉鎖の患者さんだけは、外から持ち込んだ物で自分を傷付けたりしないようにボディーチェックする決まりがあるんだよ。みくちゃん、ばんざい」


 私は、少し腕を上げた。

 その直後、脇あたりから足首のあたりまで、内田さんに高速で軽くぽんぽんされた。


「ボディーチェックは、こんな感じだよ」


 やがて、内田さんは、部屋の扉のガラス部分に埋まってる電子時計を見て言った。


「今、何時? あ、11時半か。そろそろお昼の時間だね。どうする? 閉鎖病棟の人もお昼ご飯だけはホールで他の患者さん全員と一緒に食べるっていう決まりになってるんだけど、みくちゃん今日はここでお昼食べようか。さっき来たばかりで、疲れてるよね」


 できたら、ホールでご飯は食べたくない。人が多い所は嫌だ。


「ここがいいです」

「わかった。じゃあ、みくちゃんのご飯持ってくるから、ちょっと待っててね」


 そう言って、内田さんは部屋から出ていった。

 その瞬間、私は寂しくなった。内田さんとずっと一緒にいたい。

 

「……」


 私は無意識に溜息を漏らしていた。

 やがて、遠くで、ガタガタと音が聞こえてきた。配膳車の音だろうか。

 5分ほど経つと、食事が乗ったピンクのおぼんを持った内田さんが私の病室に戻ってきた。


「じゃあこれ、床に置いちゃうね」

「すいません」

「食べ終わったら、そのまま床に置いといて。そのうち看護師が回収にくるから」

「はい」

「食べられそうになかったら無理して全部食べなくて大丈夫だよ」

「はい」

「じゃあ、またね」


 やがて内田さんは1枚目の重そうな扉を閉めて鍵を施錠した。次に2枚目の扉も施錠して、部屋から出ていった。

 私は立ち上がって、試しに、扉を開けようとしてみた。もちろん扉は開かない。

 本当にここ閉鎖病棟なんだ……。

 私は食欲が無かったが、頑張って食事を摂ることにした。

 ご飯と主菜と副菜と汁物。

 それぞれ頑張って3分の1近く食べたところで限界が来た。

 ずっと座って白い壁を見てぼーっとしていると、やがて、ガチャガチャと扉の鍵を開ける音がした。やがて、筋肉質な男性看護師が入ってきた。髪はワックスで整えてある。


「新庄さんお食事下げちゃっても大丈夫ですかー? まだ食べてます?」

「あ、もう平気です」

「じゃあ下げちゃいますねー」


 食事が下げられたと思ったら、次にこう言われた。


「食後のお薬が2錠ですねー」

「……」


 私が片手を差し出すと、その上にポトリと錠剤が落とされた。この人がいなくなったら飲もうと思って、何もせずにいたら、


「薬は看護師の前で飲む決まりなんで」


 と言われた。そんな決まりがあったんだ。

 私は口に錠剤を含んで、ボトルの水で飲み込んだ。


「はい大丈夫でーす」


 そう言って看護士は出ていった。

 私の部屋は再び施錠された。

 

「……」


 歯を磨きたかったが、歯ブラシはまだ無い。

 この部屋は本当に、布団以外に何も無い。

 午後、何をすればいいのか、ずっとここにいればいいのか、わからない。内田さんに聞いておけばよかった。

 さっきの男の人は、なんか口調も冷たくて感じが悪かった。ああいう感じの看護師の方が多いのかもしれない。やっぱり内田さんが特別優しいんだ。

 何もすることないから、とりあえず布団で横になって、目を閉じることにした。私は胎児みたいな姿勢になった。


「……」


 ──寂しい。

 内田さんが優しくて可愛かった。私のお姉ちゃんになってほしい。内田さんって何歳なんだろう。内田さんって下の名前なんていうんだっけ?

 思い出した、紗希ちゃんだ。さきちゃん。

 紗希ちゃん、

 さきちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 紗希ちゃん

 さきちゃん。

 なんで私はちょっと優しくされただけで人のこと好きになるんだろう。人が嫌いなのに簡単に人を好きになる。こういう性格が本当に気持ち悪い。自分で短所だと自覚してるんだから矯正しないといけない。

 目を閉じて、ずっと内田さんのこと考えてるうちに、私はそのうち眠っていた。

 変な夢を見た。

 私は知らない公園で母親と2人で歩いていた。すると、遠くから知らない男の人が現れた。スーツを着ていて、普通のサラリーマンっぽい容姿だった。顔も、どこにでもいそうな普通のおじさん。そのおじさんが突然「久しぶり、みく」と言った。私は何故か、その人が私のお父さんであることを確信していた。「これからはお父さんとお母さんとみくの3人で暮らそう」とお父さんが言った。お母さんは、嬉しそうに笑っている。私も嬉しかった。そのうちお母さんが笑顔で「今日は3人で美味しいもの食べに行こうか!」と言った。私たち3人は、車に乗って、国道を走り始めた。


 ◆


 その夢から覚めると、私は何故か、ボロボロ泣いていた。夢の中で普通の家族になれたことが死ぬほど嬉しかったんだと思う。


 ◆


 16時くらいに目が覚めた。最近ほとんど眠れてなかったから、久しぶりにこんな長時間寝た気がした。私は涙を拭いた。そのうち涙は止まった。

 扉は閉まっている。結局、ずっとここにいて正解だったらしい。

 電子時計の数字が変わり続けるのをずっと眺めていたら、そのうち、16時20分くらいになった。

 すると、部屋の扉の鍵が誰かによって開けられた。

 入ってきたのは内田さんだった。見た瞬間嬉しく思い、私はテンションが上がった。内田さんは大きい紙袋を両手にそれぞれ1個ずつ持っていた。


「みくちゃんのお母さんが、さっき荷物届けてくれたよ〜」

「はい」

「荷物は部屋の中には持ち込めないから、扉と扉の間に置いとくね」

「はい」

「みくちゃん、この部屋めっちゃ退屈じゃない? 何もすることないから、時間が進むのも超遅いんだよね」

「でも、さっきまでずっと寝てて……」

「そっか。寝られてよかった。やっぱり疲れが溜まってたんだね」

「自分だとよくわかんないです。もしかしたら他の人はもっと辛い状態が普通で、私は大して辛くもないのに甘えてるだけかもしれない」

「自分が辛いと思ったら、辛いんだよ。だって心の容量は人によって違うし、辛さって単純に他人と比較できるものじゃないから」

「……」

「でもちょっと顔色が良くなって元気になった感じがする。さっきはもっと具合悪そうに見えたよ」


 俯いていた私は、ふいに顔を上げて、内田さんの方を見た。目が合う。

 ──気が付くと、私は心の声が漏れていた。


「紗希ちゃん」

「なに?」

「紗希ちゃんって呼んでもいい?」

「いいよ」

「紗希ちゃんが私のお姉ちゃんだったらよかったのに」

「私なんかがお姉ちゃんでいいの? みくちゃんのこと多分めっちゃこき使うよ。あははは」

「別に良いよ。私1人っ子だから寂しかった。お姉ちゃんが欲しかったの」

「1人っ子なんだね。私は馬鹿な兄と弟がいるよ。私も妹かお姉ちゃんが欲しかったな」

「何歳?」

「私?」

「うん」

「私は24。まだ看護師になって1年も経ってないよ」

「なんで精神科の看護師になりたいと思ったの?」

「あんまりかっこいい理由じゃないよ。私が17の時にここに入院して、その時、精神科の看護師って楽そうだなって思ったのがきっかけ。元々高校も看護科だったから、その流れで専門学校行って資格取って、たまたまここに就職した感じ。あとは、人の役に立つ仕事に就きたいと思ったからかな」

「そうなんだ」

「あとね、1つ言っておかなきゃいけないことがある」

「え、なに?」

「看護士は特定の患者さんと仲良くしちゃいけない決まりになってるんだ」

「話すのも駄目なの?」

「ほんとは個人的な会話はあまりしちゃいけないけど、まぁバレなきゃいいんだよ。犯罪だってそうでしょ? 犯罪はバレなきゃ犯罪じゃないんだよ」

「うん」

「他の看護師とか先生には言っちゃ駄目だよ、内田さんが仕事サボってますとか」

「絶対言わないよ」


 ◆


 そのうち内田さんは他の看護師さんに遠くから呼ばれて、どこかに行った。

 時間がしばらく経って冷静になってから私は自分の全ての発言が恥ずかしくなって、顔がめちゃくちゃ熱くなって、自分の頭を何度も叩きまくった。

 どうしよう。私は余計なことばかり言ってしまった。紗希ちゃんなんて言ってしまった。紗希ちゃんが私のお姉ちゃんだったらよかったのになんて言ってしまった。死ぬほど恥ずかしい。私は布団に潜って足を強くバタバタした。

 調子に乗って喋りすぎた。気持ち悪い奴だと思われた。優しいから態度に一切出さないだけで、内心では私のことを頭がおかしくて気持ち悪い女だと思ってるに違いない。私は終わっている。私は駄目だ。終わってる。気持ち悪い接し方しかできない。頭がおかしいから。多分もう嫌われた。嫌われちゃった。私はいつも人との距離の詰め方がおかしいんだ。自分で分かってるのに治せない。嫌だ。


「もう駄目だ私なんて。生きてる価値がない。しんだほうがいい。もう駄目、もう駄目だ」


 私は今、お酒が欲しい。お酒を飲めば自己嫌悪は曖昧になる。

 内田さんは、看護師に呼ばれて、急いでどこかに行ったから、私の部屋の施錠はしていかなかった。

 私はこの隙に歯を磨いた。扉の鍵を閉められてしまうと歯磨きさえできない。

 歯磨きを終えて、布団の上に座っていると、そのうち内田さんが戻ってきたので、私は気分が暗くなって俯いた。私はもう多分嫌われてる。俯いてると、髪で視界が覆われて何も見えない。


「ごめんね。急に呼ばれちゃって。もう扉閉めちゃっても平気?」

「はい……」

「大丈夫? 具合悪いの?」

「もう私のこと嫌いになっちゃった……?」

「え、どうして? 好きだよ」

「え! ほんと!? 超嬉しい!!」


 私は瞬時に顔を上げた。


「うん、みくちゃんのこと好きだよ」

「ありがとう! 私も紗希ちゃんのこと大好き!」

「みくちゃんかわいい」

「えっ! なんでそんなこと言うの!?」

「だってかわいいから」

 

 ◆


 やがて扉に鍵が閉められて、私は再び何も無い部屋で孤独になった。

 嫌われてないことが分かって、しかもかわいいって言われた私は有頂天になった。布団を被って、足をバタバタしながら、ずっとさっきの言葉を反芻していた。

 自然と、少し笑っていた。


 ◆


 その日の夜9時前に、私の病室に看護師が入ってきて、私に眠剤をくれた。

 今日は昼寝を何時間もしてしまったから眠れないかなと思っていたけど、12時頃に眠りにつくことができた。

 朝の4時に目が覚めて、それから私は寝付けなくてずっと起きていた。

 私の人生はこれからどうなるんだろう。

 そんなことばかり考えていた。

 朝の7時に朝食が運ばれてきたけど、私は全部食べきれずに残した。食後の薬を飲んだ。体温を測らされた。

 そのまま何もせずに横になってぼーっとしてるうちに8時半になって、私の部屋の扉の鍵が開けられた。誰だろうと思って体を起こしたら、医師が4人と、看護師とかよく分からない人も沢山入ってきて、みんな私に挨拶してきた。その中に内田さんの姿もあった。内田さんはとても真面目な顔をしている。


「おはようございます、回診です」と尾崎先生が言う。

「おはようございます……」と私は言う。


 尾崎先生はしゃがんで、私と目線の高さを合わせてきた。


「新庄さんは昨日が入院初日だったけど、どうだい。特に問題は無さそうかな?」

「はい、問題無いです」

「体調の方も平気そう?」

「はい」

「よかった。じゃあ今日もよろしくお願いします。何かあったらいつでも言ってください」


 やがて、みんな病室から出ていった。

 内田さんが、最後に小さく手を振ってくれた。

 

 ◆


 その日の11時半頃、内田さんが鍵を開けて、私の病室に入ってきた。


「みくちゃん、そろそろお昼の時間なんだけど、お昼は患者さんみんなホールで食べることになってるんだ。みくちゃんも今日はホール行ってみる?」

「……あんまり行きたくないけど行く」

「ありがとう。じゃあ行こっか。大丈夫、怖い人は1人もいないから」

「本当?」

「うん」


 ホールに行くと、もう既に多くの人が椅子に座っていた。少しざわざわしている。

 私は伏し目がちになり、内田さんに小声で訊ねる。


「紗希ちゃん、座る場所ってどこでもいいの?」

「うん。決まってないからどこでもいいよ」


 1番奥の端の小さいテーブルの所にはまだ誰もいなかったので、私はそこに1人で座った。

 座ってぼんやりしてたら、たぶん私と同年代くらいの女の子が笑顔で話しかけてきた。


「ここって空いてますか?」

「あ、空いてます」


 無表情でそう言うと、その子は私の向かいに座った。


「はじめまして。もしかして最近入ってきた子?」

「あ、はい。昨日から入院してます。はじめまして」

「昨日からなんですね。なんか、見たことない子がいるなぁって思ったから」

「……」

「何歳ですか? 私17です」

「あ、私も17」

「えっ、私同い年の患者さんに会ったの初めて。じゃあもしかして4月から高3?」

「高校やめてなかったら、そうなるはずでした」

「じゃあ私と同じ学年。高校やめちゃったんだ」

「あ、うん。色々あって、ノリでやめちゃった」

「そうなんだ。でも高校やめても高認取れば大学とか専門学校行けるし、なにも気にすることないよ」

「ありがとう」

「あとは通信制に編入学するのもありだと思う。全日制の高校で取った単位は移行できるし、ほとんど通わなくても卒業できるクラスもある。私も最初は普通の女子校に通ってたんだけど、色々あって保健室登校になって、最後は不登校になったんだけど、1年の単位だけ何とか全部取って、2年から通信制高校に転校したんだ」

「あ、そうなんだ」

「通信制はね、見るからに不良っぽい人と、見るからに引きこもりっぽい人の二極化が凄い。中間があんまりいないの」

「うん。ちょっと怖いイメージかも」

「私も最初はなんか怖いなって思ってたんだけど、怖い女の子も話してみたら以外とみんな優しいところがあった。そういえば名前言ってなかった。細川玲奈っていうの。よろしくね」

「あ、よろしく、細川さん」

「玲奈でいいよ」

「わかった、私は、新庄みくっていう名前」

「みくちゃん。いい名前。たしかに、みくって感じの可愛い顔してるよね」


 みくって感じの顔って一体どういう顔だろう。と思ったので、そのまま質問してみよう。と思ったが、やっぱりやめた。

 そのうち玲奈ちゃんは、私の髪を見て言った。


「みくちゃん髪めっちゃサラサラしてる」

「ありがとう」

「ちょっと後ろ向いてみて」

「うん」


 私は椅子に座りながら半回転して玲奈ちゃんに背中を向けた。


「もう少しで腰に届きそう。なんかお人形さんみたい」

「ありがとう。人間だるいから人形になりたい」

「最後に髪切ったのはいつ?」


 私は再び半回転して、前を向いて、玲奈ちゃんの目を見た。

 私は目を見て話すのが怖くて苦手だが、この世の大体の人は相手の目を見て話すから、私も目を見なきゃいけない。目を見ることに集中すると、今度は会話が適当になる。

 大前提として、私は人とのコミュニケーションが苦手だ。

 私は言う。


「私が最後に髪切ったのいつだっけ。もう忘れちゃった。前髪だけいつも自分で切るようにしてるよ」

「みくちゃん顔ちっちゃくて羨ましい。私、顔デカすぎて3頭身しかないよ」

「そうだね」


 私が真顔でそう言うと、玲奈ちゃんは何故か楽しそうに笑った。


「みくちゃんって面白いね」

「面白い話とか楽しい話、全くできないよ」

「世界観が少し独特っていうか。いい意味で」

「いい意味で?」

「うん。ひょうひょうとしてる感じ」

「ありがとう」

「私、室内にいる時は髪がサラサラしてるんだけどさ、外に出るとパサパサしちゃう。どうしたらいい?」

「外に出なければいいと思う」

「うん、まあそうなんだけどね」

「ごめん」

「全然いいよ」

「……私、正解の会話がわからない。空気もあまり読めない。あとになってから、あそこは間違ってたなって1人で脳内反省会する。その繰り返し」

「会話の正解なんて無数にあるんじゃない? みくちゃんが思ったことをそのまま言えばいいんだと思う。少なくとも私は話してて楽しいよ」


 本当に楽しいのかな……。私に気を遣ってるだけかも。

 私は訊ねた。


「玲奈ちゃんはいつから入院してるの?」

「私は2ヶ月入院してる。あと2ヶ月月で退院って先生に言われた」

「4ヶ月か、長いんだね。私、昨日、1ヶ月入院って言われたんだ」

「そうなんだ。なんか私、正直この病棟で仲良くしたい子が今までいなかったから、みくちゃんと知り合えてよかった。仲良くなりたい」

「ありがとう。私でよかったら仲良くしてほしい。私あんまり自分から話しかけられない性格だから、玲奈ちゃんが話しかけてくれてすごい嬉しかった」

 

 そんな会話をしてたら、そのうち大きい配膳車が来た。そして看護師が患者の名前を呼ぶ。呼ばれた患者は前に行って、食事を受け取る。そのうち玲奈ちゃんと私の名前も呼ばれたから、前に行って食事を受け取った。自分の椅子に戻った人から、各々自由に食べ始めている。

 今日のお昼はカレーだった。私はカレーがあまり好きではない。

 サラダを食べていると、玲奈ちゃんが言った。


「みくちゃんが1番好きな食べ物なに?」

「野菜ジュース」


 ◆


 私はまた食事を半分くらい残した。これでも普段より食べる努力をしている。

 昼食後の薬を看護師から渡されて飲んだ。

 玲奈ちゃんと私はそれぞれ自分の部屋に戻った。私の部屋の扉は開いている。その隙に歯を磨いた。

 歯を磨き終えて、布団の上で体育座りしていると、そのうち内田さんが私の部屋の鍵を閉めに来た。

 私は言った。


「ねえ紗希ちゃん、私さっき細川玲奈ちゃんっていう患者さんと少しだけ仲良くなれた。すごい良い人だった。17で私と同い年」

「そうなんだ、細川さんと。良かったね。細川さん優しくて良い子だよね」

「うん。さっき思ったんだけど、私はこの精神病院に入院しなかったら玲奈ちゃんとも紗希ちゃんとも知り合えなかったから、自殺に失敗して少し良かったかも」

「私も、みくちゃんが他の病棟じゃなくて第1病棟にたまたま入院してくれてよかった。私のこと内田さんじゃなくて紗希ちゃんって呼んでくれる患者さん初めて」

「紗希ちゃんは紗希ちゃんだよ。てか私普通にため口使いまくってるけど敬語じゃなくていいのかな?」

「ため口でいいよ」

「じゃあ2人の時はずっと、ため口で話す」

「うん。そういえば、昨日よりちょっと元気になったね。顔色もよくなった」


 ◆


 ──結局私は5日くらい閉鎖病棟にいた。


 入院6日目の朝に尾崎先生が私の部屋に来て「新庄さんの状態も安定しているようだし、閉鎖から解放に移りましょう」と言った。

 その言葉を聞いた時、私はかなり嬉しかった。やっとこの独房から抜け出せる。たった3日しかいなかったのに、まるで永遠のように感じられる退屈な部屋だった。

 私は自分の荷物を両手に持って、101号室から125号室に移った。

 125号室は、今までの部屋とは全く違っていた。まず、部屋の扉がスライドドアで鍵がついていない。つまり今日から私の意思で自由に部屋の出入りができる。部屋の中身も全く違う。部屋には丸いテーブルと、ふかふかしてそうな椅子と、ベッドと、テレビがあった。透明なガラスの窓もある。脱走防止のためか、窓にはストッパーがついていて5センチ程度しか開かないが、そんなのはどうでもいい。窓が少しでも開けば部屋の換気ができる。そしてトイレにはちゃんとドアが付いている。

 この部屋はしっかり人権がある部屋だ。

 私は部屋を引っ越した喜びで、コサックダンスを踊りたくなったが、尾崎先生がそばにいるから自重した。

 私は尾崎先生に訊ねた。


「部屋ってもう自由に出入りしていいんですか?」

「うん、いつでも自由に出歩いてもらっていいですよ。今日からはOTにも参加できる。売店にも行ける」

「OT?」

「作業療法のこと。日曜日以外、毎日10時から1時間くらいやってるんだけど、曜日によってやってることも違うから、気が向いたら参加してみてください。あと、強制参加ではないよ」

「はい」

「あと、今日から部屋に鍵が無いから、一応盗難には気をつけてください。たまに自分の部屋と間違えて入っちゃうお年寄りの患者さんもいるから」

「わかりました」


 やがて尾崎先生は私の部屋から去った。

 とりあえず私は自分のコップを持って、自分の部屋の外に出た。

 自由に部屋を出られるというだけで、こんなにも喜びを感じられるとは思わなかった。

 私はホールに向かった。ホールには、数人だけ人がいた。みんな誰かと話すわけではなく、それぞれ独立している。テレビを見る人もいれば、本や新聞を読む人もいた。こうして見ると、みんな静か。攻撃的な人なんていない。1人、ヤンキーみたいな男の人がいるが、その人もすごく静かで1人でいる。

 私はホールの端にあるドリンクサーバーから温かい緑茶を自分のコップに入れて、ちょびちょび飲み始めた。

 近くの壁に、OTの予定表が貼ってあったから見た。今日はたしか金曜日。金曜日は【自由に過ごす時間です。雑誌や漫画などもあります】って書かれていた。

 その紙の横に【スタッフ紹介】っていう張り紙があった。第1病棟の医者や看護師やその他スタッフの顔写真が貼られている。私はお茶を飲みながら、何となく紗希ちゃんを探した。スタッフがめっちゃいる中、1秒くらいで見つけた。マスクしてない時の顔を初めて見た。マスク外しても超可愛い。私はスタッフ全員の顔を見た。紗希ちゃんがスタッフの中で1番圧倒的に可愛かった。

 ところで、第1病棟は1階だから、ホールから中庭に出られるようになっている。木製の床があって、木製のテーブルと椅子が置かれている。

 久しぶりに外の空気を吸いたい。何日も吸ってない。

 私は掃き出し窓を開けて、中庭に出た。私1人しかいない。3月下旬の暖かい感じが気持ちよかった。風も冷たくない。

 中庭の真ん中には変な木が生えている。私は椅子に座って、お茶を飲みながら、変な木をぼーっと眺めていた。それにしても変な木だ。途中からめっちゃ左曲がりになっている。なぜ真っ直ぐ育たなかったのか。もしかしたら、この曲がった木が生えてることには意味があるのかもしれない。「おい患者、お前らはこの木のように折れ曲がってしまった人間なんだ。お前らは救いようがないほど屈折してるんだ」という病院側からのメッセージ。

 

「──みくちゃんおはよう」

「?」


 木に集中しすぎて、いつのまにか細川玲奈ちゃんが私の向かいの椅子に座ってることに一切気付かなかった。

 私は目を見て言った。


「あ、玲奈ちゃんおはよう」

「ものすごいぼーっとしてたね」

「そこにめっちゃ変な木あるでしょ。その木をずっと見てたの」

「そうなんだ。たしかに変な木」と言って玲奈ちゃんは笑った。

「変な木だよね」

「みくちゃんってよく自分の世界に入り込むこと多い?」

「1人でぼーっと色んなこと考えるのは好きかも」

「そういう人はクリエイター気質だと思う」

「そうなの? でも私なんの才能も無い」

「わかんないよ。才能の塊かもしれない。自分だと何とも思ってないかもしれないけど、私から見て、みくちゃんは孤高の天才感がすごい。カリスマ性がある」

「知らなかった。私、天才でカリスマだっただ。嬉しい。ありがとう」


 私はお茶を飲んで、言った。


「そういえば今日から、閉鎖から解放に病室が移ったよ。自分の意思で外に出られるようになった」

「そうなんだ。よかった」

「自由っていいね」


 その後も、玲奈ちゃんと喋ってたら、そのうち玲奈ちゃんの主治医の女の先生が中庭に現れた。


「お話し中すいません、細川さん、ちょっと診察室に来てもらっても大丈夫ですか?」

「あ、はい」


 玲奈ちゃんは椅子から立ち上がり、私に小声で「ごめん、行ってくる」と呟いた。私は無言で頷く。

 時々、こうして主治医に呼ばれて、ゲリラ的に診察を行うことがある。私もたまに尾崎先生に呼ばれる。

 治療の話もするが、趣味の話とか好きな事とか、全く関係ない話も振られたりする。

 尾崎先生との会話の中で1番印象に残ったのは「僕、フェイスブックやってるような奴ら、大嫌いなんですよ〜」と楽しそうな笑顔で言ってた事だった。「私もフェイスブックやってる奴嫌いです」と同調しておいた。


 ◆


 玲奈ちゃんが診察室に行って、1人ぼっちになった私は、自分の部屋に戻った。

 そういえば今日は9時から女性患者のお風呂の時間だ。私はいつもシャワーだけだが。

 最近気付いたが、この病棟は男より女の患者の方が割合がだいぶ多い。だからお風呂が混む。お風呂の時間も無限じゃないから、できるだけ早めに行っておいた方がいい。私は髪が長いから乾かすのにも時間がかかる。

 私は必要な荷物を持って、9時よりだいぶ前に大浴場に向かった。(大浴場で大欲情)

 脱衣所へ繋がる扉を、ゆっくり開けてみると、こちらに背を向けて立っている紗希ちゃんが数メートル前にいたので私は驚いた。

 耳にスマホを近づけている。仕事サボって誰かと電話してるみたいだ。茶色のボブが小さく揺れている。紗希ちゃんは私の存在に気付いていない。

 プライベートな事だから盗み聞きは良くないと思ったが、好奇心が勝ってしまった。私は扉の隙間から顔だけ覗き込む。

 やがて紗希ちゃんが電話相手に向かって喋り始めた。

 

「──さっきライン見たよ。今日の面接9時半からだよね。会社に全然辿り着けないってどういうこと? え、道に迷った? 勇輝、今どの辺? え、待って嘘でしょ。今、埼玉県!? 信じられない……なんで群馬県から出ちゃったの? 勇輝どんだけ方向音痴なんだよ。それで今は埼玉のどこ。え、所沢!? 所沢ってもうほとんど東京じゃん。てか、なんで何の疑問も抱かず県外へと爆走し続けてんの? 勇輝はもう埼玉すら通り越そうとしてるんだよ。一体どこ目指してんだよ。普通序盤であやまちに気付かない? 高崎の会社に行こうとして所沢に行っちゃうってある意味天才だよ。てか私たちが住んでるマンションが既に高崎なんだから、道に迷う要素ないでしょ。もう何やってんのマジで。なんなん。超むかつく。勇輝には制裁が必要だな。今日から勇輝に経済制裁する。おこづかいちょっとだけ減らすから。勇輝のおこづかい、これからは月10円でいいよね。10円あれば、うまい棒1本買えるでしょ? え、なに? 4月から12円に値上げされるから、うまい棒1本も買えないの? 知るかバカ。ヒモやめようと決意して、就職活動を頑張ってるのは嬉しい。でも、さすがに所沢まで行かれたら失望しかないよ。私、今すごく怒ってるから!」


 すごく怒ってる。

 紗希ちゃんは「ゆうきさん」という人にキレている。その直後、紗希ちゃんはガックリと項垂れて、露骨に凹んでいる様子だった。

「はぁ……」と溜息をついている。

 その後も電話は続く。


「勇輝。カーナビのアプリは使ってるよね? そっか、カーナビに真面目に従った上で道に迷っちゃったんだ、ちょっと何言ってるかよく分かんない。面接9時半からだから、絶対間に合わないね。今日は諦めなよ。『身内に不幸があったので面接の日を変更していただくことは可能ですか?』とか会社に今連絡しなよ。うん。うん。てか、こうなるんだったらちゃんと下見しとけばよかったね。私は言ったよ。『勇輝はマジで死ぬほど方向音痴なんだから事前に1回会社のそばまで車で行く練習しといた方がいい』って。そしたら勇輝『なにそれ。めんどくせえ』って言ってエルデンリングとかいう謎のゲーム始めたんだよ。日本でも最強の方向音痴なんだから、方向音痴なりに対策しておくべきだったね。うん。面接が苦手で落ちるとかなら仕方ない。でも会社に辿り着けないから落ちるって、ただ勇輝が超やべぇ奴なだけじゃん。スタートラインにすら立ってないんだよ。今日、うちに帰ったら経済制裁と鉄拳制裁するから。最期の晩餐、何食べるか決めときな。仕事中だから切るよ。うん。じゃあね」


 そこで紗希ちゃんは電話を切った。

 何回も「ゆうき」って言ってた。彼氏さんかな。

 1番びっくりしたのは、経済制裁とか鉄拳制裁とか最期の晩餐とか、物騒なワードが出てきたこと。もしかして紗希ちゃん、普段彼氏に暴力振るってるの……? 嫌だ。紗希ちゃんがそんな怖いことするわけない。

 やがて紗希ちゃんはスマホをポケットにしまって、


「ちゃんと家まで帰ってこれるのかな。道に迷って永遠に帰ってこなかったらどうしよう。日本は広いからなぁ……」


 と独り言を呟いた。

 やがて、紗希ちゃんがゆっくり振り返りそうになったから、私は咄嗟に脱衣所の扉を閉めてその場から走って逃げた。


「だ、誰?」


 やばい。私、終わったかも。盗み聞きしてたのがバレたら嫌われるかもしれない。嫌われたくない。

 私は早く逃げなきゃいけないと思ったが、足を止めた。

 だめだ。やっぱり逃げちゃいけない。素直に謝らないとモヤモヤが残って絶対に後悔する。

 やがて、背後から声がした。


「あっ、みくちゃん。おはよう。尾崎先生から聞いたよ。今朝から病室が変わったんだってね。よかった。これでだいぶ生活も変わるよ」


 普段通りの優しい声がする。私の盗み聞きはバレてないみたいだ。でも私はゆっくり振り返って、目を見て、勇気を出して白状した。


「ごめんなさい。9時からお風呂なのに9時より前に来ちゃって、脱衣所の扉開けたら紗希ちゃんが誰かと電話してて、プライベートなことだから盗み聞きするのはよくないと思ったけど、好奇心が勝って盗み聞きしちゃった。私には悪気があった……」


 すると紗希ちゃんは安心したように笑った。


「あ、よかった。みくちゃんだったんだ。私が仕事サボってるのが看護師にバレてたらやばいって思ってめっちゃ焦ったよ。私、ちょいちょい仕事サボりまくってるから。スマホゲーのスタミナを消費しに頻繁にトイレ行ったり。仕事中の電話はさっきが初めてだけどね」

「私のこと怒ってないの……?」

「うん。全然怒ってない」

「ほんとに? 紗希ちゃん、電話の中で鉄拳制裁するって怖いこと言ってた。心の中では私のことも鉄拳制裁したいって思ってるんじゃないの……?」

「あははは、思ってるわけないよ。ごめんね、変な電話聞かせちゃって。さっきの電話は彼氏だよ」

「紗希ちゃん、彼氏さんにいつも鉄拳制裁してるの?」

「暴力は1回もしたことないよ。これからもしない」

「……大丈夫。私は、もし紗希ちゃんが彼氏さんに暴力してても、紗希ちゃんのこと嫌いになんて絶対ならないから。だって本当は優しい人だって知ってるもん。これからもずっと大好きだよ」

「待って、私ほんとに彼氏に暴力したことないよ! 信じて。私みくちゃんには嫌われたくない」

「わかった。信じる。紗希ちゃんが暴力なんかするわけないよね」

「うん」


 少し間が空いて、紗希ちゃんが言った。


「私の彼氏、仕事やめて今ヒモなんだ。最近は仕事探してくれてるんだけどね」

「そうなんだ」

「今日面接なんだけど、面接する会社に行く途中で道に迷ったんだって。高崎に行くはずが何故か埼玉の所沢まで行っちゃった。もはや道に迷うとかのレベルじゃないよね。私の彼氏、想像を絶するレベルの方向音痴なんだ。イオンみたいな広い駐車場に車停めたとするでしょ?」

「うん」

「それで店から出てきたら、どこに車停めたか分からなくなって、めっちゃ彷徨ってる。あと一緒にカラオケ行った時、彼氏がトイレに行ったら自分の部屋がどこか忘れて全然違う部屋に2回入ったんだって。しかも自信満々に何の迷いもなく盛大に間違える」

「方向音痴の人って大変だね。方向音痴は女の人の方が割合が多いって聞いたことあるけど」

「私もそれ聞いたことある。でも性別はあんまり関係ない気がする。性格の問題だよ。方向音痴の人ってまず自分で道を調べたり覚えようとしないもん。何故か気合いで乗り越えようとする。それか、すぐ私に頼る」

「彼氏さんのこと好き?」

「好きだよ」

「私のこと好き?」

「好きだよ」


 やがて、紗希ちゃんは小さく溜息をついた。


「私の彼氏ね、何が根拠なのか分かんないけど、自分の進む道に迷いが一切無いんだ。超適当なくせにめっちゃ自信満々。その結果、案の定めっちゃ道を間違えてて、目的地の真逆に突き進んでる。私の友達にも方向音痴の女の子がいるんだけど、その子も私の彼氏と全く同じなんだよ。一緒に遊びに行った時、その子が自信満々に『絶対こっち! 私を信じてついてきて!』みたいなこと言って、歩いていくんだけど、進んでる方角が真逆なの。2人とも、北海道に行こうとしたら沖縄に到着しちゃうんじゃない? あはは」

「紗希ちゃんの彼氏とか友達は、普通の人とは見えてる世界が違うのかも」

「そうかもね。私と同じ物を見てるはずが、実は全く違う物に見えてるのかも。例えば、私がリンゴだと思ってるものが、彼氏にとってはミカンに見えてたりね」

「だとしたら、寂しい?」

「全然寂しくないよ。だって違いがあった方が楽しい。むしろ、見えてる世界が他人と違うのは良いことだと思うよ。きっと、みくちゃんと私の世界の見方もちょっと違うと思う」

「そうかな」

「例えば、めっちゃ晴れてる青い空を見て、みくちゃんは心の中でどう思う?」

「私は、(うわ、めっちゃ晴れてる。死にたいなぁ)って思う……」

「私はね、(あーあ、まじで仕事だりぃなあ。なんで人間って働かなきゃいけないんだろ。てか看護師ってなんでみんな性格悪いんだ。特に女。性格がいい看護師って私くらいしかいなくない? あーあ、職場の人に会いたくないなぁ)って思うよ」

「青い空を見ただけなのに、紗希ちゃんめっちゃ心の中で愚痴ってるね」

「でも、みくちゃんは青い空を見ただけなのに死にたくなってる」

「だって空が青いと死にたくなるんだもん」

「青い空を見たとき、何を思うかは人によって全然違うけど、その違いがあるから、人と人が仲良くなる意味があるんだと思う」

「うん」

「みくちゃん北海道と沖縄どっちが好き?」

「どっちも行ったことないから分かんない」

「そっか。北海道も沖縄も良い場所だよ。北海道は食べ物うまいし、沖縄は夕方の海がノスタルジー。だから、方向音痴すぎて目的地じゃない場所に着いたとしても、それはそれで良いのかも。本当は北海道に行こうと思ったのに沖縄に着いちゃったみたいな人生も、それはそれで有り」


 そうかもしれない、と私は思った。

 私にとってこの精神病院は当初の目的地ではなかったが、来たら来たで、入院して良かったと少し思った。

 だって友達のいない私に、2人も友達ができた。玲奈ちゃんと紗希ちゃん。

 紗希ちゃんは看護師だけど。

 私は小さく呟いた。


「仕事しなくていいの?」

「みくちゃんと話してる方が楽しいから、仕事なんてしないよ」

「あ、しないんだ」

「しない」

「でも働かないと怒られちゃうよ。それが積み重なったら、いつか解雇されちゃう。彼氏さんヒモなんでしょ? 紗希ちゃんがクビになったら2人とも路頭に迷うよ。最終的にホームレスになる。私、紗希ちゃんにも、紗希ちゃんの彼氏にも、ホームレスになってほしくないよ」

「そっか……じゃあ働く」

「うん。大変だと思うけど頑張って」

「また話そうね」

「話す」


 そして、紗希ちゃんは廊下を歩き始め、ナースステーションに向かった。かと思いきや、再び歩いて戻ってきた。


「やっぱり働くのが辛いの?」

「いや、違うの。1個言っておきたいことがあって」

「なに?」

「みくちゃんは今回、薬を飲んで自殺未遂して、この病院に来たでしょ? 私も自殺未遂したことある。実は彼氏も何度か自殺未遂したことがある。色んなことに絶望して生きるのが嫌で仕方ないから、みくちゃんも私も彼氏も死のうとしたんだよね、きっと。でも、自殺未遂しても、意外と人生何とかなるよ。私も彼氏も何とかなってる。自殺未遂するほど落ち込んだとしても、生きてたら意外と何とかなる。それだけどうしても伝えたかった」

「生きてたら、なんとかなるの?」

「絶対なんとかなる。まだ17歳だもん、みくちゃんは。まだまだこれからだよ」

「そんな言葉、全く信じられない。私は紗希ちゃんじゃないもん。幸せになんかなれない……」

「たかが17年しか生きてない小娘が、なに悟ったフリしてんだ。鉄拳制裁くらわすぞ」

「やだ!!」

「だったら私の言ったこと信じてみて。みくちゃんは絶対なんとかなるよ。大丈夫、絶対なんとかなるよ」

「綺麗事だよ、そんなの」

「じゃあこう言えばいい?『みくちゃんはこれから先、生きてても何も良いことがないし苦しいことしか起きない。生きてたってどうにもならない』って。私は、生きてほしい人に向かって、そんな冷たい言葉かけたくないよ」

「……」

「私は生きてほしいよ。みくちゃんにも」

「でも私、愛されたことない。家族にすら。紗希ちゃんは愛されたことが沢山あるから、生きてればなんとかなるってそんな簡単に言えるんだよ。私は要らない存在だから、もう生きてる意味なんか無い。愛されたことがある人は、愛されたことがない人の気持ちなんて絶対に分からない」


 私がそう言うと、何故か紗希ちゃんの目に涙が溜まって、そのうち流れ始めた。

 私はその目を直視できなくなって、俯いた。罪悪感が瞬時に私の体全体を循環する。私は失言をした。

 その直後私は強く抱きしめられていた。

 私はびっくりして固まる。

 暖かい。


「どうして、そんなに寂しいことばかり言うの?」


 紗希ちゃんは声が震えていた。子供みたいな幼い声だった。私の耳元で鼻をすする音がした。

 つられて私も涙が出てきた。


「私だって、みくちゃんと同じだったよ。誰からも愛されたことなんてなかったよ」


 ◆


 自分の部屋に戻った私はベッドの上に座ってずっと泣いていた。なんで泣いているのか理由がわからない。泣いているから泣いている。でも私はとても哀しい。

 涙が止まった頃、ちょうど部屋のドアが2回軽くノックされて、開かれた。

 紗希ちゃんが立っていた。こっちに歩いてきて、ベットのフチに腰掛けてる私のすぐ横に座った。そしてポケットをゴソゴソして「みくちゃん手出して」と言ったから、手を出した。

 

「みくちゃんにこれあげる。飴。今日家から持ってきたやつ」

「5個も、ありがとう」

「舐めてみて。おいしいよ」


 そう言われたから、私は飴を口の中に入れて舐め始めた。

 私は、頭の中に思い浮かんだ言葉をそのまま発した。


「男の人は怖い。私を人じゃなくて道具にする」

「?」

「穴に棒入れて腰振るだけの行為に何の意味があるの?」

「……」

「私、妊娠して捨てられて中絶したことがある。私の頭がおかしくなったのは、きっとそのせい。尾崎先生にもまだ言ってない。そんなこと、言ったってしょうがない」

「え、そんなことがあったの?」

「うん。忘れたい。なかったことにしたい。誰にも言えないけど紗希ちゃんには言いたかった」

「話してくれてありがとうね」

「魚って痛覚がないって言われてるけど、普通に痛覚あるよ。本当は人間の130倍の痛覚があるかもしれないんだって。釣り上げられると泣く魚だっているんだよ。名前は忘れたけど」

「そうなんだ。なんか可哀想だね」

「私が魚だった時にね、刺身にされたんだけど、あの時はめちゃくちゃ痛かった」

「みくちゃん魚だったの?」

「そうだよ。声帯が無いから痛くても何も言えないし、もう魚はこりごり。痛覚が無いなら私に何してもいいの?」

「だめだよ」

「人間が他者の痛みを想像できるなら人間同士の争いなんて起きない。人間には想像力なんて無い。紗希ちゃん、いきなりだけど目を閉じて」

「うん」


 紗希ちゃんが目を閉じた。

 私は言った。


「目を閉じて、暗闇しか見えないんだったら、それが紗希ちゃんの想像力の限界」


 すると、紗希ちゃんはしばらく経ってから目を開けた。そして私に言った。


「私は、青い空をゆっくり飛んでる気球が見えた」

「そうなんだ。いいね」

「みくちゃんは目を閉じると、何が見えるの?」


 私は目を閉じてみる。


 ──最初に見えたのは、薄暗い部屋で性行為する男女。蛙みたいに股を広げた女。下品な顔・金切り喘ぎ声。赤いミルクと白い血が混ざり合った。不細工な男が自分に酔って言った。「俺はいつだって不安だ。だからそばにいてほしい」空爆される病院、ショッピングモール、学校。お腹だけが膨張して手足は骨と皮だけの栄養失調の黒い少年。枯渇しきった荒野に咲く花。くまのぬいぐるみを抱いて泣いている白人の少女。ぎゅうぎゅう詰めの奴隷船。霊安室で消毒用アルコール液を飲む白衣の医師。黒く濁った津波が街を破壊する光景。橙の夕陽が差し込んだ誰もいない教室。「大麻くらいみんなやってるよ、お前もやれよ」太ももを切って泣いている女の子。体を這う無数の毛虫。便器に向かって食べた物を吐く人。筐体を思いきり叩くギャンブル中毒者。市販薬をODしてラリって楽しくなってる男の人。パパに殴られる娘を見て見ぬ振りして洗い物をしてるママ。「──もう遅いから、早くお風呂に入ってきちゃいなさい」「──違う。私が言ってほしい言葉はそんな言葉じゃない。お風呂なんてどうだっていい。もっと優しい言葉を掛けてほしかった」酔いすぎて階段から落ちて膝を怪我したアルコール依存症の若い男。成人式で暴れて捕まる白痴。『誰も一人じゃないよ』系の歌が流れる都会の街。rapeってスプレーで落書きされた町田市の白い看板。ダサい服装の賽銭泥棒。ポイ捨てされたタバコの吸い殻。1人の部屋でギターを弾いて歌うニート。真夜中の高速道路。パーキングエリア。真夜中の国道、認知症のおじいさんが1人で座る寂れたバス停、眩しい太陽。従姉妹の家。誰もいない体育館の上の方に何年も挟まってるバスケットボール。電車に乗ってる障害者を集団で笑ってる高校生。最後に見えたのは、夕方の教室で首を吊って、少しゆらゆらしながら糞尿を垂れ流しにする私。私の耳と目と口から、ピンクの脳が漏れ出している。私の双眸は圧迫されて飛び出ている。それをスマホで撮影して、品のない声でゲラゲラ笑う女子高生の集団。


「──私は、暗闇しか見えない。想像力が貧困なのかも」

「もしかして、あまり見たくない光景が見えた?」

「うん。本当はそう」

「人が嘘をつく時って、私だいたい分かるんだ。眼球とか眉毛とか首とか口の動き方で。嘘を見抜くのは私の得意技」

「すごいね。人の嘘が分かるなんて。私、人の言葉は、なんでも全部信じちゃう」

「あ、それも嘘だな? 人の言葉なんでも信じちゃうってところ」

「なんでわかるの?」

「みくちゃんの口の僅かな動きで分かった」

「私の気持ち、全部見透かされてそう」

「みくちゃんは気持ちがものすごく表情に出るから、分かりやすい。人の本音はどんなに隠しても隠しきれない」


 私は、やがてこう言った。


「……紗希ちゃん、今から私ものすごくわがままなお願いしてもいい? もしかしたら、私のことを大嫌いになるかも。私と距離を置きたくなるかも」

「なに?」

「紗希ちゃんの彼氏に私は物凄く嫉妬してる。人生でこんなに嫉妬することがあるなんて思ってなかった。死ぬほど羨ましい。私も紗希ちゃんに愛されたい。物凄く」

「それって、どういうこと?」

「私と付き合ってほしい。だめ?」


 私がそう言うと、紗希ちゃんは一気に悩ましそうな表情になった。

 困らせてしまった。


「どうしよう……」

「私のこと嫌い?」

「好きだよ。好きだけど──」

「──じゃあ私と付き合って」

「でも、みくちゃんと付き合ったら、私、浮気することになっちゃう」

「彼氏さんに隠れて浮気したらいいだけじゃん。だって浮気ってみんな平気でしてるんでしょ? よくあることだよ。私なんて父親すら分からないんだよ。お母さんは不特定多数としてたから」

「でも私が今同棲してる彼氏は、私と付き合い始めてから、死にたい気持ちが無くなって、生まれて初めて生きたいって前向きに思えるようになったって言ってた。そんな彼氏を私は裏切ることはできない。みくちゃんも大切だけど彼氏のことも同じくらい大切だから」

「私と付き合っても、彼氏さんを裏切ることにはならないよ」

「どうして?」

「だって、紗希ちゃんが2人とも同じ量ずつ愛したらいいだけだから。彼氏さんの事も私の事も、2人とも同じ量ずつ愛したら、彼氏さんを裏切ったことにはならないよ。付き合う人は1人じゃないといけないって誰が定めたルール? そんなルールないじゃん。2人と同時に付き合っても逮捕なんかされないよ」

「ちょっと……1日か2日くらい、考える時間もらってもいい?」

「やだ。そんなに長く待ちたくない。今ここで決めてほしい」

「みくちゃん困るよ……私、どうしたらいいか、分からないよ」

「私、未来がどんなに辛くてもがんばって生きる。もう絶対に自分から死のうとしないよ。生きてればきっとなんとかなるって紗希ちゃんが何回も言ってくれたから、生きていく。辛くても頑張る。私と付き合って。お願い。私のこと愛して」

「本当に私なんかでいいの?」

「紗希ちゃんがいい。他の人なんて全然好きじゃない」

「みくちゃん17で、私が24。7つも年が離れてるけど、そこは大丈夫?」

「私、年上の人がいい」

「そうなんだ。でもそんな感じがする。みくちゃんは」

「私のこと好きになってほしい」

「もう既に好きだよ」

「じゃあもっと好きになってほしい。私ももっと紗希ちゃんのこと好きになる」

「……やっぱり、今ここで答え出さないとだめ?」

「だめ」

「私そろそろ仕事に戻らないとやばいよ」

「私と仕事どっちが大切なの?」

「みくちゃんを大切にするために仕事してるんだよ」

「……そうだよね。困らせてごめんね。やっぱり私とは、付き合わなくていい。紗希ちゃんのこと困らせたくないから。でも私、その代わり死ぬまでずっと入院する。私が退院したらもう紗希ちゃんと会えなくなっちゃうから」

「みくちゃん……私……」

「付き合わなくていいよ。だから、さっきみたいにまた強く抱きしめて。さっき抱きしめられて、私すごく安心した。それで全部終わりにする。私、諦める。付き合えなくてもいい」


 私が自分の気持ちを必死に押し殺して淡々とそう言うと、紗希ちゃんは私を強く抱きしめてくれた。

 体温が暖かくて、私はすごく安心して、また涙を流した。

 泣き始めたら、堰が切れたかのように、私の本心が溢れ出した。


「やだ。紗希ちゃんと本当は付き合いたい。紗希ちゃんとずっと一緒にいたい。もう1人は嫌だ。紗希ちゃんといたい。もう1人はやだ。1人はやだ。私もう1人でいたくない。寂しい。1人はもう嫌だ。今までずっと1人だった。初めて好きになった人にも裏切られて簡単に捨てられた。もうこれ以上辛い思いなんてしたくない。痛い思いもしたくない。1人はやだ。1人はやだ。1人はやだ。1人はもうやだ。良い子にするから。お願い。もう1人はやだ。私だって人から愛されたい」


 私は涙が止まらなくなった。紗希ちゃんの着てる服に私の涙が付いた。

 そのうち紗希ちゃんが私の耳元で、優しい声で、こう言った。


「──────」


 ◆


 ◆


 ◆


 ◆


 ◆


 部屋の窓から差し込むのは、朝の光。

 私が嫌いな光。

 私はベッドで横になって、死んだ目で天井を眺めている。

 やがて部屋がノックされ、紗希ちゃんが入ってきた。私はすぐに体を起こして、ベッドの縁に腰掛けた。

 

「おはようみくちゃん、朝ごはんだよ」

「おはよう」


 丸いテーブルの上に朝食の載ったおぼんが置かれる。そのまま紗希ちゃんは私のそばに近づいてきて、笑顔で言った。


「そういえば、みくちゃんって今日退院だよね?」

「うん。今日の午前中にお母さんが迎えに来る」

「退院おめでとう。1ヶ月、よく頑張ったね」

「ありがとう。終わってみたら、あっという間だった。でも、まだ退院したくないよ」

「看護師は本当はこういう事は絶対しちゃ駄目なんだけど、これあげる」


 と笑顔で言われ、小さな紙切れを渡された。私はその紙切れを受け取る。そこに書かれていたのは英字や数字の羅列。


「私のラインのID。話したくなったり、会いたくなったりしたら、いつでも連絡して」

「ありがとう。紗希ちゃん大好き。嬉しい」

「私もみくちゃん大好き」


 続けて、紗希ちゃんが私の頭をゆっくり撫でながら、笑顔で言った。


「みくちゃんが退院したら、もう私たちは看護師と患者の関係じゃなくて、対等な恋人同士だからね!」

「うん!」

「退院してから、何かやりたいことある?」

「いっぱいあるよ。私は人生を諦めて自殺未遂して、この病院に入院したけど、もう1回人生を頑張ってみたい。せっかくこの世界に生まれたんだもん。どうせなら、私だって幸せになってみたいの」

「ずっと応援してる。みくちゃんならきっと大丈夫。私でも意外と何とかなったから」

「他にもやりたいことがいっぱいある。言い切れないくらい」

「私も、みくちゃんとしたいこといっぱいある」


 続けて紗希ちゃんはこう言った。


「立って」


 私はベッドの縁から立ち上がる。

 直後、紗希ちゃんが私を強く抱きしめた。私も抱きしめ返した。

 体が離れると、紗希ちゃんはいつも着けてるマスクを外して、白いナースウェアのポケットにしまった。

 そして私に優しい声でこう言った。


「マスク外して」


 私は自分のマスクを外して、ベッドの上に軽く投げた。

 私は次に何が起こるか予測できていたのに、頭が真っ白になっていた。

 紗希ちゃんと初めて唇を重ねた。

 その瞬間に時間感覚が無くなった。心臓の鼓動が速くなる。時間という概念は消えた。だから、何秒そうしていたのかは分からない。たった5秒かもしれないし、5000年かもしれない。今日は西暦42579年39月248日だ。

 そのうち、紗希ちゃんの唇が私から離れた。


「もう1回したい」


 私は、自分の顔がどんどん熱くなるのを感じながら、紗希ちゃんの目を見てそう言った。

 紗希ちゃんは楽しそうに笑って、こう言った。


「顔真っ赤だよ」


 そう言われて、私は恥ずかしくなって俯いた。すると紗希ちゃんは、しゃがんで、首を傾げて、下から私の顔を覗き込んできた。紗希ちゃんの茶色のボブが揺れる。

 やがて目が合った。


「みくちゃん恥ずかしいの?」

「……うん」

「あははは」


 そのうち紗希ちゃんは立ち上がって、私の目をじっと見てきた。

 何秒もずっと見ているから、思わず私は訊ねた。


「どうしたの?」

「かわいい顔だな〜と思って」

「別に私かわいくないよ」

「すごくかわいいよ。自信持っていい」

「ありがとう。紗希ちゃんもすごくかわいい」

「私、ずっと自分は男の人が好きだと思ってたんだけど、みくちゃんのお陰で生まれて初めて女の子の恋人ができた」

「私も。私、紗希ちゃん以外の女の子は別に全然好きじゃない。男とか女とか関係なく、紗希ちゃんだから好きになったの」

「ありがとう。嬉しい」

「うん」

「そういえばみくちゃんって今体重何キロくらい?」

「私、普段3食も食べないから、入院中に1日3食も食べてたら何キロか太って、41キロになった。あと売店で買ったお菓子食べまくってたから、今はもう少し体重あるかも」

「いいことだよ。だってみくちゃんが入院した時たしか38キロとかじゃなかった?」

「うん。少し太れてよかった」

「身長は何センチだっけ?」

「153あるかないか」

「私は158だよ。はい私の勝ち〜!」

「別に私は紗希ちゃんと争ってないもん。てか24歳が17歳と身長で争うって大人げないよ。もう少し大人になったら?」

「なんだと? 大人しかったテメェも随分言うようになったじゃねえか。遂に化けの皮が剥がれたな!」

「えへへへ」

「みくちゃんは人生の大先輩へのリスペクトに欠けてる」

「紗希ちゃんのことリスペクトなんて全くしてないよ。めっちゃ仕事サボるじゃん。ほんとにクビになっちゃうよ。せっかく頑張って看護師になったんじゃないの?」

「仕事なんてもういいや。どうせ私の代わりなんていくらでもいるから。あ〜あ、朝っぱらから缶チューハイ飲みまくってネトフリで適当な映画見ながらゴロゴロして生きたいな〜。ごろごろ生きてるだけで国民栄誉賞もらいたいな〜。覚醒剤やってみたいな〜」

「みくも覚醒剤やりたい! 紗希ちゃん買って。みくと一緒に覚醒剤しよ!」

「みくも覚醒剤やりたい? そんな悪いことを言う口はこの口か!」


 私はまたキスされた。

 今度はさっきより長かった。

 気持ちよかった。

 紗希ちゃんの舌が入ってきた時、私は1年前に死んでしまったペットのヘビを何故か思い出した。アルビノレッドのコーンスネーク。幼い私がお母さんに頼み込んで買ってもらった。犬や猫に興味は無かった。ヘビが動物の中で1番好きだった。ヘビは1人でも寂しくなさそうだから。「──女の子なのにヘビなんて飼ってるの? 気持ち悪い」って友達に馬鹿にされたから、私はその友達と絶交した。

 私は舌を絡めた。なんかヘビの交尾に似ていると思った。ヘビの交尾は、えろい。人間の交尾は別に何とも思わない。

 朝起きてすぐ歯磨きしておいてよかったと思った。

 私の全身は熱を帯びている。

 私は溶けて液体になった。

 鉄の融点は1500°Cだ。

 私の融点は36℃くらい。

 そのうち、唇が離れた。


「え、なんでやめちゃうの? もっとしたい」

「みくちゃん、いつかもっと色んなことしようね」

「色んなこと?」

「気持ちよくて幸せなこと。大丈夫だよ。絶対に怖くしない」

「うん」

「今までの人生の辛かったことなんて私が全部忘れさせてあげる」


 その言葉で私は理性が飛んだ。今度は私から紗希ちゃんに近付いて、口を塞いだ。


 ◆


 時間が過ぎて、10時40分になった頃、私の部屋がノックされた。

 紗希ちゃんじゃない女性看護師が入ってきて、私にこう言った。


「新庄さん、今お母さんが迎えに来たよ」

「はい」

「荷物はもうまとめてある?」

「はい」

「じゃあ行こうか」

「はい」

「あ、忘れ物だけ無いように。大丈夫そう?」

「大丈夫です」


 私は両手に荷物を持って、看護師と一緒に病室を出た。

 1番大切な、紗希ちゃんのラインIDが書いてある紙切れは、無くさないように、今履いてる靴下の中にしまってある。

 念のため、油性のマジックをスタッフステーションで借りて、手の甲と足の甲に紗希ちゃんのラインIDを何十個も書いておいた。

 やがて、第1病棟と外界を隔てる大きな扉の前に私は辿り着いた。

 

「この扉の向こうで新庄さんのお母さん待ってるから」

「はい」

「ここから先は1人で大丈夫?」

「はい」


 看護師は扉の鍵を開けふ。

 私は1ヶ月ぶりに第1病棟の外に出た。

 すごく嬉しかった。

 私はX病院の中を1人で歩いていく。受付のある場所へ近づいていく。

 当たり前だけど、ここは外来の患者さんも沢山いる。老若男女、色んな人がいる。

 受付の前にあるソファに母が小さく座っていた。

 母に近付くと、母は私の存在に気付いて、すぐ立ち上がった。

 母は無表情で言った。


「みく、久しぶり」

「久しぶり」

「1ヶ月頑張ったね」

「1ヶ月ゴロゴロしてただけだよ。頑張ってない」

「そんなことない。あ、お母さん荷物持つよ」

「じゃあ片方持って」

「うん。みくに1ヶ月も会わなかったなんて、みくが生まれてから初めてだった」

「うん」

「帰ろう」

「うん」


 私と母は、自動ドアを抜けて、病院の外に出た。

 その瞬間の解放感や達成感や空気の美味しさや太陽の眩しさは、生涯忘れられないだろう。

 晴れて私は自由の身となった。


 ◆

 

 後部座席の左端に座った私は、自分の唇を触る。あの感触を忘れたくないけど、そのうち忘れてしまうだろうから、またしたい。

 やがて、車が病院の敷地を出て、道路を走り出した。

 

「お母さん、私のスマホある?」

「あるよ。はい」


 私は母から私のスマホを受け取って、1ヶ月ぶりに電源を入れた。

 色んなアプリの通知は来まくっているが、人からの連絡は1件も来ていない。いつものことだから何とも思わない。

 私はラインのアプリを開いて、ID検索の欄から、自分の手の甲に書いた紗希ちゃんのラインIDを入力した。

 すると【さき!!!】というユーザー名の人が出てきた。アイコンは紗希ちゃんの顔だった。

 私は紗希ちゃんを友達に追加して、早速ラインを送った。


『みくだよ。お仕事がんばってね』


 すると、10分後くらいに返信が来た。


『紗希だよ。ありがとう仕事頑張る。あさって仕事休みなんだけどどっか遊びに行こうよ!』

『行きたい。でも彼氏さんは平気? 同棲してるんでしょ?』

『彼氏には友達と遊んでくるって嘘つくから平気!』

『そっか私たち友達じゃないんだね』

『そうだよ、みくちゃんは私の彼女で、私はみくちゃんの彼女』

『幸せ』

『私も幸せ。今日私が仕事から帰ったら電話かけてもいい?』

『うん』

『あさって予定空けといてね』

『大丈夫だよ。紗希ちゃん以外の予定ないもん』

『どこ行こっか』

『紗希ちゃんの行きたいところに行きたい』

『じゃあ私が色々考えとく。ちょっと欲しいものもあるんだー』

『そういえば紗希ちゃんってどこに住んでるの? 超遠かったらどうしよう……』

『私は高崎の●●ってところ。みくちゃんは?』

『みくは高崎の◆◆』

『うそ! めっちゃ近いじゃん!』

『すぐ会える距離だね。でも本当は、みくも紗希ちゃんと一緒の家に住みたいな。本当はずっと離れないで一緒にいたいの。ずっと紗希ちゃんの隣にくっついてたい。もっとキスしたい。紗希ちゃんと気持ちいいことしたい。同じベッドでくっついて寝たい』

『いつか私のマンションにおいで』

『でも、彼氏さんが……』

『彼氏がいない時に来ればいいじゃん。彼氏も就活中だし、そのうち就職先が決まると思うからさ。てか彼氏がいる時でも普通に遊びに来なよ。だって女の子同士だから、彼氏からすれば私たちのことは仲の良い友達同士に見えるでしょ?』

『でも雰囲気とかでバレちゃうんじゃない?』

『うーんどうだろう。勇輝はそういうのに鈍感な感じもするけど、変なところで神経質だからなぁ』

『ねぇ、紗希ちゃんの彼氏さんって怖い人? 怒鳴ったり叩いたりする人?』

『しないしない。むしろその真逆の人だから安心して。みくちゃんを傷付けたり怖がらせたりすることは絶対に無いよ。なんかね、いっつもベランダで1人で遠くの空を眺めて考え事しながらタバコ吸ってるの。「なに考えてんの?」って聞くと「別になんも考えてないよ」って言う。何も考えてないわけないのに。あとは率先して家事は全部やってくれる。料理もしてくれる』

『顔はどんな感じなの?』

『顔は────に似てるかな』

『そうなんだ。みく、男の人すごく怖いけど紗希ちゃんが好きになった男の人なら多分私も好きになれると思う』

『多分みくちゃんと勇輝は気が合うんじゃないかな。てかよく考えたら私の恋人は2人とも無職なんだね。両手に花じゃなくて両手に無職だ』

『紗希ちゃんは可愛いし優しいし無職に好かれやすい体質なんだよ。今後、第3第4の無職が現れたりして』

『え! そんなに沢山の無職いらない。私はみくちゃんと勇輝だけでいい』

『紗希ちゃん。実は私、夢ができたんだ』

『え、なに? 夢おしえて』

『まだ内緒!』

『わかった。いつか教えてね』

『何年後かに教える』

『やばい私そろそろ仕事戻る』

『がんばって』


 そこで私と紗希ちゃんのやりとりは一旦終わった。

 私はスマホをポケットにしまって、助手席のヘッドレストを両手で掴んで、お母さんにこう言った。


「ねー、お母さん」

「なに?」

「私、今すぐバイト始める」

「え?」

「どんなバイトが良いかなぁ? 私、めっちゃ愛想悪いから接客は絶対向いてないけど、人に慣れるために敢えて接客のバイトするのも良いかも。やる気があるうちに早くバイト探さないと。そうだ、履歴書が必要だから、コンビニ寄ってほしいんだけど」

「寄るけど、どうしたの急に。高校辞めてから、ずっと部屋に引きこもってたのに」

「急じゃないよ。入院中に自分を見つめ直して、ちゃんと生きようと思えた」

「そうなんだ。良かった」

「あと高認試験受けて、進学したい。学費稼ぐために沢山バイトしてお金稼ぐ」

「学費とかの心配はしなくて平気だよ。いざという時の為にまとまった額の貯金はあるから」


 私は、車窓から見える風景を見ながら、こう言った。


「──お母さん、私、夢が出来た。まだ具体的な事は何も決まってないし、必要な資格とかも何も知らないんだけど、将来は、精神科の看護師になりたい。生きるのが苦しい人の支えになってあげたい。生きる為の手助けをしたい。私が苦しんだ分、私と同じように苦しんでる誰かを助けたい」

「すごく良い夢だと思う。でも、みくが苦しんでる人を助ける仕事がしたいなんて、お母さんちょっとびっくり。ほんとにどうしたの? すっかり別人みたいになっちゃった」


 私は、紗希ちゃんの顔を思い浮かべながら、私が別人みたいに変わった理由を喋り始める。


「──私、入院中に、すごく優しい看護師さんに出会ったんだ。その人は、私の苦しさに寄り添って私を助けてくれた。私が悲しい時は一緒に泣いてくれた。その人のお陰でまだ生きたいと思えた。だから私も、あの人みたいな、立派で優しい看護師になりたい。それが私の夢。私、頭は大して良くないし、性格も暗くて看護の仕事に向いてない性格かもしれない。でも私、きっとこれから変われると思う」

「そう、良い出会いがあったんだね。お母さんの意見も聞いてくれる?」

「うん」

「みくの生きたいように生きてほしい。まだ17歳なんだから、時間はいっぱいある。お母さんのこととか、お金のことなんて何も考えなくていい。みくの人生なんだから、みくの好きなように生きて。それが1番」


 心なしか、母の声がいつもより明るい気がした。

 後部座席から、何気なくルームミラーを見る。ミラーに映る母は笑みを浮かべていた。

 私はかなり驚いた。母の笑顔を見たのなんて、何年振りだろう。


「みく、せっかく退院したんだし、久しぶりに2人でご飯でも食べに行こうか」

「あ、うん、行きたい」

「1ヶ月も病院食で飽きたでしょ」

「飽きた」

「飽きるよね、何が食べたい?」

「私なんでもいい」

「じゃあ、お寿司でも食べに行く?」

「うん」


 ルームミラーに映る母の顔を見ると、母の顔は若く見える。たしかまだ30代だったはず。


「そういえば、お母さんって何歳だっけ」

「今みくが17でしょ。だから34」

「まだ34だったんだ。17の時に私産んだの?」

「そう」

「大変だったよね」

「大変だった。みくに今まで沢山ひどいことしてきたね。許してもらえるとは思ってない。駄目なお母さんでごめんね」

「私、何とも思ってないよ。今は、過去のことよりも未来のことを考えたいから」

「ありがとう」


 しばらく沈黙が続いてから、母が言った。


「みくが1ヶ月入院してる間、お母さん、みくを産んだ日のことをずっと考えてた。みくが生まれたのは7月2日の深夜2時58分。私はこの世に生まれてきたみくに、1番最初にどんな言葉を掛けたと思う?」

「え、なんだろう。わかんない」

「生まれてきてくれてありがとう。って言った。その気持ちは今も変わらない」

「そう」

「でも、お母さんは、みくと上手く関われる自信が無かった。私は、自分の産んだ子供を正しく愛せる自信が無かった。私は親に愛されずに育ったから、何が正しい母親なのか分からなくて、みくと関わるのが怖くなってた。実際、私は何度も愛し方を間違えた」


 ルームミラーに映る母の顔を見る。目が少し潤んでいるように見える。

 私は言った。


「愛なんて大体合ってればそれで充分だと思う。私、昔のお母さんは殺したいくらい大嫌いだったけど、今のお母さんは好きだよ」

「ありがとう。そう言ってくれて、すごく救われた」


 私は何となく、走行中の車の窓を開けて空を見上げる。死にたくなるほどの鬱陶しい快晴が、今は少し綺麗に見えた。


「みくが何百錠も薬を飲んで死のうとした日、お母さん、今までの自分をすごく後悔した。苦しめてごめんね。でも、みくが死ななくて本当によかった。みくが生きてるだけでよかった」

「ありがとう。私もごめんなさい。私はこれから自分の人生をちゃんと頑張る」

「みくが頑張るなら、お母さんはもっと頑張る」

「お母さんもまだ34歳で若いし、まだ子供も産める年齢なんだし、もし良い人がいたら付き合ったり結婚してみれば? だって17歳で私を産んで、今まで私を育ててきて、自分のやりたい事とかずっと我慢してきたと思うし、私はお母さんがお母さん自身の幸せのために生きてほしいって思う。これからは私のためじゃなくて、自分のために生きてほしいの」

「みく、優しいね」

「だってお母さんまだ若いんだもん。34歳なんて、まだまだ人生これからでしょ。たった1度の人生なんだから楽しまないともったいない」

「そうだね」

「人生って生きてれば意外と何とかなるらしいよ。紗希ちゃんが言ってた」


 私と母の乗る車は今、まだ見ぬ未来に向かって法定速度の範囲内で走っている。

 私の人生は今日始まった。

 今の積み重ねで未来があるのだとしたら、私の捨て去りたい過去は一体何のためにあるのだろう。今も、時々過去が私を殺そうとしてくる。でもいつか私が未来を迎えて、人前で大きく笑えるようになったとき、私は全ての過去を肯定できるようになれるのかもしれない。いつかそんな未来が来ることを、私は願ってる。








 〜








 〜ロシア大統領官邸〜


「75000人以上が逮捕、650人以上が死亡。4月下旬になってもまだ反政府デモは終わらない。一体ロシア国内はどうなってる。この状況が続けば、日本に侵略戦争を仕掛けるどころじゃなくなる。ロシアの存亡、ひいては、俺の沽券に関わる問題だ」

「フーチン大統領の求心力が、徐々に落ちているのかもしれません」

「何故だ。情報統制、言論統制は徹底している。米国発のSNSも全て厳しく制限した。国営放送では常にプロパガンダで国民を洗脳している。国外からの情報なんて入らないはずだろう」

「大統領、ロシア発祥の●●●●●というSNSが急成長しているようです。●●●●●は規制を免れています。そこから海外発信のニュースなどを見て、情報を得ているのではないでしょうか」

「即刻、●●●●●を規制しろ。俺は舐めた真似は許さん。愚かな人民共が」

「……」

「日本侵攻に関してだが、俺に良い案がある」

「なんでしょう」

「─────────────────────────────」

「大統領、本気ですか?」

「当たり前だ」




 

 



 3話に続く

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素晴らしい世界(連載小説) Unknown @unknown_saigo

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