素晴らしい世界(連載小説)

Unknown

第1話 桜の季節になったら

 20XX年、ウラディミール・フーチン大統領率いるロシアは「特殊軍事作戦」と銘打って、隣国であるウクライナへの軍事侵攻を開始した。

 ウクライナ軍の必死の抵抗を前に、ロシア軍は想定外の苦戦を強いられたが、最終的に首都キエフは陥落。現ウクライナ政権は崩壊し、ロシアによる傀儡政権の樹立が成った。

 しかしこの勝利と引き換えにロシアが失ったものはあまりに大きい。1日に2〜6兆円かかると言われる戦費は予想外に長引いた戦いによって膨大な額となっており、更に各国の経済制裁によるロシアの貧困化や、世界中のあらゆる企業の撤退など、代償は大きかった。暴走した権力者フーチンによるあまりにも身勝手かつ非人道的な軍事作戦は、全世界のロシアに対する信用を完全に失墜させるものだった。今ではロシアと外交する国もかなり減った。

 フーチンはウクライナの掌握と引き換えに全世界から反感と憎しみを買ったのだ。

 戦後、ロシアは世界から孤立している。経済制裁によって、もはや国の運営すら困難になりつつある。ウクライナ侵攻中に他国に逃げ出した若者も多いため、国民の労働力そのものも落ちている。国民の不信感が高まっている。

 フーチンは思う。(ただ俺はウクライナを解放しただけなのに何故こんな仕打ちを受けなければならない)

 フーチンの頭は今も完全に暴走したままだった。全ての物事に対する判断が壊れている。時代遅れの覇権主義。しかしフーチンの狂った思想を指摘する者は周囲に1人もいなかった。今までフーチンは過去数十年に渡って自分の反逆因子を全て処刑してきたからである。独裁者にとって最も不要なのは自分の権力を内部から脅かす存在だ。だからその疑いが少しでもある者は全員殺してきた。

 ──そんなフーチン大統領は今、日本への侵攻を画策している。

 ウクライナの次は日本だ。北方領土は既にロシアのもの。次に北海道を取り、そこから南下していき、最後は首都・東京を陥落させ、日本を終わらせる。

 そうして日本はロシアの物になる。

 ウクライナでの戦いの反省を活かし、日本侵攻では用意した全ての戦力を最初から出撃させる。

 今回の軍事作戦においては、核兵器も使う予定だ。



 〜ロシア大統領官邸〜


 フーチンの側近が言う。


「大統領、日本に核兵器を使うんですか?」

「ああ。必ず使用する。“東京を含めた関東全域”に核を撃ち込む」

「核攻撃なんてしたら、ロシアの国際社会への復帰は絶望的になります。アメリカも黙っていません。間違いなく第三次世界大戦に突入します。核兵器の使用は得策ではありません」

「俺に歯向かうのか。殺すぞ」

「いえ、大統領に歯向かうなど滅相もございません。失言が過ぎました」

「まぁいい。1度は許そう。次は無い」

「誠に申し訳ございませんでした」

「日本への侵攻は、核実験も兼ねている。ロシア軍の核の威力を日本で試す」

「……」

「日本は過去にアメリカから2回も核を投下された経験がある。2回も3回も大して変わらないだろう。歴史的に見て日本は被曝大国だ。奴らはそういう民族だから、核実験には打ってつけだ」

「その通りです」

「余談だが、アイヌ民族は元々はロシアの先住民族だ。つまり北海道はロシアの領土でなくてはおかしい」

「そうですね」

「もちろん我々の最終目標はNATOを潰すことだ。だが、その前に日本に核攻撃をする。これについてお前の意見はどうだ?」

「賛成です」

「ロシアは6300発もの核兵器を保有している。それが果たして実地で使えるのかどうか、まずは日本で確かめさせてもらう」


 やがて、フーチン大統領は悪魔のように笑った。


「あんなしょうもない島国、一瞬で焦土にしてやる」


 







 〜

 








 3月某日。

 群馬県在住25歳の俺は、半年ほど勤めていた自動車部品工場を先日退職し、現在は年下の彼女のヒモとして、彼女のマンションにゴキブリの如く住み着いている。

 朝、俺がその辺の床でだらしなくゴロゴロしてスマホをいじっていると、彼女が俺の名前を呼んだ。


「勇輝」

「なに?」

「私そろそろ仕事行ってくるね」

「行ってらっしゃい、気を付けて」

「家事とかやっといてね」

「うん、やっとく」

「あと冷蔵庫の中身が減ってきたから、できたら今日スーパーも行ってきてほしい」

「わかった。仕事頑張れ」

「頑張る。じゃあね」


 やがて、彼女は颯爽と部屋を出て行った。

 彼女である内田紗希(24)は精神科病院の看護師として働いている。看護師は休日もバラバラだし日勤と夜勤があって大変そうだ。よく紗希は缶チューハイを飲みながら、職場での愚痴を俺に言う。紗希曰く、性格のきつい女性看護師が多いのだとか。たしかに看護師は性格きつい人が多い印象がある。


「よいしょ」


 ゴロゴロしていた俺は立ち上がって、テーブルの上に置かれていたタバコの箱を手に取り、ベランダへ向かった。

 ベランダに出た俺は、外の景色を眺めながら、喫煙を開始する。朝の光に向かってタバコの煙を吐き出す。タバコを吸っている時、俺の顔は死んでいる。脳は酸欠状態で少しだけぼーっとする。この感覚が好き。

 見慣れた景色だ。上に青い空があり、真ん中に建物があり、下に道路がある。遠くには山が見える。

 俺はこの景色に退屈を感じているが、仮に俺が東京に住んでいたところで、目に映る景色は退屈だっただろう。

 好きなバンドのライブを見るために何度も東京に行ったことがある。その度に人の多さと山の無さに驚くが、1番の驚きは、東京の人は歩くのがめちゃくちゃ早いという点だった。俺が普通に歩いているつもりでも、普通におばあさんに抜かされる。おそらく俺は、この群馬という田舎のマイペースさに取り憑かれている。だから歩くのが遅い。群馬が東京と同じ関東地方とは思えない。


「あーあ、めんどくせ」


 煙を吐いて、無表情で呟く。

 めんどくさいのは、俺の今後の人生。また就職しなきゃなぁ。紗希にずっと養われてるわけにもいかない。何かしら職を探さないと。

 これを言ったらおしまいだが、そもそも俺は生きてるのが面倒だ。特にやりたいことも夢も無く、今まで平凡な人生を歩んできた。積極的に死にたいとは思わないが生きたいとも思わない。基本的に俺は常に無気力だった。そういう生き方でも別によかったのだが、やっぱりフラストレーションが溜まる。何者にもなれない自分にモヤモヤする。でも、したいことが何も無い。ただ何となく、ただ漠然と、ただ適当に生きてきた。それはそれで幸せだろうか。正直言って、美味しいものを食べて、気持ちいい布団で寝て、人との関わりを最低限持てたら、それだけで人生割と楽しい。


「……」


 薄く開けた口から煙を吐いて、遠くの空をぼーっと眺める。

 俺の故郷の、帯広に住んでいる母は元気だろうか。コロナもあって、もうしばらく会えてない。

 俺には母が2人いる。育ての母と、産みの母。どちらも俺の本当の母だ。


 ◆


 タバコを1本吸い終えた俺は、ベランダから部屋に戻った。

 俺はまず、最初に洗濯機を回した。

 洗濯機が回っている間に、溜まっていた食器の洗い物を済ませることにする。

 ヒモである俺の1日の仕事は、家事とか買い出しとか、あと適当な雑務だ。楽すぎる。

 俺は無心で洗い物をしている。かつて俺が一人暮らししてた頃は、食器洗いがめんどくさかったから紙の皿だけ使っていた。バーベキューで使うような紙の皿。面倒臭がりにはおすすめだ。

 食器を洗い終えて、ぼーっとしていると、やがて洗濯機が「ピー」って言ったので、俺は洗濯機から洗濯物を取り出して、ベランダに干した。今日は朝からとても晴れている。

 面倒だから、まとめて出来ることは今やっておこうと思い、俺は浴槽の水を抜いて、風呂掃除を行った。

 その次に、全ての部屋の床にコロコロをかけた。俺は部屋にコロコロをかけなくても全然気にならない方だが、紗希はコロコロをかけるのが好きな人だ。俺より性格が几帳面なのだ。

 几帳面な性格と関係しているのか、紗希が俺の目の前で屁をしたことは1度も無かった。ちなみに俺もパートナーの前で屁を我慢する性格だが、最近では音を出さずに屁を出す技法を会得したので、問題ない。

 正直、同棲してる相手の前で屁をするのは恥ずかしい。

 俺は姉とか妹の前では平然と屁を解き放ってたが、やっぱり彼女の前では気をつかう。ここまで来れば彼女も家族のようなものだが。

 ──部屋の床にコロコロをかけながら、俺はずっと屁について考えていた。


 ◆


「何もする気にならねえや」


 家事を一通り終えたが、俺は特に何もすることがなかった。今日は平日だし、リアルの友達はみんな真面目に働いている。ネットの友達はニートや引きこもりが多いが、おそらく彼らは朝から眠り始めるので、今からラインを送るのも可哀想だ。

 そういえば、この前SNSで知り合った人に「会ってみたい」と言われたので、会ってみた。俺より幾つか年上の女性だったが、同棲してる彼女がいることは事前に伝えていた。その人と適当な店に入って一緒に飲んで笑って喋っていた。飲みまくった俺は、お金の無さをアピールして全額おごってもらって、女性とその場で別れた。俺はタダ酒を飲めてラッキーだった。こういう場面でも俺のヒモ根性は表れる。

 紗希のマンションに帰ると「勇輝、今日は誰と遊んでたん?」と聞かれたので「ネットで知り合った女の人と酒飲んでた」と言ったら「酒の勢いで変なことしなかった?」と聞かれたので「してないよ」と言ったら「ならいいよ」と返された。

 俺は女性に全額おごってもらうのが当たり前だが、付き合ってもいない人と一線超えた関係を持つのは違うと思うし、その辺の倫理観は真面目だった。

 最近は特に何もやる気が起きない。読書するのもめんどくさいし、漫画読むのもめんどくさいし、映画見るのもめんどくさい。ゲームもめんどくさい。適当な動画や配信を見たり、掲示板を見てるのが1番楽だ。

 俺が適当に面白い動画を見てダラダラ過ごしているうちに、時刻は午前10時を回っていた。


「あ。もうスーパー開いてる」


 そう呟いた俺は、身支度とか色々して、冷蔵庫の中身を確認してから、近所のスーパーに車で向かった。


 ◆


 平日の午前中のスーパーは、基本的に主婦が大半で、あとはお年寄りが多い。俺みたいな奴は俺しかいなかった。25歳の男って時点で、ちょっと謎ではある。あなた仕事はどうしたのって感じで。世の中、仕事をしてない25歳男性など腐るほど存在するが、彼らは基本的に引きこもりなので外に出ない。だから目にすることがない。

 カートを押して、食材をポンポンとカゴに入れていると、俺の数メートル前方に“魅惑的な尻”が見えたので、2秒くらい見ていた。ぴったりしたスキニーだった。咄嗟に俺の脳が働く。あの人は若い人妻だろう。それ以上でもそれ以下でもない。

 冷蔵庫に足りてなかった物をカゴに入れていく。たしか調味料はまだ家に全部あった気がするから、買わなくていい。

 どうせだからここで俺の昼食でも買おうと思って、俺は弁当や惣菜のあるコーナーに向かった。

 なんの弁当買おうかなと思って、少し迷った結果、298円の海苔弁当にした。

 レジに並ぶのが面倒だったので、俺はセルフレジで会計を済ませた。いちいちバーコードを照合するのが面倒だが、慣れたらこっちの方が楽でいい。


 ◆


 無表情で車を走らせ、さっさとマンションに着いた。

 階段を登って部屋に入り、買った物を冷蔵庫にバンバン入れていく。

 今日1日の仕事がほとんど終わってしまった。あとは洗濯物が乾いたら取り込むだけ。

 紗希と俺の性別が逆ならなぁ、と思うことがたまにある。そしたら今結婚しても何の違和感も問題もない。俺は女性として専業主婦になり、紗希は男性として働き、俺を養う。(でも俺もパートだったら主婦をやりながら働ける)

 最近やたら男女平等が謳われてるが、やっぱり旦那が無職ってあんまり世間的に印象良くない。

 本当に社会が男女平等なら、男が専業主夫になったって何もおかしくないはずだ。だが、現実は厳しい。

 紗希だって、俺を他人に紹介するときに困るだろう。「旦那さんは何をされてる方なの?」と聞かれて「旦那は専業主夫です」と紗希が答えたとする。すると「無職ってこと? 何か特殊な事情があるんだね」みたいな雰囲気に絶対なる。

 男は結婚しようがしまいが働かなきゃいけない。

 そもそも、紗希のヒモでいられるこの現状に俺は感謝するべきだ。紗希の優しさに感謝したい。

 

 ◆


「ただいまー」


 午後6時頃、紗希が職場から帰宅した。


「おかえり」


 俺はその辺でゴロゴロしてスマホいじりながら答えた。


「めっちゃ疲れたよ」

「お疲れ」

「勇輝、今日のご飯なに?」

「なに作るか考えたんだけど、なにも思いつかなかったからカレーにした」

「私ちょうど今カレーの気分」

「よかった。なんかね、りんごジュースでカレー作ると美味しいんだって」

「へー」

「今日そういう動画見たから、俺も真似してみた。水は全く使わずにりんごジュースだけで作った」

「美味しそうだけどめっちゃ甘そう」

「甘いのと辛いのどっちが好き? カレー」

「私どっちも好きだよ」

「俺も好き」


 紗希はキッチンで手を洗っている。

 やがて紗希は俺の方に歩いて近づいてきて、テーブルの上に置いてあるリモコンを手に取り、テレビをつけた。

 俺はスマホから視線を移し、なんとなくテレビを一瞥する。

 ちょうど男性キャスターがニュース原稿を読み上げる瞬間だった。


「──ロシア国防省は、北方領土に配備された地対空ミサイルシステム「S700」の発射訓練を行ったと発表し、アメリカや日本を牽制する狙いがあると見られます。更に日本防衛省は、X日午前3時頃、ロシア海軍の艦艇40隻が津軽海峡を通過したのを確認したと発表しました。この40隻はロシア海軍がオホーツク海で行っていた大規模演習に参加していたとみられます。日本周辺でのロシア軍の活動が急速に活発化しており、緊張が高まっています」

 

 クソどうでもよかったから、俺はそのニュースをほとんど聞き流した。

 そのうち紗希と目が合う。

 やがて紗希は冗談っぽく言った。


「ねえ勇輝。もしウクライナみたいに、ロシアが日本に侵攻してきたらどうする?」

「戦争なんてやだなぁ。紗希が殺されたら悲しい。それに、俺まだ死にたくねぇんだけど」

「私も戦争なんて絶対やだ」

「もし戦争が起きたら“死にたい”なんて言葉、たぶん誰も言えなくなるよ。戦争してると、生きてることが当たり前じゃなくなるから」

「命が担保されてるから、死にたいって言えるんだよね」

「うん」

「日本で戦争起きる確率ってどのくらい?」

「低いと思うけど、絶対に日本で戦争が起きないとは言い切れないよな。だって実際にロシアは無意味な戦争を起こしたし、ロシアと日本クソ近いし」

「もしロシアが日本に侵攻してきたら、勇輝も兵士として戦わないといけないの?」

「わからない。でも何もせずに無抵抗のままロシア軍に虐殺されるくらいなら、俺はロシア軍と最後まで戦った上で死にたい」

「やめときなよ。遠くに避難しようよ」

「多分、18歳から60歳までの男は軍隊に入れ、みたいな感じになると思うよ」

「やだなぁ」

「うん。やだ」

「よくわかんないけど、もし日本が戦争になったらアメリカが助けてくれるんじゃないっけ?」

「日米安保条約があるから助けてくれる。日米共通の敵が現れて日本が戦争になった場合アメリカは日本を助ける義務がある」

「アメリカ軍が日本人と一緒に戦ってくれるってこと?」

「アメリカ軍が何万人も日本に来てガチで敵と戦ってくれるみたいな可能性は超低い。アメリカは日本に武器や医薬品を補給するだけかもしれない」

「そうなん? 一緒に戦ってくれないの?」

「別にアメリカは必ずしも兵士を日本に派遣する義務は無い。後方支援だけでも日本を戦争から助けたことにはなるらしい。日本に兵士を派遣してくれるかどうかは、全部アメリカの気分次第。もし俺がアメリカの兵士だったら、わざわざ縁もゆかりも無い日本に行って戦うなんてめっちゃ嫌だけど」

「でももしロシアが本気で侵攻してきたとして、日本の自衛隊だけじゃ勝てなくない?」

「99パーセント戦争に負ける」

「じゃあどうするの?」

「1パーセントの奇跡を引くしかない」

「そっか……」

「フーチン大統領を誰かが暗殺してくれたり、ロシア国内でクーデターが起こることに期待するしかないと思う。ロシアに戦争で勝つにはそれしかない。それだけフーチン大統領の頭は狂ってる。普通に生きてるロシア国民も可哀想だ。いかれた権力者のせいで全世界から風評被害を受けて。ロシアにフーチンを支持してる若者なんて全然いないよ。支持層は年寄りばかりだ」

「物知りだね」

「俺、頭いいから」

「真剣な顔でよくそんなこと言えるね。ナルシストかよ」


 紗希は笑った。つられて俺も少し笑った。


「平和が1番いいよ」

「うん。俺は紗希のヒモでいられたらそれだけで幸せ。他に求めるものは何も無い」

「まさかずっと働かないつもりなん?」

「働くよ。そのうち」

「そのうちっていつ?」

「いつ頃がいい?」

「じゃあ明日から仕事探して!」

「えぇー? せっかくもっと楽できると思ってたのに……」

「楽するなよ。私だってほんとは働きたくないもん。看護師なんてもう疲れた。りんご農家やりたい」

「りんご農家いいね。俺もやりたい」

「一緒にやる?」

「うん」

「私、職場の人間関係に疲れた。精神科の看護師っていう仕事自体は楽しくて好きなんだけどね。勇輝が仕事辞めた理由も人間関係だっけ」

「そう。上司がうぜえから辞めた」

「最近思う。同じ国に生まれて同じ言葉を使って話してるはずなのに、なんでみんな分かり合えないんだろう。こんなに沢山の人がいて、なんでみんな心が孤独なんだろう」

「わからない」

「勇輝、どっか移住してりんご農家になろう」

「まじで言ってるの? 紗希が行くなら俺はどこにでも行く」

「いや、冗談。でも自営業に憧れてるのは本当」

「なにか2人で色々考えてみようよ。自営業って言っても無限にあるから」

「最近よく聞くけど、唐揚げ屋がめっちゃ儲かるらしい。脱サラして唐揚げ専門店始める人もいるんだって」

「そうなんだ。まあ唐揚げ嫌いな人いないもんな」

「いない」

「紗希は子供の頃なりたかったものってある?」

「アイドル。あはは」

「今からアイドル目指せば? アイドルも自営業だよ」

「無理に決まってんじゃん。顔も可愛くないし、もう24のババアだもん」

「紗希は可愛い」

「可愛くない。変わり者かよ、お前」

「いや、普通にめっちゃ可愛いよ」

「付き合ってるから可愛く見えてるだけだよ」

「客観的に見て可愛い。それに24歳なんてまだ生まれたての子鹿みたいなもんだ。アイドルになろう」

「無理なもんは無理。勇輝は小さい頃、何になりたかった?」

「プロ野球選手になりたかった」

「じゃあ今から目指しなよ。野球選手は自営業だよ」

「無理だ」

「無理でしょ? 勇輝が野球選手になれないように、私もアイドルとか無理なの」

「そんな時に私を救ってくれたのが、この青汁でした」

「は?」

「何でもない。2人でりんご農家目指そう」


 すると、紗希が怖い顔でこう言った。


「あのさあ……。勇輝は、りんご農家を舐めてるでしょ!?」

「舐めてないよ。多分めっちゃ大変な仕事だし」

「私は舐めてるよ」

「舐めてるのか……」

「うん。あははは」


 高校時代に読んだ小説でこんな言葉を見たことがある。【その人を規定するのは、その人の持つ可能性ではなく不可能性である】


 ◆


「めっちゃ美味しい」


 紗希がカレーを食ってそう言った。

 カレーをまずく作る方が難しい。だが、美味しいと言ってくれて俺は嬉しかった。

 

「そう。よかった」

「りんごジュースで作ったカレーっていつものと全然違うね。クソ甘い」

「うん」


 俺は飯を食ってる時、口数が減る。誰に言われたわけでもないが、昔から口に食べ物が入ってる時は一切喋らないようにしていた。

 

「正直、勇輝がヒモでいてくれて助かってるよ。家事は全部やってくれるし、ご飯も毎日勉強して作ってくれる」

「ヒモなら家事くらい真面目にやらないと」

「真面目なヒモで助かってるけど、たまには散財したり、欲しいもの買ってもいいんだよ」

「じゃあパチンコ打ってもいい?」

「毎日は駄目だけど、たまにならいい」

「わかった。あと俺、あんまり物欲が無いんだよ。何も欲しいもの無いや。昔は欲しいものいっぱいあったんだけど、今は興味が持てない」

「新しい趣味でも探せば?」

「趣味か。バイクは少し興味ある。風になりたい。あと釣り。魚が食いたい」

「楽しそうじゃん。興味あることは全部やってみなよ」

「うん」

「今はコロナであれだけど、旅行とかアウトドアが趣味の人って多いよ。コロナが落ち着いてきたら旅行しよう」

「うん」

「そういえば1人キャンプって流行ったじゃん?」

「流行った」

「1人でキャンプして何が楽しいのかな。1人ぼっちで山奥でキャンプして泊まっても虚しいだけだと思うんだけど。私の感覚が変?」

「いや、普通だと思う。俺、1人キャンプなんて金もらっても行きたくねえもん」

「なんで?」

「深夜に幽霊が出そうで怖い。明るい性格の幽霊ならいいよ。でも幽霊って基本、性格が歪んだ2ちゃんねらーみたいな奴しかいないし、そういう幽霊が出てくると怖い」

「25歳の男のくせに幽霊が怖いの?」

「めっちゃ怖い」

「あはははは」


 紗希は笑った勢いのまま立ち上がって、キッチンの方へと向かった。

 戻ってきた紗希は、1本の缶チューハイを片手に座った。500mlでアルコール度数は9%だ。

 

「勇輝も飲む? あと2本あったよ」

「俺はいいや。酒はもうやめたんだ」

「あ、そっか。死ぬまで2度と飲まないってこの前言ってたもんね」

「うん」

「なんかごめん。私だけ飲んじゃって」

「いいよ全然。何も気にならない」

「じゃあ飲む」


 プシ、と鳴って缶が開けられた。

 紗希は酒を飲み始めた。


「勇輝は心霊スポットとか行ったことある?」

「あるよ。18か19の時かな。中学の頃の友達3人と車で行った。俺含めて4人」

「幽霊怖いのによく行けたね」

「1人で行くのは無理だけど俺の他にも何人もいたから。あと、幽霊より免許取りたての友達の運転の方が怖かった。真夜中、崖のあるカーブで100キロ近く出すんだもん」

「やば。下手したら崖から落ちて4人全員死んでたじゃん」

「俺が幽霊になるところだったよ」

「生きててよかった」

「紗希は病院で働いてるじゃん」

「うん」

「夜勤中とかに幽霊見たことある?」

「私は1回も無い。でも他の看護師は見たことある人もいるよ。精神病院だから、病室の中で自分の意思で亡くなってしまう患者さんも、たまにいる」

「そっか……」

「精神科って、患者さんを少しでも生きやすくさせるためにあるんだと思う。私の仕事はその手助け。病気に苦しむ人とか希死念慮を抱える人がいるから、私の仕事が成り立ってる。患者さんが退院したら、また新しい患者さんが入ってくる。ずっとその繰り返し。これは究極の理想論だけど、精神科なんてこの世から無くなってほしい。それって、みんな病んでなくて健康ってことじゃん」

「うん」

「みんな笑って生きられたら、それに越したことはない」

「精神科に入院してる患者さんって、どういう性格の人が多い?」

「優しい人が多いよ。なんでだろうね」


 紗希は真面目な顔で、酒を飲んだ。


 ◆


 しばらく時間が経つと、紗希は完全に酔ってしまったみたいだった。顔色は全然変わっていないのだが、目がトロンとしていて、にやにやしていて、少し様子がおかしい。

 俺は訊ねる。


「酔った?」

「うん。酔ってる。お酒って凄いよね〜。だって酔っちゃえば仕事のストレスとか全部無くなっちゃうんだもん。こんな手軽に天国行けるなら日本に何百万人もアル中の人がいて当然だよ。精神病院の看護師っていう仕事柄、私もアル中の入院患者さんと接する機会多いんだけどさ、基本みんな良い人なんだよね。アル中って気性が荒い人あんまり多くない。知ってた?」

「いや、知らなかった」

「アル中は、どっちかと言えば勇輝みたいな控えめな性格の人が多い」

「へえ」

「私が思うに、アル中は酒しかストレスの捌け口が無いんだよ。孤独なんだ、心が」

「そうかもね。人間関係が充実してる人は苦しくなった時、アルコールなんかに頼らず人に頼る」

「そうそう。だからアル中は、どこか欠けた人が多いよ。病棟の患者さん見ててもそう思う。別に、友達が多い少ないの話じゃないよ。友達が多くても孤独な人はいるし」

「そうだね」

「私も友達は結構多い方だけど、本当に大切にしたいと思える友達って、たった数人しかいない。そんなもんだよ。勇輝は友達どのくらいいる?」

「俺は友達少ないよ。今はリアルとネットを合わせて8人くらい」

「めっちゃ多いじゃん」

「そうかな」

「気になるんだけど、勇輝の友達ってどういう人が多い?」

「精神を病んだ人が多いかなぁ」

「やっぱり。私の予想通りだ」

「そっか」

「類は友を呼ぶっていうけど、自分とは全然違うタイプの人と関わることで初めて見える景色もあるよ」


 そう言って、紗希は缶チューハイをごくごく飲む。そして「あー、9%の酒ってなんでこんなにまずいんだろう」と呟いた。

 やがて、コン、という甲高い音が鳴り、飲みかけの缶チューハイがテーブルに置かれた。


「そういえば勇輝、今まで私に1度でも怒ったことある?」

「怒ったこと? あるかな?」

「私の記憶が正しければ、1回も私に怒ったことないよ」

「あ、そうなんだ」

「もっとちゃんと怒ったほうがいいよ。私、勇輝に1回ちゃんと怒られてみたい。何したら怒る? もし私が浮気したら怒る?」

「浮気したら『今まで俺に付き合わせてごめん』って謝って別れるだけだと思う」

「そっか、浮気しても怒ってくれないのか。たぶん勇輝の頭の中には怒るっていう思考回路が無いんだよ」

「人間だから、そりゃ俺にも怒りの感情はあるよ」

「でも何かに対して怒ってるところ見たことないんだけど」

「怒るのめんどくさいじゃん」

「内に怒りを溜め込んでるってこと?」

「そういうわけでもない」

「日頃、いつも私が勇輝に怒るばかりでバランス釣り合ってないから、これからは私のこと怒ってほしい」

「うーん、できたらそうする」

「じゃあ今、試しに1回怒ってみて」

「え? なんで?」

「怒る練習しとかないと、いざというとき私を怒れないよ。怒り慣れてないんだから」

「そうかもしれないけど、そんないきなり怒れないよ」

「何ヶ月も同棲してるんだから、日頃、私への不満とかあるでしょ。今、その不満を全部ぶち撒けていいよ。ちゃんと私のこと怒って」

「分かった。そこまで言うなら紗希のこと本気で怒るわ。俺は高校時代、北関東の狂犬と呼ばれた男だ。そして俺の父はヤクザみたいな男だった。俺にもその血は流れている」

「そうなんだ。じゃあ本気で怒ってみて」

「この俺を怒らせていいのか……? 普段は力を封印してるんだ。封印を解いた俺は、あまりに恐ろしいからな。大陸が1つ吹き飛ぶぜ」

「前置きはいいから早く怒って! 早く怒らないと怒るよ!」

「え? なんで紗希が怒るの?」

「だって勇輝が怒らないんだもん」

「頑張って怒るから待ってろ。今エネルギーを溜めてる」


 缶チューハイを持った紗希とずっと目が合っている。紗希は笑っている。俺は少し深呼吸して、割とでかい声でこう言った。


「おいてめぇ!!」

「なに?」

「おいてめぇこの野郎! お前マジで俺を怒らせたな! おいてめぇ! ……おいてめぇ!」


 そこから俺は無言になり、何も言わなかった。

 すると紗希がけらけら笑った。


「おいてめぇしか言わないじゃん! お前は壊れたAIかよ!」

「だって怒る内容が全く思いつかなかったから……」

「私に対する不満とか無いの?」

「無い」

「そっかー。そんなに私のことが好きなんだ?」


 俺は話を逸らした。


「紗希、明日は日勤? 夜勤?」

「夜勤。だから飲んでるの」

「俺ちょっとタバコ吸ってくるわ」

「おいてめぇ!」

「……紗希、俺の『おいてめぇ』を取るなよ。俺の専売特許だからな」

「ずるい。私にも使わせろ!」

「おいてめぇ! 俺の専売特許を奪うんじゃねえ!」


 すると紗希が笑った。


「いいじゃん。今後はそうやって私に怒ってよ。もっと怒られたい」

「わかった。俺は鬼になる」


 俺も笑った。


 ◆


 俺は1人でベランダに出て、ぼーっとタバコを吸っている。空には無数の星が浮かんでいる。丸い月も浮かんでいる。

 10分くらい過ぎただろうか。

 気がつくと、隣に紗希が立っていた。缶チューハイ片手に、ベランダの欄干に軽く両肘をついて、気怠そうにしている。

 俺は指に挟んだタバコの先端の火を見つめながら、呟く。


「俺もうタバコも辞めたいなぁ……」

「どうして?」

「長生きしたいから」

「長生きしたいの?」

「長生きしたい」

「そう思えるようになって嬉しい。半年前は死にたいって言いまくってたのに」

「変わったのは紗希のおかげ。ありがとう」

「別に私は何もしてない。ただ一緒にいただけ」

「ただ一緒にいるだけでいいよ」

「うん」

「俺がタバコ吸い始めた理由、紗希に話したことあるっけ?」

「え、聞いたことない」

「病気になって早く死にたいから吸い始めたんだよ。なのに、今は長生きしたいと思ってタバコをやめようと思ってる。結局何がしたいんだ俺は」

「一貫性がないね」

「生きたいのか死にたいのか、俺の気持ちはコロコロ変わってしまう」

「今は生きたいんでしょ?」

「めっちゃ生きたい」

「ならいいよ。もし死にたくなったら、すぐ言って」

「分かった」


 それから少し沈黙が流れた。俺は何本目かのタバコを吸い、紗希は缶チューハイを一口飲んだ。


「私はね、別に自分の人生に大して凄いことが起きなくてもいいんだ。ゆるい幸せが、なんとなくダラダラ続いてくれたら、それで良い」


 その瞬間、春っぽい穏やかな風が流れたので、俺は言った。


「もう春だね」

「早いね。時間が経つの」

「ずっと子供でいるつもりだったのに、いつのまにか大人になってた」

「私も」

「俺、そろそろまた仕事探そうかな」

「別にずっとヒモでもいいんだよ。家事全部してくれて毎日助かってる」

「でもずっと紗希のヒモでいるわけにもいかない。もっと男としてしっかりしたい」

「じゃあ頑張れ」

「うん」

「今度私が休みの日、どっか行こう」

「どっか行こう」

「桜が咲いたらお花見しよう」

「うん」

「他にも、色々しようね」

「うん」


 そのうち、紗希の手がほんの少しだけ震えたのを、俺は見逃さなかった。紗希の顔は少しだけ何かに怯えたような表情だ。

 紗希は言った。


「──ねえ、もし日本で戦争が起きたらどうしよう」


 俺は笑い飛ばして答える。


「起きないよ。戦争なんて」

「起きるかもよ」

「将来、起きるかもしれない。でも、それって俺たちにコントロールできることじゃないじゃん。だから何も考えなくていいと思うよ」

「私が心配性すぎるのかな。戦争がすごく怖い。この前、夢の中で勇輝が私を部屋に残して戦争に行っちゃった。それがすごい怖かった。もう2度と会えないような気がして」

「そっか。紗希、そんな夢見たんだ」

「うん。怖かった」

「大丈夫。ずっと一緒にいる」

「本当に……?」

「おいてめぇ! 余計な心配してんじゃねえ!」

「うるせえな! この近さでいきなりでかい声出すなバカ! 2度と喋れねぇ体にしてやろうか!」

「あ、ごめん」

「めっちゃすっきりした。部屋戻ろ!」

「うん」

「聞いて聞いて。今日職場でめっちゃ嫌なことがあったんだよ。私が超嫌いな高山さんっていう看護師がいるんだけどね──」


 紗希と俺は話しながらベランダから部屋に戻った。

 桜の季節になったら、お花見に行こう。

 俺はそんなことを考えていた。








 〜









 〜ロシア大統領官邸〜


「大統領、緊急事態です」

「どうした」

「モスクワを始めとした多くの主要都市で、ロシア国民による大規模なデモが同時多発的に進行しています。どうやら若年層が中心となっているようです」

「若者はプロパガンダを信じないか。武装勢力はあるのか?」

「先ほど、クレムリン近郊で、民兵らしき姿が確認されました。人数に関しては把握しきれていませんが、少なくとも200人は超えているかと思われます」

「なんだと? クーデターを起こすつもりか。愚民どもの分際で舐めた真似を……。全てのデモ隊を今すぐ制圧して全員逮捕しろ。クレムリンに近付く民兵は全員その場で射殺しろ。1人たりとも俺に近付かせるな」

「承知しました」

「……どうやら日本に侵略戦争を仕掛けるのは時期尚早だな。国内の全ての反逆者たちを今すぐ潰せ。クーデターなど何があっても許すな」







 2話に続く






【あとがき】

・以前のアカウントの時に書いた小説をブラッシュアップして再投稿します。個人的に俺は一番この小説が書いてて楽しかったです。

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