第10話 さよなら名探偵

 眩い日の光に照らされて、白樺の大地の雪と大河の氷が溶け出す。熊は長い眠りから目覚め、町の人々は春の訪れを予感して胸を躍らせる――そんな北国の光景を思い起こさせる、甘く優しい、しかしどこか切なさも感じさせるメロディー。ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品三十五番第一楽章は、そんな曲であると良介は感じていた。それは彼が高校生活最後の文化祭でソリストとして披露するものであり、そして、プロのヴァイオリニストである母・光(こう)元(げん)寺(じ)美(み)緒(お)のデビュー曲でもあった。

 文化祭の前日、彼は一人では広すぎる家のリビングでⅮⅤⅮを再生し、ソファーで頬杖をつきながら若かりし日の美緒の姿を見つめていた。真っ赤なドレスと深紅のバラのコサージュを身につけた彼女の演奏は艶やかで、堂々としている。そして、たった一人で主旋律を奏でているにも関わらず、その音はオーケストラに決して引けを取っていなかった。それどころか、指揮者に代わってオーケストラを率いているようにさえ見える。

 父を裏切って不倫をし、結果離婚して自分の元を去った母には冷たく接してしまう良介だったが、彼女に抱いた憧れだけは遂に消えることがなかった。一体、この映像を何度観たことだろう。この曲を、何度聴いたことだろう。願わくは、自身も彼女と同じように、プロとして演奏したかった。その夢が叶うことはなくなってしまったが、それでも、ヴァイオリニストとしての引退を華々しく飾る曲として申し分ない――否、これ以外に考えられない。良介は自らの想いを噛み締めつつ、瞼を閉じ、耳を澄ませる。

 泣いても笑っても、明日が最後だ。悔いのないように弾こう――拍手喝采に包まれる美緒の笑顔を見届けてから、彼はリモコンの停止ボタンを押した。テレビ画面は地上波に切り替わり、あるニュースを報道していた。

『続いて、速報です。横浜市〇△区のある一軒家から火が出ているとの通報があり、現在消防隊員が消火活動を進めています。この家に住んでいる剣持(けんもち)裕(ゆたか)さん、縁(ゆかり)さん夫婦と長男学(まなぶ)さんが行方不明となっており……』



 雲一つない晴天となった、十月最後の週末。冬の気配を感じさせる寒気を孕んだ風に吹かれながらも、第六十三回鳳凰祭は朝から活気に満ち溢れていた。

「こんにちはーっ、三年B組、お化け屋敷やってまーす!」

「本日十二時より、校庭の野外ステージにて焼きそば大食い大会行いまーす、ぜひご参加くださーい!!」

「同じく野外ステージにて、仮装コンテストを開催します! エントリーは十二時まで、開催時刻は十四時からとなっておりまーす!!」

 校内は例年通りハロウィンらしい装飾で彩られていて、仮装をした生徒たちが懸命にビラ配りをしている。仮装大会に参加するためか、そのような風貌をした来校者も多い。校門付近に設置された総合案内所の集会テントの下でパンフレットを配りながら、葵はそんな様子を嬉しそうに眺めていた。

「何や吉川、どないしてん?」

「いえ。ちょっと、去年のことを思い出してまして」

「ああ……懐かしなぁ、もう一年も経ったんやなぁ」

 昨年は、パティシエになりたいという達也の夢を応援するために、葵がハロウィンティーパーティーという企画をクラスの出し物として提案したのだ。その予行練習として調理実習でスイーツを作った時にある生徒がアレルギー反応を起こして倒れてしまい、達也がその事件の容疑者にされてしまったのだが、良介たちの協力によって無事解決されたのだった。

「会長さん、この一年でかなりの有名人になりましたよね」

「せやけど、吉川もなかなかのもんやで? 近々、LGBTQ+(プラス)の保護団体? NPO法人? の人たちからインタビューされるんやろ?」

「ええ、恐れ多いですが……」

 葵が生徒会長に就任した後、彼女の演説は瞬く間にSNSで拡散され、内外からしばらく批判の声が上がった。けれど、達也の支えもあってか、彼女は自らの意志を曲げようとはしなかった。生徒会役員の立候補者も二人辞退してしまったが、その代わり彼女の言葉に感銘を受けたという生徒がやって来て、何とか新体制を整えることができたのだった。生徒会室の前に置いている意見箱にも、誹謗中傷の紙も少なからず入っていたが、匿名で自らの素性や悩みを明かし、演説に励まされたという手紙も何通か投函されていた。

「そういえば会長はん、今日が最後の舞台らしいな。かの有名ヴァイオリニストの息子ゆうのもあって、音楽業界の人らも来とるみたいやで」

「え、本当ですか!?」

 葵が仰天すると、達也は自身が受け取った数々の名刺を彼女に見せた。音楽雑誌の記者や評論家、オーケストラの経営者など、肩書は様々だった。

「ほわぁ……何だか、圧倒されてしまいますね」

「せやな。こんなに注目されとって、プロでも難しい曲に挑戦しはるのに、プロになれへんなんて……」

 掴みたい夢があるのに、許されない。そんな人も世の中にはいるのだと思うと、達也は歯痒かった。

「そういえば、もうすぐ開演ですよね。見に行けなくて残念です」

 腕時計を見て、葵は小さく溜め息を吐いた。針は、開演時刻の十分前、九時五十分を指していた。

「あれ? そういや、理事長が来ぉへんな。学校説明会のパンフ配りに来はるゆうとったのに、何しとるんやろ」

「そうですね。渡邊くん、理事長室へ行ってきてもらえますか?」

 了解や、と言って敬礼し、達也は駆け出した。



「いやぁ、実に惜しい。あなたのような人材が、今日でヴァイオリンを手放してしまうなんて」

「同感です。良介さん、本当によろしいのですか?」

「……ええ。もう、決めたことですから」

 その頃ホールの控室では、達也に名刺を渡した人物たちが良介と向かい合っていた。彼らは縋るように問うたが、それでも良介の意志が揺らぐことはなかった。

「では、そろそろ時間ですので……」

「ああ、そうですね、長々と失礼いたしました。演奏、楽しみにしております」

「有難うございます。ただ、くれぐれも、今回の演奏を記事にはしないようにお願いいたします。……親戚が、煩いので」

「承知しております。ご迷惑はおかけいたしません」

 深々と頭を下げてから、彼らは去っていった。肩の力を抜き、大きく溜め息を吐く。

「お疲れ、真田くん。今日もお互い頑張りましょう」

「……ああ。よろしく頼む、部長」

 白い蝶ネクタイを着けながら、燕尾服姿の白鳥姫子が背後から声をかける。その姿は凛としていて、前任の指揮者に怯えて泣いていた頃の彼女の面影はどこにもなかった。そんな彼女も、今日の舞台が指揮者として、部長としての最後の務めとなる。

「良介くん!」

「百合川……」

 ドアの音に身構えたが、そこに立っていたのは薫だった。彼女の出演するミュージカルはオーケストラの演奏の後なので、まだ制服姿のままだ。

「私、メイクとかしなくちゃいけないから途中で抜けちゃうんだけど、楽しみにしてるね。良介くんの晴れ姿」

 ふふっ、と愛らしく微笑む薫。反射的に頬を赤らめ、目を逸らす良介。

「それとね、実は、私が用意したビッグサプライズがあるの。演奏が終わったら教えてあげるから、期待しててね!」

「サプライズ……?」

 何だそれは、と言おうとした時、既に彼女の姿はなかった。

 ホールには既に観客が集まっていて、騒めきが控室まで聞こえてくる。開演のアナウンスが終わると、まずオーケストラ部の面々が拍手を送られながら入場した。次に姫子が舞台袖から現れ、最後に彼女がタキシード姿の良介を招き入れる。客席を眺めつつ、思わず母の姿を探してしまった自身に気づき、良介は心の内で舌打ちをした。

 ヴァイオリンを構え、オーケストラ部のメンバー、そして姫子と目を合わせて頷き合う。姫子が手を振り始め、オーケストラの美しい和音が奏でられる。瞼を閉じ、呼吸を整え、心地良い旋律に身を委ねるように、彼は弓と指を動かし始めた。ヴァイオリンへの未練、両親や真田一族との軋轢――彼の心を乱していた全てのものが彼の意識から排除され、彼はただひたすらに、音楽の神へ捧げる協奏曲を、全身全霊で響かせた。

 およそ二十分間に及ぶ最後の晴れ舞台は、あっという間に終演を迎えた。気づけば彼の額と前髪は汗で濡れそぼっていて、呼吸は浅く速くなっており、観客たちからは割れんばかりの拍手が送られていた。姫子に肩を叩かれてようやく我に返り、慌てて一礼する良介。

 ああ、終わってしまったんだ――彼は頭を下げながら、歯を食いしばり、全身を震えさせ、必死に涙を堪えていた。


「よう、良介! お疲れさん!!」

 控室に戻ると、隼人と昌子が差し入れを携えて良介を出迎えた。

「お疲れ、会長! 演奏、すっごく良かったわ!!」

「……ああ、有難う」

 嬉しいはずなのに、その声はとてもか細かった。そんな彼の心中を察し、二人はそれ以上演奏については何も言わなかった。

「そうそう、この後は薫たちのミュージカル見なくちゃね! まだ部室で打ち合わせしてるはずだから、会長も一緒に行かない?」

「いや、俺は……」

 しばらく休もうと思う、と言いかけたが、それは突然控室のドアを開けて割り込んできた葵と達也によって遮られる。

「会長さん、大変です!!」

「りっ、理事長が……理事長が……!!」

 顔面を蒼白とさせ、息を荒げる二人を見て、隼人と昌子から笑顔が消えた。

「どうした、何があった!?」

 良介が問うと、涙目になって唇を震わせながら、葵が小声で言った。

「こっ、こ……殺されてたんです、誰かに、胸を裂かれて……!!」

「なっ……!?」

 目を見開き、互いに顔を見合わせる三人。オーケストラ部の面々に聞かれたらまずいと思い、そっと廊下に出る。

「警察には知らせたのか、吉川!?」

「それが……通報したら、校舎に仕掛けた爆弾を爆発させるという書き置きが……」

「何だと!?」

 そう言うと、葵は大声で泣き出してしまった。まだ平静さを保っていた達也が、その書き置きを良介に差し出す。

「これと、ジャック・オ・ランタンの被り物と黒いマントが、現場に残っとったんですわ」

「……前生徒会長、真田良介に告ぐ。通報したら、直ちに校舎中に仕掛けた爆弾を爆発させる……学園ジャック・ザ・リッパーより?」

「ジャック・ザ・リッパーって、あの有名なロンドンの連続殺人鬼じゃない!!」

「良介、これ、SNSのユーザー名じゃねぇか!?」

 横から覗き込んでいた隼人が指さしたのは、それらしきアルファベットと数字の文字列。検索すると、それはすぐにヒットした。アイコンは不気味なジャック・オ・ランタンのマスクを被った人物の肖像で、そのアカウントは昨晩作られたばかりのようだ。そして、まだ三件だけの投稿の文面は、いずれも意味深で気味の悪いものだった。

「放蕩息子を赦さなかった者たちへ、業火に焼かれ憤怒の罪を悔いよ。権力によって金を貪った支配者へ、正義の刃によって強欲の罰を下す。己の務めを放棄した者へ、怠惰の罪深さを知れ……」

「何よこれ、一体どういうこと!?」

 パニックになりかけている昌子を他所に、眉間に皺を寄せ、食い入るようにその画面を見つめる良介。その真意がわかった時、激しくなり始めた彼の鼓動。

「これは……俺に対する、犯行予告だ。こいつは、あと四件の殺人を犯す。止められるものなら止めてみろ、と言っているんだ……!」

「あと四件って、どうしてわかったんだよ!?」

 隼人が叫ぶと、良介は冷や汗を掻きながら、それでも自身と周囲を落ち着かせようと、敢えて淡々と答える。

 憤怒、強欲、怠惰。この三つは、いわゆる『七つの大罪』に含まれているものである。残りの四つは、淫蕩、貪食、傲慢、そして嫉妬。それらは主にカトリック教会において、人間を罪に導く悪しきもの、即ち禁忌とされている。

「そうか、じゃあ二件目の強欲の罪人は理事長だったってことだな!?」

「ああ。三件目は、怠惰の罪人……どこかで、自分の仕事をしていない者が狙われるということかもしれない」

「ちょっと待って、一件目は? 理事長より前に殺されたのは一体誰なのよ!?」

「一件目の投稿は昨日の夜……横浜市内で、火事があった直後だ。見つかった遺体は二人分、剣持裕と剣持縁。長男の剣持学――つまり、先々代の生徒会長の剣持先輩だけ遺体が見つかっていない上に、行方不明のままだ。つまり……」

「犯人は、剣持先輩で……最初に両親を殺したってのか!?」

「恐らくな。渡邊に吉川、すまないが不審な動きをしている人物を探してみてくれ」

「りょ、了解や!!」

 再び敬礼をして答え、まだ話す余裕のない葵を懸命に宥める達也。葵が泣き止むと、二人はすぐに控室から飛び出した。

「つーか良介、何で剣持先輩がこんなこと……」

「わからない。だが、学校のことをよく知っている人物でなければ、校内で犯行に及ぼうとはしないだろう。それに、二人目のターゲットは理事長で、挑発している相手は俺だ。ならば、学校か……俺に対する恨みが動機の可能性が高い」

 黒い蝶ネクタイを外し、ジャケットを脱ぎながら答える。

「そういえば、校内に爆弾が仕掛けられてるって本当なのかしら!?」

「それを確かめる術はない。兎に角、俺たちは急いで校舎中を捜索するぞ。もしかすると、第三の殺人はもう済まされているかもしれないからな……」

 背筋に悪寒が走り、呼吸すら忘れそうになる。それでも彼らは頷き合い、それぞれの捜索エリアを決めてから走り出した。

 三件目の現場を見つけたのは、隼人だった。午前十一時過ぎのことだった。

『見つかったぜ、良介。場所は校庭の倉庫、殺されたのは……サボり魔で有名な、二階堂麗羅だ』

「……そうか、わかった。そこに被り物は?」

『ああ、あるぜ。フランケンシュタインのマスクと、血のついた透明な雨合羽が。あと、コイツをここに呼び出したエサらしき物もな』

 そう言いながら、隼人はコンビニで万引きをしている麗羅の写真を見つめた。口封じのための札束も血に染まっている。

『つまり怠惰ってのは、学生の本分である学業をロクにしなかったってことか。コイツ、よく授業サボってたからな』

「どうやら、犯人は一件毎に被り物と上着を替えているようだな。……そろそろ、次の予告が投稿されている筈だ。俺はそれを確認する、お前は二階堂のことを梅宮に伝えてくれ」

 了解、と言って隼人は通話を切った。直後、屋上に続く階段の踊り場でSNSを開く良介。

「最後の審判を待たずに我は蘇り、淫蕩の罪を裁く……」

 最後の審判とは、世界が終焉を迎えた時に蘇るキリスト教徒たちが、イエス・キリストによって天国もしくは地獄へ振り分けられるという教義である。その前に蘇るということは、死者に扮して第四の殺人を犯すという意味か――そこまで考えた時、一筋の閃光が走るように、ある考えが良介の脳を過ぎった。

「隼人、お化け屋敷だ! お化け屋敷をやっている教室へ向かえ、確か三年B  組だったはずだ!!」

 それだけ言ってスマートフォンをポケットにしまい、再び駆け出す良介。背中の汗で、ワイシャツはすっかり肌に張りついてしまっている。

 彼らがそこに到着したのは、ほぼ同時だった。お化け屋敷は大盛況で、長蛇の列ができている。

「会長。私、十一時半からここのシフト入ってるから、ちょっと早めに交代して中の様子見て来るわ!」

「ああ、頼んだ」

 教室の中からは、楽しげな悲鳴が響いてくる。何も起きていないことを祈り、脂汗を垂らしつつ、良介は壁に寄り掛かり思考を巡らせた。



「いやぁ、素晴らしい、実に素晴らしい!! 思った通りだ、やはり僕の目に狂いはなかった! なんて美しいカトルーシャなんだ、最高だよ百合川さん!!」

「あ、ありがとう……」

 その頃、ホールの控室では、演劇部の面々が忙しなく準備を進めていた。部長兼脚本家、演出家である三年B組の高遠(たかとお)譲(じょう)治(じ)は、天然パーマの髪を振り乱し、丸眼鏡が飛んでしまいそうなほどの勢いで頭を振って興奮していた。赤い刺繍がほどこされた白いブラウスと同じく赤いスカートに身を包み、色とりどりの花の冠を乗せた薫は、困惑しながら礼を言う。これは、ウクライナの民族衣装を参考にして作られたものだ。

ミュージカルのタイトルは、『魔女の娘カトルーシャ』。ベースになっているのは、『キエフの魔女たち』というウクライナの伝承である。

戦士の集団・コサックに所属している男、ヒョードル・ブリスカフカは、魔女の娘と噂されている美しい女性、カトルーシャと結婚する。しかし、彼女は本当に魔女の娘で、毎晩のように密かに行っていた魔術をヒョードルが真似てみると、彼は魔女や怪物たちの集まるサバトに飛ばされてしまった。

 後半は、オリジナルのストーリーとなっている。ただの人間であるヒョードルに秘密のサバトを知られてしまったことを理由に、魔女や怪物たちは彼を殺そうとする。剣で殺されかけるヒョードルだったが、それを受けたのは、愛する妻・カトルーシャだった。私が死ぬことによって魔法を発動させ、彼からサバトの記憶を失くして家へ帰らせるから、どうか彼を殺さないで欲しい――そう言い残し、カトルーシャは息絶えるのであった、という筋書きだ。

 薫は、最初こそ戸惑ったが、自分の為に母の出身国であるウクライナの伝承を題材にした脚本を書いてくれたという嬉しさ、そして良介に舞台を見てもらえるかもしれないという期待から、了承したのである。

「百合川さん、改めて、この度は本当に有難う!! 一緒に、いい舞台にしようね!!」

 薫の手を両手で包むように握り締め、大声で叫ぶ譲治。彼の熱気にたじろぎながらも、はい、と笑顔を見せる薫。

 良介くん、見てくれるかな――高鳴る胸を台本で押さえながら、彼女は開演時刻を待ち続けた。

 時計の針は、十一時半を指そうとしていた。



「会長、会長!!」

 魔女の衣装を纏った昌子が、血相を変えて出口から顔を出し、手招きをした。そして、良介の耳元で囁くように報告する。

「……そうか、わかった」

「どうするの、バレるのは時間の問題よ……?」

「だが、まだ騒ぎを起こすわけにはいかない。お前は、このままここで仕事をしていてくれ」

 わかったわ、と声を震わせながら答え、不安げな表情で教室に戻る昌子。良介は、隼人を連れて誰もいない屋上へ向かった。

「……手遅れ、だったのか?」

 隼人が問うと、良介は渋い表情で黙って頷いた。

「お化け役をしていたカップルが、通路の仕切りの内側で殺されていたらしい。死体はゾンビの棺桶の中に詰め込まれていたそうだ」

「ゾンビ……」

「剣持先輩は、それに扮していた。ゾンビのマスクと血痕付きの脱ぎ捨てられていた衣装がその証拠だ……」

 屋上から校庭の様子を見つめつつ、歯を食いしばる良介。

「なぁ。剣持先輩って、三年B組の奴と結託してんじゃねぇか?」

「何故そう思う?」

「だって、そうじゃなきゃ仕切りの内側の入り口がどこにあるとか、棺桶があるからそこに死体を隠せとか、ターゲットが何に仮装してるかとか、そういう指示が出せねぇじゃねぇか! それに、本来ゾンビとして脅かすはずだったB組の誰かのフリをしなきゃ、教室の中には入れねぇだろ!?」

「確かに、お前の言う通りだな……」

「つまり、本当のゾンビ役は剣持先輩の共犯者ってことじゃねぇのか!?」

「……隼人、それをすぐに梅宮から聞いて確認してくれ。俺は、次の犯行を食い止める」

 わかった、と言ってお化け屋敷へ戻る隼人。良介は、再びSNSを開いた。そこには、新たな投稿があった。

「豊穣の神への感謝を忘れた者へ、貪食の罪の裁きを下す……?」

 呟いた直後、校庭の野外ステージから、イベントのアナウンスが鳴り響いた。

「十二時より、焼きそば大食い大会を開催いたします! 参加者の方は、野外ステージへお集りください!!」

 直感で、それだ、と良介は思った。しかし、参加者の中には仮装をした者も多くいる。そこから剣持学らしき人物を見つけるのは至難の業だ――焦り始めたその時、スマートフォンが着信を知らせた。達也からだった。

『会長はん!! 今更やけど、わい、よう鼻が利きますねん! 返り血の付いた服をいちいち脱いどったとしても、犯人の体はもう十分血生臭くなっとるはずや! せやから、その臭いで見つけられるんちゃうかなって……』

「わかった、今すぐ野外ステージへ向かってくれ! 犯人は焼きそば大食い大会の参加者の中にいる筈だ、頼んだぞ!!」

 返事を聞く前にスマートフォンをしまい、階段を駆け下りる。会場に着くと、ステージの前には既に達也の姿があった。

「会長はん、こっちこっち!」

「……渡邊、吉川はどうした?」

 肩で息をしながら尋ねると、保健室で休ませていると達也は答えた。

「どうだ、わかるか?」

「あれですわ。あのヴァンパイアから、血の臭いがするさかい」

 小声で話しながら、目配せをする。黒いマントを纏ったヴァンパイアが、ステージの上で静かにスタンバイしていた。

「かなり濃いメイクしとるけど、剣持先輩っぽい顔ですよね?」

「ああ……」

 彼は、まだ左目を眼帯で覆っていた。やはり、半年前に父親に殴られた後、完治することはなかったようだ。

「ところで、誰を狙っとると思いはります?」

「根拠はないが、優勝者じゃないかと俺は思う」

 やがて、賑やかな雰囲気の中、焼きそば大食い大会は幕を開けた。十数人の参加者が一斉にパック焼きそばを食べ始めたが、フードファイター揃いなのか、驚異的なスピードで食べ進む者が多く、会場は大いに盛り上がった。

 しかし、徐々にギブアップする者が増え、三十分経った頃には決着が着いた。最後に残ったのは、相撲取りのような巨漢だった。

「優勝おめでとうございます!! 賞品のトロフィーと、屋台の食べ物全種類無料券を差し上げます!」

 司会者が言うと、会場からは大きな拍手が送られた。優勝者は照れ臭そうな顔で賞品を受け取ろうとしたが、その時、早々に退場したヴァンパイアが不意にステージに上がろうとしたのを、達也は見逃さなかった。

「アカン!!」

 走り出し、ステージに上がって取り押さえようとする達也。ヴァンパイアは懐からナイフを取り出し、彼の右腕を切り裂いた。

「渡邊ッ!!」

 良介が叫ぶと、異常事態に気づいた観客たちは次々に悲鳴を上げ、会場から逃げ出した。その混乱に乗じ、ナイフを振り回しながら人混みに紛れ姿を晦ませる。興奮しているのか、ヴァンパイアは手当たり次第に人々を斬りつけ、惨劇を繰り広げていた。

「渡邊、大丈夫か!?」

「こ、こんなんただの切り傷や、会長はんは早うあいつを追いかけたってください!!」

 傷を押さえ、苦痛に顔を歪ませながらも声を張り上げる達也。良介は素早く彼のネクタイを腕に巻いて止血をし、次の予告を確認する。

「己の才を過信した者へ、大衆の見守る処刑台にて、その傲慢を悔いよ……」

 投稿を読み上げた時、隼人と昌子が息を荒げて駆け寄って来た。

「良介! わかったぞ、剣持先輩の共犯者が!!」

「高遠譲治よ、演劇部の!!」

「演劇部……!?」

 それを聞いた良介の体は、考えるより先に動き出していた。行き先は、ミュージカル上演中のホール。

「梅宮、渡邊を保健室へ! それと、救急車も呼んでくれ!! 隼人、お前は俺と一緒に来い!!」

「ああ!!」

 ミュージカルには、確か主人公が刺し殺されるシーンがあった。頼む、間に合ってくれ――胸中で祈りながら、良介は瞬きも忘れて走った。



 十二時から始まったミュージカル『魔女の娘カトルーシャ』の上演は順調だった。物語は、ヒョードルを殺そうと魔女や怪物たちが騒ぐシーンまで進んでいた。

「なぜだ、なぜ人間がここにいる!?」

「この秘密を他の者に知られてはならない! 殺せ、この男を殺すんだ!!」

 ミイラ男にフランケンシュタイン、狼男たちが次々に叫ぶ。ナイフを手にするヴァンパイア、その前に立ち塞がるカトルーシャ。

「百合川ッ!!」

 それが振り下ろされる直前、彼女の手を引いて間に入る良介。刃は、彼の背を切り裂いた。

「良介くんッ!!」

 叫ぶように彼の名を呼ぶ薫。隙を逃さず、ヴァンパイアを羽交い締めにして床に叩きつけ、圧し掛かる隼人。良介の白いシャツは瞬く間に赤く染まり、ホールの観客たちもパニックに陥った。

「隼人、どうしよう、良介くんが、良介くんがっ……!!」

「落ち着け、薫! もう救急車が来てるはずだ!!」

 その瞬間、力が緩んでしまったのか、ヴァンパイアは隼人を押しのけた。ナイフを取ったヴァンパイアに思わず身構えた隼人だったが、その刃を向けた先は自身の頸動脈だった。大量の血を噴射させ、その場で倒れたヴァンパイア。薫は、悲鳴を上げた。剣持に構わず、薫の肩を揺さぶる隼人。

「薫、大丈夫だ、すぐに輸血すればきっと……!!」

「……糠喜びさせるな、隼人。俺は、もう……助から、ない」

「は!? 何言ってんだよ、弱気になってんじゃねぇよ!!」

 良介の傷口を押さえながら、涙目になって叫ぶ隼人。しかし、良介は朦朧とし始めた意識の中で、自ら絶望的な事実を告げた。

「俺の血液型は、RHマイナスのAB型だ……日本には、二千人に一人しかいない。同じ血液型の、母さんがこの場にいない限り……すぐに用意できる可能性は、ゼロに等しいだろうな……」

「何バカなこと言ってんだ!! 諦めんじゃねぇよ、良介ッ!!」

「いやっ、死なないで! 良介くん、良介くん!!」

 やがて意識を失い、彼は瞼を閉ざした。泣き叫ぶ薫、震え出す隼人。

「クソッ……せめて、ここに美緒さんがいれば……!!」

「いるわよ、隼人くん!!」

 突如現れた何者かに肩を叩かれ、振り向く。幻覚かと思ったが、そこには確かに、彼の母・光(こう)元(げん)寺(じ)美(み)緒(お)の姿があった。赤で統一されたドレスにメイク、ジュエリー、そして艶やかな黒いロングアップヘアが、相変わらずよく似合っている。

「美緒さん……どうしてここに!?」

「招待して頂いたのよ、そこの可愛いカトルーシャにね!」

 得意気に言って、薫にウインクをする。

「招待した? 薫が!?」

「話は後よ、今はとにかくこの子を救急車へ!!」

 その時、救急隊員が担架を持ってホールの中へやって来た。それを率いていたのは、昌子だった。

「梅宮、こっちだ!!」

 大声を出し、手を振る隼人。良介が担架に乗せられ、美緒が同伴して去っていくと、緊張の糸が切れたのか、その場で卒倒した薫。

「これが、剣持先輩なの……?」

 薫の呼吸と脈を確認してから、血の池の上で倒れている遺体を見つめ、尋ねる昌子。誰もいなくなったホールに、彼らの言葉が木霊する。

「ああ。最初から、自殺するつもりだったんだな……」

 選ばれし賢者に焦がれた惨めな愚者へ。己の浅はかさを知り、嫉妬の罪の裁きを受けよ――それが、学園ジャック・ザ・リッパーの最期の投稿だった。



「薫、薫っ! 気分はどう、大丈夫!?」

「百合川先輩!! ご無事で何よりです、本当に……!!」

 目覚めると、そこには保健室の白い天井、そして泣き腫らした顔の昌子と葵。その奥に、隼人と達也の姿。しばらくしてから、薫は自身が意識を失っていたことに気づいた。窓の外は、既に夕闇に包まれている。

「みんな……ごめんね、心配させて……」

「何言ってんの、アンタが謝ることじゃないでしょ!?」

 ずっと薫の手を握り締めていた昌子が、更に力を込めて叫ぶ。

「達也くん……その腕、もしかして……」

「ああ、気にせんといてください! もう痛くも何ともあらへんから!」

 包帯を巻いた右腕でガッツポーズをしながら、白い歯を見せる。

「良介くん……良介くんは? ねぇ、良介くんは無事なの!?」

 最愛の人のことを思い出し、起き上がる薫。激しい語気に臆しながらも、昌子はそれに答えた。

「大丈夫よ。輸血が間に合ったお陰で、一命は取り留めたって」

「そう……良かった……」

 心から安堵し、瞳を潤ませた薫。たまらず、彼女の細い体を抱き締める昌子。

「……ところで、何でお前が美緒さんを? 直接の知り合いじゃなかったんだろ?」

壁に寄り掛かり、腕を組んでいた隼人が尋ねる。

「うん……実はね、聞いてたの。選挙の集計の後、隼人が良介くんと話してるのを」

「はっ!? お前、あの時バレエ教室に行ってたんじゃねぇのかよ!」

「あの日はね、お休みだったの。それをすっかり忘れてて、すぐ家に帰ろうとしたら、あの噴水公園の前で二人が話してるところを見ちゃって……入りづらい雰囲気だったから、つい、隠れて聞いちゃってたの」

 ごめんね、と言って眉尻を下げる。責めたつもりはなかったので、隼人もすぐに謝罪した。

「連絡は、SNSのダイレクトメッセージで取ったの。良介くんの最後の舞台を、ぜひ見に来てあげてくださいって。多忙な人だからダメ元だったんだけど、来てくれるって言ってくれて……」

 シーツを握り締め、顔を綻ばせる。隼人も、それを見て肩の力を抜いた。

「じゃあ、お前もあいつの命の恩人ってわけか」

「そうね。そうじゃなかったら、会長は助からなかったかもしれないものね」

 昌子に続いて、葵と達也も同意する。すると、突然保健室の扉が開かれた。

「いやぁ、素晴らしい! 傑作だ!! ラブロマンスのハッピーエンドはこうでなくっちゃね!!」

「テメェは……ッ!!」

 拍手をしながら彼らに近寄って来たのは、高遠譲治だった。その姿を見た瞬間、威嚇するように睨む隼人。怯え始めた薫の肩を抱き、大丈夫よ、と囁く昌子。

「その様子だと……もう、全部わかってるみたいだね? 道理で、警察が僕を探し回っていたわけだ」

 いつもの陽気な表情を消し、挑発的に首を傾ける譲治。

「そうだよ、僕が剣持学の共犯者だ。僕もSNSで彼と知り合ってね、意気投合したんだ。どうやら彼も、真田くんのことが心底気に食わなかったみたいだから」

「彼も、って……」

 薫が恐る恐る問うと、譲治は眉間に皺を寄せ、叫び出した。

「そう、僕も彼が憎かった! 羨ましかった!! 何故なら、君に想われていながら、ずっと君の気持ちに応えようとしなかったからね!!」

 それは、つまり恋人同士になろうとしなかったということだろうか。そう思いながら、彼らは後に続く言葉に耳を傾けた。

 譲治は、薫が転校してきたその日から彼女に想いを寄せていた。しかし、それは永遠に叶わぬ恋だと悟るまで時間はかからなかった。譲治は嫉妬で胸を掻きむしる日々を送り続けた。真田良介になりたい、自分が彼だったらすぐに恋人同士になるのになぜ彼はそうしないんだ、彼女の気持ちはもうわかっているだろう――そんな苦悩を抱えていた譲治はある日偶然、SNSで剣持学と知り合った。

 学は、難関国立大学の入試に失敗し、父親に顔面を殴られ、左目を失明させてしまった。そして、高学歴揃いの親戚たちに失望されながら辛い浪人生活を送っていた。嫌気が差して煙草や酒、ゲームセンター、挙句パチンコにまで手を出すと、遂に彼は家から追い出されてしまった。プライドの高い学に友人はおらず、彼を庇ってくれる者も、慰めてくれる者もいなかった。彼はコンビニでアルバイトをしながら、カプセルホテルや漫画喫茶で寝泊まりする日々を送り続けた。

そんな時、かつての後輩であり、自分と同じ鳳凰学園高校の生徒会長が、容姿端麗なだけでなく次々と難事件を解決する高校生探偵として世間から称賛され、しかも音楽業界からは将来有望なヴァイオリニストの卵として注目されていることを知り、学もまた、良介に深く嫉妬したのだった。火事を起こした後行方不明になっていたのは、ほとんど両親が帰宅しない譲治の自宅に潜伏していたからだった。

「なるほど……それが、犯行の動機だったのか」

「そう、だから二人であいつを貶めてやろうって決めたのさ。残念ながら、命を落とすことはなかったようだけどね?」

「この野郎ッ!!」

 興奮した隼人が、譲治の胸倉を掴んで薬品棚に叩きつける。しかし、それでも譲治は顔色一つ変えなかった。

「じゃあ、私にミュージカルに出て欲しかったのは……」

「君を庇って死ぬ、というシナリオを想定していたからさ。まぁ、君が天に召されても僕は構わなかったんだけどね? 僕の作品の中で絶命すれば、君は永遠に僕のものになるわけだから……」

 薄気味悪く譲治が笑い、薫の背筋に悪寒が走る。そして、隼人の表情は一層険しくなった。

「……で? テメェは何しに来たんだ、オレにぶん殴られに来たのか? あ!?」

「どうでもいいよ、殴りたければ殴ればいいさ。僕はただ、彼女の記憶に僕という存在を深く刻み込むためだけにここに来たんだから!!」

 甲高い声で狂ったように笑い出した譲治を、渾身の力で殴ろうとした隼人。それを、既でのところで止めた達也。恐怖の余り泣き出してしまった薫を、懸命に宥める昌子。

「アカンて、先輩!! あとはもう警察に任せましょうや!!」

「放せっ、一発殴らせろ!!」

「わかったってください、わいら、先輩のそんな姿見とうないねん!!」

「そうですよ、その人を殴ったら先輩も傷害罪に問われるんですよ!?」

 達也と葵が叫ぶと、我に返ったのか、隼人の動きが止まった。譲治はまだ壊れた人形のように笑い声を上げている。

「……悪かった、渡邊。お前の言う通りだ、後は警察の役目だな」

「先輩……」

 隼人の力が緩んだことに気づき、彼を解放する達也。その時、文化祭の片付け作業から養護教諭が戻って来た。

「ただいまー、百合川さん目が覚めた……って、え? 何、どうしたの!?」

 大学を出たばかりの年若い彼女は、異常事態であることを察したのか、すぐに狼狽え始めた。

「先生、コイツ、今日の連続殺人鬼の共犯者です。まだいますよね、警察。連行してもらいますんで、誰か呼んで来てください」

 隼人が低い声で淡々と告げると、彼女は頷いてすぐに廊下へ飛び出した。警察官はすぐにやって来て、譲治を署へ連れて行った。暗闇を走るパトカーの中でも、彼は笑い続けていたという。



「すまない。心配かけた」

 少し冷たい爽やかな秋風の吹く、一週間後の朝。良介は隼人に連れられて、地元の最寄り駅のホームで昌子、薫と合流し頭を下げた。文化祭での事件は既に知れ渡っていて、周囲の人々は鳳凰の制服を着ている彼らを意識的に避けている。中には、あからさまに白い目を向けたり、陰口を叩いたりする者もいた。しかし、彼らはそんな人々には見向きもせず、いつも通りでいることに努めた。

「それと、百合川……お前が、母さんを呼んでくれていたことも聞いた。本当に、感謝している」

「そんな……私こそ、来てもらえて嬉しかった。お母さんは、もう戻ったの?」

 顔を上げてから、ああ、と良介は言った。表情に変化はなかったが、眼差しはどこか寂しげに足元を見つめていた。

 それから学校に着くまで誰も口を開くことはなく、皆重い沈黙に耐え続けた。道中、堂々と彼らにスマートフォンを向けて写真を撮ろうとする輩と遭遇し、隼人がいざこざを起こそうとすると一度電車を降り、再び乗車するということを繰り返した結果、危うく遅刻してしまいそうになった。

「ったく、何なんだアイツら!! こっちは見世物じゃねぇんだぞ!?」

 閉まりかけていた校門の隙間を間一髪で通り抜けてから、息を荒げて隼人が叫ぶ。しかし、朝の世間の反応は、これから良介を襲う悲劇の序章に過ぎなかったことを、彼らはすぐに知ることになる。

「どうしたの、会長……?」

 予鈴の鳴り響く、人気のない昇降口。靴箱の前で固まっている良介の様子を窺った昌子も、その直後に絶句して動けなくなり、やがて怒りと悲しみの余り手と唇が震え出した。

「何よ……何なのよ、これは……!?」

 死神、疫病神、退学しろ、死ね、ゴミ、カス、クズ――開閉式の靴箱のドアには、ありったけの罵詈雑言が油性ペンで書き殴られていた。中にある上履きはハサミで切り刻まれ、ゴミ箱の中身が散乱し、落書きもされている。隼人もしばし硬直し、薫に至っては膝から崩れ落ちて涙を流し始めている。

「酷い……一体誰が、こんな酷いことを……!!」

「そんなの、高遠の仕業に決まってんじゃねぇか!! あいつがSNSで、意図的にこうなるように仕組んでいやがったんだ!!」

 歯を食いしばり、拳を握り締めて隼人が言う。

「こうなるように、って……まさか、会長が学園ジャック・ザ・リッパーを止めることができなかったせいで文化祭でたくさんの人が死んだっていう風にSNSで拡散したっていうの!?」

「それこそが、アイツの狙いだったんだよ……だからあの時『貶めてやろう』って言ったんだ、『殺してやろう』じゃなくてな……!!」

 そう、だから二人であいつを貶めてやろうって決めたのさ。残念ながら、命を落とすことはなかったようだけどね――犯行動機を明かした時の譲治の言葉を思い出し、再び言葉を失う。

「……恐らく、机もまともに使える状態ではなくなっているだろうな」

 微かに口角を上げて自嘲した良介の顔からは、明らかに血の気が引いていた。今にも泣き出しそうな彼の表情を見るのは、隼人でさえ初めてのことだった。

「俺がこのまま教室へ行けば、お前たちにも間違いなく迷惑をかける。すまないが、今日は帰らせてくれ……」

「そんな……会長は、全然悪くなんかないじゃない!!」

「そうだよ、説明すればきっと皆わかってくれるはずだよ!!」

 昌子と薫は説得を試みたが、良介は苦笑いをするだけだった。二人を止めたのは、隼人だった。

「お前ら……これを見ても、コイツに教室へ行けって言えるか?」

 隼人が翳したスマートフォンには、SNSが開かれていた。鳳凰学園高校、鳳凰祭とタグ付けされた投稿の検索画面には、在校生のものと思われる残忍な書き込みが多数表示されている。


――例の名探偵が無駄に事件解決して来たせいで、殺人犯を挑発させたっていう噂

だけど。そマ?

――え、じゃあ、高校生探偵とか言われて調子に乗ってたからあんな悲惨な事件が

起きたってこと?

――文化祭に行ってた人たちも、生徒たちも可哀想。完全なる巻き添え。

――一生のトラウマ確定じゃん。謝罪会見開けや。

――なんでもっと早く止められなかったんだよ、役立たず!!

――真田良介のせいで、ウチらの文化祭が台無しになった。来年から開催できなく

なったらどーしてくれんの。

――つーか、退学者いっぱい出るんじゃね? 入学する奴もいなくなるんじゃね?

――それな。

――損害賠償請求しようか?

――草。ザマァ。


「……まだまだ、こんなモンじゃねぇみてぇだな……」

「もういい、やめて! わかったから!!」

「どうして……良介くんはいつも、誰かを助けるために事件を解決してきたのに……!!」

 悲痛を訴える昌子、顔を覆って嘆く薫。隼人は、靴箱の惨状をカメラに収めてからスマートフォンをバッグの外ポケットにしまった。

「……このことは、後で学校に報告しとく。だから、今日はもう帰ろうぜ、良介。送ってくからさ」

「いい。お前たちは教室へ行ってくれ」

「行きたかねぇよ、オレたちだって……」

 あんな、悪意に満ちたところ――そう吐き捨て、舌打ちをしながらローファーに履き直す。

「良介くん……このまま、退学なんてしないよね……?」

 上目遣いで、縋るように尋ねた薫。しかし、やはり良介は苦しげに笑うだけだった。

 それが、彼の最後の登校日だった。



「良介が、鬱病になった」

「…………」

 彼が学校に来なくなってしまってから、一か月程経ったある日の放課後。隼人は、役員会議の終わった生徒会室に前任者たちを集め、俯きながら伝えた。窓からは、既に傾き始めた太陽のオレンジ色の光が差し込んでいる。カーテンは、冷たく乾燥した風に揺らされている。迫り来る冬の気配を感じつつ、皆が皆、悔しげに唇を噛み締めて項垂れる隼人を見つめていた。

「オレ、毎日様子見に行ってたんだけどさ。俺のせいだってずっと自分を責め続けて、日に日に顔色が悪くなってって……心療内科に行かせたら、案の定……」

「……会長のお母さんには、連絡ついたの?」

「ああ、すぐ帰国するって返事が来た。問題は……」

「……良介くんの、お父さんね?」

 薫が言うと、隼人は黙って頷いた。

「美緒さんが呼べば、恐らく聖(ひじり)さんも帰国して来るとは思う。けど、結構な堅物で冷血漢なんだよ。もうとっくに離婚してるし、多分美緒さんだけじゃ気持ちを変えてはくれねぇ。そこで、お前らに協力して欲しいことがあるんだ。オレや美緒さんと一緒に、聖さんを説得してくれねぇか?」

 良介にヴァイオリンを続けさせてあげてください、って――顔を上げ、瞳を潤ませながらも強い眼差しで、全員と目を合わせながら隼人は言った。

「もう、それしかねぇと思うんだよ。アイツに、生きる希望を与えられるのは……」

 両膝に乗せた拳と声を震わせて、遂に隼人は目尻から涙を零した。それはどんどん溢れて頬を伝い、彼の手元を濡らす。アンタも辛かったわよねと言う代わりに、昌子はそっと彼の背に触れた。

「勿論です。私にも、協力させてください!」

 いつの間にか貰い泣きをしていた葵が、右掌を胸に添えて言った。

「わいもや。できることがあるなら、やらせたってください!」

 達也も彼女に倣って、拳で自身を鼓舞するように胸を叩く。

「私も行くよ、隼人。場所は、良介くんのお家?」

「ああ。日時と住所は、また改めて連絡する。ありがとな、皆……」

 手の甲で涙を拭い始めると、彼はとうとう泣き崩れてしまった。葵も我慢の限界に達し、揃って泣き声を上げる。昌子は隼人を、達也は葵をそれぞれ慰める。薫は一人静かに頬を濡らし、いつも持ち歩いている十字架を握り締めていた。

 橙と群青の境目を伝うように、数羽の烏が鳴きながら空を飛んでいた。



 本棚には楽譜とCD、テレビの傍らにはトロフィー、額縁には賞状。その空間の全てが、良介がヴァイオリンにかけてきた情熱とその実力を表している。

「みんな、今日はこの子のために来てくれて本当にありがとう」

 よく晴れた土曜日の昼下がり。真田家のリビングに集まった前生徒会役員たちに紅茶を出してから、紺のワンピースに身を包んだ美緒が深く頭を下げた。化粧とアクセサリーも控え目で、文化祭の時とは別人のようだ。あの日は一人のヴァイオリニストとして、今日は一人の母として良介の元へやって来たのかもしれない、と隼人は思った。そんな彼女の傍らでソファーに腰掛ける良介は、終始無言で俯いたまま。よく眠れていないのだろう、その目元には隈が幾重にも刻まれている。

「そろそろ来ると思うんだけど……」

 そう言って、腕時計を確認する美緒。時刻は、間もなく午後二時になろうとしている。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。流石に美緒も緊張しているらしく、深呼吸をしてから立ち上がり、離婚後数年振りに再会するかつての夫を迎えに行った。

「初めまして。良介の父の、聖です」

 廊下とリビングを隔てるドアを開けて、聖が軽く会釈した。一斉に立ち上がり、それに応じる隼人たち。白髪交じりの七三分けの髪はワックスでしっかりと整えられ、身に着けているものは全て濃いグレーで統一されている。眼鏡越しの隙のない眼差しと鋭い口調は良介とよく似ていて、その細い体からは煙草とコーヒーの香りがした。

「……久し振りだな。良介」

「…………」

 息子に話しかけてからその正面に座ったが、目を合わせられただけで、返事はもらえなかった。

「コーヒーでいい?」

 美緒が聖に背を向けたまま尋ね、彼も彼女の方を見ずに答える。

「いや、結構だ。今日の夕方の便で戻らなければならないからな」

「今日の夕方……? 何バカなこと言ってんのよ、良介の一大事なのよ!?」

 怒りの余り、カップを叩き割る美緒。飛び散った破片で指を切り、血を滴らせても構わず威嚇するように凝視する。しかし聖は一切それに動じず、両肘を膝に置いて手を組み、良介の方を見て言った。

「手短に話そう。経緯はもう聞いている。見たところ、お世辞にも健康的とは言えなさそうだな。必要なら通院か、入院して治療するといい。医療費は勿論私が負担する。だが、自立支援制度には申し込んでおけ。そして、領収書の写真を添付してメールで送ること。一か月毎に集計して、生活費の口座に振り込んでおく。それでいいな?」

「…………」

「それと、学校の方だが……一か月も休んでは、もう留年は避けられないだろう。そうしても構わないが、確か鳳凰にはまだ定時制課程があった筈だ。通学が嫌なら、そちらに移籍してもいい。だが、退学だけは認めない。何が何でも卒業しろ。そういえば、進路は決まったのか? 志望大学が決まったら、また連絡するように」

 以上だ、と言って立ち上がる聖。予想を遥かに上回る対応の酷さに呆然としていた隼人が、我に返って引き留める。

「ちょっと待ってください、オレたちだって話したいことがあって来たんです!!」

「……何だ。言ってみなさい」

 他にもぶつけたい言葉は山ほどあったが、必死に耐えて頭を下げた。

「良介に……ヴァイオリンを、続けさせてやってください!!」

 隼人が叫び、他の面々もそれに倣うと、無表情を貫いていた聖の片眉がぴくりと動いた。

「君は確か、隼人君だったね。良介とは古い付き合いだった筈だが……」

「はい。ですから、事情はよく知っています。でも、良介を鬱から救えるのは、ヴァイオリンだけなんです!! オレは辛い時コイツの演奏にとても救われたんです、だから、もう聴けなくなるのはオレにとっても悲しいことなんです!!」

「私も彼のヴァイオリンのお陰で日本の友達ができて、孤独から救われました! それに彼は本当は、プロのヴァイオリニストになりたがっているんです!!」

「せやで! せっかくえらい才能を持ってはるのに、夢を奪われるなんて……そんなん、わいだったら耐えられへん!!」

 隼人、薫、達也が涙ぐんで訴える。その言葉を聞いて、初めて良介が顔を上げた。

「……それが許されないことは、君たちもわかっているんじゃないのか」

「アンタ……この期に及んでまだ、息子より自分の立場と一族の名誉の方が大事だって言うんですか!?」

「ちょっと、霧崎!!」

 睨みつけ、震え出した隼人を抑えようと昌子がその肩を掴んだが、聖の眉間には既に皺が寄せられていた。しかし、それでも隼人は怯まなかった。

「コイツ、ずっと我慢してたんですよ!? アンタの立場と一族の名誉を守るために、何よりアンタの心の傷を抉らないために、高校最後の文化祭で大好きなヴァイオリンを手放すって決めたんです!! それなのにアンタは、事務的な話をさっさと済ませて帰ろうとするなんて……それでもアンタはコイツの父親なんですか!? 父親らしいことができないなら、とっとと親権を美緒さんに譲って良介を解放してやってくださいよ!!」

 息を荒げ、顔を赤くして言い放つ。しばらく沈黙が続いたが、それを破った聖の言葉は、予想外のものだった。

「……違うよ、隼人君。俺には、最初から良介の父親だと名乗る資格なんてなかったんだ」

「は……?」

 私から俺になった一人称、心なしか弱まった語気。徐に腕を組んだ聖だったが、それはまるで、自らを抱き締めているかのようだった。

「彼女は……美緒は、鳳凰にいた時から、俺の憧れだった。いや、学園のマドンナだったと言ってもいい。所謂、高嶺の花というものだ。そんな彼女が、どうしてただの同級生だった俺と結婚してくれたと思う?」

「どうして、って……」

 尋ねられて初めて、真田夫婦の馴れ初めを聞いたことがないことに気づく。視線を美緒の方に向けると、ばつの悪そうな顔をして彼女は答えた。

「私の父親はね、当時不動産業界トップクラスの大企業の社長だったの。今思えば、バカみたいに贅沢な暮らしをしていたわ。でもね、そんな生活は突然終わりを迎えたの」

「……もしかして、バブルが崩壊したから……」

 葵が呟くように言うと、美緒は苦笑いをして頷いた。

「呆気なかったわ。崖から突き落とされたように、一瞬にして全てが奪われたの。そんな時、私たち一家に手を差し伸べたのが、彼の……聖さんのお父さんだった。うちの倅が君のお嬢さんに惚れているらしいから十八になったら真田家に入籍させろ、そうしたら君たち家族を助けてやる、って言って……」

「……つまり、彼女は家族のために、嫌々俺と結婚させられたというわけだ。しかも、十八歳という若さで」

「…………」

 誰も何も言い出せず、ただひたすら通夜のような重苦しい雰囲気に耐えている。

「恥ずかしくて、俺は堂々と彼女の夫だと言うことができなかった。子どもを作れと親に言われてそれにも従ったが、当然自分が人の親だなんて思える筈もなかった。だから、良介……お前には、本当にすまないと思っている。お前は何も悪くないのに、ずっと俺たちに振り回されて……」

 気づけば、聖の唇は震えていた。彼は立ち上がり、顔を壁に向け、眼鏡を外し、掌で目元を押さえながら泣き始めた。

「俺に、父親面をする資格なんかない。愛していいわけがないし、愛されていいわけもない。お前には寧ろ、俺を恨んで欲しかった。だから……」

「……だから、一族の命令に従った振りをして、ヴァイオリンは高校生までだと言ったのか」

 その言葉を聞いて、聖は思わず振り返った。そこに立ち、彼に言葉を投げかけたのは、真摯な瞳で見つめる良介だった。

「すっかり騙されていたな。俺は、遅くとも離婚後からずっと、父さんに煙たがられていたと思っていたから……」

「良介……」

 懸命に言葉を紡ぐ良介の目も、僅かに潤み始めている。濡れた睫毛を震わせながら、良介は改めて言った。

「父さんの気持ちを教えてくれて有難う。だが俺は、父さんには父親面をしていて欲しいと思っている。どんな経緯で結婚していようと、あんたは間違いなく、この世でただ一人の俺の父親だから」

「……すまなかった。すまなかった、良介……!!」

 再び聖の涙腺が崩壊した時、無言で歩み寄った美緒が二人の肩を抱いた。嗚咽を漏らす父と母の背に、良介も黙って手を添える。

「……ヴァイオリンは、続けたらいい。お前がそうしたいなら」

 落ち着きを取り戻した聖は、ハンカチで眼鏡を拭きながら、柔らかい表情で告げた。いいのか、と問うようにその瞳を見つめる良介。

「そもそも、お前の道はお前で決めるべきなんだ。今まで、要らぬ苦悩を強いてきて本当に悪かった。これからは、全部自分の意志で進むといい。退学するもしないも自由だ」

 眼鏡を掛け直し、良介の肩に触れて言う。それは、良介がずっと求めていた父親らしい彼の姿だった。

「良介。あなたが望むなら、私がすぐにでもウィーンへ連れてってあげるわ。但し、そこから先はあなた次第よ。私の息子だなんて言ったら絶対に許さないから!」

「母さん……」

 背中を叩き、ウインクをして美緒は得意気に笑った。

「いいじゃねぇか。行ってみろよ、良介!」

「そうよ、またとないチャンスじゃない!」

 後押しするように、美緒に続いた隼人と昌子。

「行ってらっしゃい、良介くん。私もすぐに追いかけるから」

 もしかしたら、すぐに追い抜いちゃうかもねといたずらっぽく微笑む薫。

「わいもヨーロッパに留学するかもしれへんから、そん時はよろしゅうたのんます!」

「頑張ってください、会長さん! 必ず、また演奏を聴きに行きます!!」

「お前ら……」

 家族との抱擁を解き、仲間たちと向かい合う。零れそうになった涙を手の甲で拭い、彼は力強い眼差しで言った。

「有難う。行って来る」

 いつかまた、どこかで――それが、旅立ちの前に残した最後の言葉だった。


* 


「ママ、おはよ!」

「おはよ、じゃないわよ! 今何時だと思ってんの!?」

「大丈夫大丈夫、アタシの瞬足を以ってすれば余裕っしょ!」

 階段を大慌てで駆け下り、キッチンに置かれていた弁当箱を通学鞄に突っ込む。寝起きの髪のままランニングシューズを履いた彼女・霧崎玲緒奈(れおな)は、ゼリー飲料を数秒で飲み干し、その抜け殻をゴミ箱に投げ捨てて自宅から飛び出した。

「行ってきまーっす!!」

「レオナ! 帰りにケーキ買って来るの忘れないでよ!?」

「わかってるってー!!」

 十字路の角で大きく手を振り、白い歯を見せる。そして彼女は晩秋の肌寒い風を物ともせず、陸上部の活動で鍛えられた自慢の脚で駆け出した。紺色の緩んだネクタイとスカートが揺れるのは少々煩わしかったが、構わず走り続ける。獅子座生まれの彼女の短い金色(こんじき)の髪は、まるでライオンの鬣のように靡き、朝日を受けて美しく輝いている。

 彼女の母・霧崎昌子は、自ら法律事務所を経営する弁護士である。扱っているのは、主に性的マイノリティの人々が社会で抱える問題――学校でのいじめや職場での不当な扱い、そして未だ異性婚カップルと同じ権利が認められていない同性婚カップルの国に対する訴訟などである。

 彼女がその道を志したのは、言うまでもなく夫の影響である。彼らが友情結婚を果たし、人工授精によって玲緒奈を授かった頃にようやく日本でも同性婚が認められるようになったが、立場は事実婚のカップルとほとんど変わらず、今でも悔しい思いをしている人々が多く存在する。そのため、昌子が現在取り組んでいるのは、専ら異性婚と同性婚の差を無くすための活動となっている。

 そのような背景もあってか、玲緒奈の父である霧崎隼人は、トランスジェンダーであることを公表してはいるものの、体も戸籍上の性別も男性のままにしている。社会ではやはりまだ男性である方が有利であることが多いというネガティブな理由もあるのだろう。しかし、彼は妻に愛された『男』として生きたいと強く願ったから今も男性でいるのだ。玲緒奈は、その言葉を今でも信じている。

「おはよ、レオナ! 今日もギリ?」

「はよ! ギリっていうか、もはやそれがデフォだよね!!」

 朝練もサボっちゃった、と言って高らかに笑い、机に鞄を置く。そして即座にスカートを脱ぎ、スパッツの上から女子用のズボンを履いた。

 玲緒奈は、戸籍上の性別は女性だが、鳳凰学園高校の生徒手帳には『中性』と記している。何故なら、性自認が『Xジェンダー』、つまり自らの精神的な性が男性でも女性でもないことを自覚しているからである。そして、他者に恋愛感情や性的欲求を抱かない『アセクシャル』であることも彼女は既に気づいていた。

 しかし、性自認やセクシュアリティが特殊であっても、玲緒奈はそのことで過剰に思い悩むことなく学校生活を楽しんでいた。それは、今なお校内で語り継がれている第二の伝説の生徒会長・吉川葵の功績に他ならない。勿論始めから性的マイノリティが羽を伸ばして過ごせていたわけではないが、今や学園の人気者は女装家のゲイ、理想のカップルはレズビアンの恋人たちだ。体の性別や古くからの固定観念に囚われないことが至極当然となっている校風は、一部からは非難されている一方で、高く評価する団体や芸能人も少なくない。

 だが、当初の風当りは厳しく、連続殺人事件の舞台となってしまった文化祭のせいで、一時は学園の存続すら危ぶまれた。しかし、そこで『一匹狼』という作家であった吉川葵の先輩・大神(おおがみ)司(つかさ)が追い風を吹かせた。彼は自らがゲイであることを動画で改めて告白したのだ。そのことが明かせなかった学校生活が辛かったこと、父親が起こした強姦事件のせいでカミングアウトを余儀なくされ、発覚した途端クラスメイトからいじめを受けて無念のうちに退学してしまったことなどを赤裸々に語ったその動画に心打たれた人々が意外にも多く、鳳凰学園高校を応援しよう、司のような生徒を救う理想の学園を作ろうという勢いが生まれたのである。

 放課後の部活動が終わる頃には、すっかり日が暮れていた。汗を拭き、制服に着替えた玲緒奈は、宵の明星を目印に西の方へ駆け出す。

「こーんばーんはっ!」

「おっ! 来よったな、レオナ!!」

 部活後の疲れを一切感じさせない声で、行きつけの店であるパティスリー・ル・アブリールの扉を勢い良く開ける。そんな彼女を迎えたのは、二代目オーナーの渡邊達也だった。剃ったばかりなのか、コック帽を乗せた毬栗頭も短い髭も触ったら痛そうである。

「こんばんは、レオナちゃん。久し振りですね」

「あっ! お久しぶりです、葵さん!!」

 店の隅のテーブルに目を遣ると、ベージュのセーターに茶色いスカートというモンブランを連想させる服装の吉川葵が座っていた。淹れたてのダージリンティーに息を吹きかけて、キラキラと光るクリスマスツリーをバックに優しく微笑む。

「お元気そうで何よりです。学校生活はいかがですか?」

「絶好調に決まってんじゃないですか! 吉川葵生徒会長様のお陰様ですよーっ!」

 玲緒奈が満面の笑みで相席すると、それは良かった、と葵も嬉しそうに答える。

「あっ、しまった! 昨日葵さんの最新作読み終わっちゃったから今鞄に入ってないんですよー、サインしてもらえるチャンスだったのにー!!」

「あら! 今時紙の本なんてあまり出版されないのに、買ってくれたんですか? 高かったでしょう?」

「当ったり前じゃないですか、だってクラスのみんなに自慢したいし! バイト頑張った甲斐がありましたよー!!」

 現在、彼女は『日向(ひゅうが)葵』というペンネームで作家として収入を得ている。しかし、紙の原料である木材の伐採が世界中で制限されているため、紙の本は貴重なものとなってしまっている。葵の単行本も、女子高生が気軽に手を出せるような代物ではない。

「それに、アタシのパパとママも登場人物のモデルになってて嬉しかったから! そうだ、百万部ダウンロード突破おめでとうございます!!」

「いえいえ、こちらこそ。ご両親にも、有難うございましたとお伝えくださいね」

「吉川ぁ、わいには何も言うてくれへんのー? わいと吉川の話だってあるんやろー?」

 わざとらしく唇を尖らせ、拗ねた子どものように言い寄りながらワンホールケーキの箱をテーブルに置く達也。しかし、葵は素知らぬ顔をしてダージリンティーに口をつけるだけ。

「さて、何のことでしょうかね?」

「ったく、つれないやっちゃな! ほらレオナ、ご注文の品やで!」

「わぁ、ありがとうございます!!」

 瞳を輝かせて立ち上がり、宝箱のようにそれを大事そうに抱える。それじゃあ、と言って店の扉を開こうとしたが、あることを思い出して立ち止まった。

「ねぇねぇ、達也さんと葵さん、これ行きます!? アタシ、ママと一緒に行くんですけど!」

 指輪型端末に声で指示をして彼女が壁に映し出したのは、バレエ『くるみ割り人形』の公演を告知する映像だった。『バレエ団スワン&リリィ』というオーケストラ直属の団体が主催となっており、日本での記念すべき初公演と謳っている。

「あー、行きたいのは山々やねんけど……」

「クリスマスイブの夜に、ケーキ屋さんが行くわけにはいきませんもんね?」

 意地悪く葵が言い、堪忍したって、と肩を落とす達也。そんな二人の様子を見て、玲緒奈は微笑みながら溜め息を吐いた。

「いいなぁ。アタシ、Xジェンダーでアセクシャルだけど、中年になっても笑って話せる関係って憧れるんだよねー!」

「ちゅ、中年とは何やねん! 人聞きの悪い!!」

「ちゅ、中年とは何ですか! 人聞きの悪い!!」

 達也と葵が顔を赤らめ叫んだのは、ほぼ同時だった。お幸せに、と揶揄うように言い残し、軽い足取りで帰路を辿る。

 『バレエ団スワン&リリィ』は、十年前にパリで結成された。発起人は、世界の舞姫と名高い百合川薫。パートナーでヴァイオリニストである真田良介がそれに賛同し、高校時代にオーケストラ部で部長を務めていた指揮者・白鳥姫子を誘ってオーケストラを編成したのだった。彼らの活動拠点はヨーロッパだったが、十周年という節目を迎え、遂に日本上陸という夢を叶えたのである。

「楽しみだなー! いよいよ、第一の伝説の生徒会長様に会えるんだから……」

 空に浮かぶ三日月を仰ぎ、スキップをして自宅へ向かう玲緒奈。玄関ドアに指輪型端末を翳し、鍵を開け、脱いだ靴を放り投げる。

「ただいまー! ママ、帰って来てるー!?」

 玲緒奈が声を張り上げると、霧崎昌子様から帰りが遅くなるとの連絡がありました、とイヤリング型端末が答えた。

「なーんだ、つまんないの! じゃあもう勝手に始めちゃおっと!」

 勢いよくソファーに腰を下ろし、テレビに話しかける。

「ただいま! 今日の新着メールは?」

 一件ございます、という返答と共に表示された差出人欄には、百合川薫とあった。

『こんにちは。みんな、元気ですか?』

「わーっ! 薫さん、相変わらずキレイ!!」

 ビデオレターなので返事は来ないとわかっていても、思わず両手を振って称賛してしまう玲緒奈。練習前の劇場の控室で撮っているらしく、煌びやかなチュチュに身を包んだ薫の背後には、たくさんの鏡が並んでいる。

『昌子、玲緒奈ちゃん、今度の公演のチケットを買ってくれて本当にありがとう。こっちから送って招待する予定だったんだけど、先を越されちゃったね。会える日を本当に楽しみにしています』

「私も私もー! もう十年ぐらい会ってないもんねー!」

『ところで……ビックリさせちゃうかもしれないけど、伝えたいことがあって……』

「えっ、なになに?」

 少し視線を落とし、遠慮がちなトーンになる薫。芸能ニュースに食いつくように、前のめりになってつい先を促してしまう。

『実は、日本公演を機に、引退しようと考えています。思うように踊れない時が多くなってきて、そろそろ潮時かなと痛感しているので、潔く身を引こうかと……』

「えーっ、そんなぁ!!」

『それと、もう一つ。引退したら、念願の子育てを始めたいと思います!』

「こ、子育てぇ!?」

 目を見開いてオウム返しをすると、画面は別の場所に切り替わった。ある病院の映像らしく、大きなガラスの管の中で、双子の赤ちゃんが眠っている様子が写されている。

『知っての通り、私は子宮頸がんを患って子宮を摘出したので、自分の体で赤ちゃんを産むことができません。でも、科学技術の進歩のお陰で、こうして子供を授かるのが当たり前の時代になって本当に良かったです』

「わぁ、凄い……!」

 病気で子供が産めなくなった、不妊治療が難航している、妊娠・出産というリスクを回避したい、産休が取れない――事情は様々だが、今となっては体外妊娠が当然となっていて、妊婦という存在が珍しくなってさえいる。長い間議論の対象となっていたが、玲緒奈自身も試験管ベビーだったので抵抗は全くなかった。

『右が男の子で、名前は優(ゆう)利(り)。左が女の子で、名前は優(ゆ)利(り)奈(な)です。優利奈の奈は、玲緒奈ちゃんからもらいました』

「わ、嬉しい! お揃いじゃーん!!」

 興奮し、思わずソファーの上で跳びはねる。

『誕生は半年後の予定です。この歳だから、お母さんというよりはおばあちゃんって感じだけど頑張って育てるつもりです……あ、良介くん!』

 画面が控室に戻った直後、視線はカメラから逸らされ、表情は瞬時に華やいだ。三十年経っても、彼女はまだ恋をしているようだ。

『どうした、薫』

『あのね、今、昌子たち宛てのビデオレターの撮影してるの。良介くんも何か言って?』

『何かって……』

 突然参加しろと言われて、困らない者はいないだろう。そう思い同情しながらも、未だかつて対面したことのない噂の人物の顔が見たくなり、期待の余り傍にあったクッションを強く抱き締める。

『……日本もそろそろ寒くなる頃だろう。体調管理には気をつけるように。以上だ』

「色々不器用な親戚のおじさんか!!」

 ソファーの上で倒れ込んだ玲緒奈の叫びが、誰もいないリビングに虚しく響く。

『ちょっと、良介くん! ちゃんと写ってよ!』

『もう時間だ。オケとの打ち合わせをするぞ、団長』

 薫が唇を尖らせても頑として姿を現わそうとせず、彼はそれだけ言って控室から出ていってしまった。そんなぁ、とテレビの前で落胆する玲緒奈。

『ごめんね、相変わらずこういうの苦手みたいで……でも、日本に行ったら必ず会えるから。じゃあね、見てくれてありがとう!』

 バイバイ、と手を振ったところで、ビデオレターは終わった。溜め息を吐き、肩を落としてから、玲緒奈は次の指示を出した。

「パパに繋いで。今すぐ!」

 畏まりました、とテレビが返事をすると、やがて画面に彼女の父の顔が映し出された。短く切っていた髪は少し伸び、髭も生えているが、年齢を感じさせない若々しさは健在だった。その姿を見た途端、彼女に笑顔が戻る。

『よう、レオナ! 元気かー!?』

「元気だよ! パパ、ハッピーバースデー!!」

 用意していたクラッカーの紐を引っ張り、画面越しで誕生日を祝う。彼は、こそばゆそうに笑った。

『サンキュー! でも、せっかくのケーキがぐちゃぐちゃだぜ? 渡邊が見たら泣いちまうよ!』

「いいじゃん別に、食べちゃえば一緒だよ! ま、どーせパパは食べられないけどね?」

『んだよ、自慢するためにわざわざ買って来たのか?』

「まぁね! そんなことよりさ、あれ見せてよ、あれ!」

 お願いします、と言って合掌し頭を下げる玲緒奈。仕方ねぇなと言いつつ、満更でもなさそうに隼人はカメラを窓の外に向けた。

「わぁ……! やっぱり、外から見るとまだキレイだね。地球って!!」

『だろ? 悪くないぜ、月での生活も!』

 隼人は現在、月面基地での任務に当たっている。北極と南極の氷が溶け、数々の島や国が沈み、資源が枯渇しかかっている地球は最早瀕死寸前。海はプラスチックゴミや産業廃棄物で溢れ返り、森林は伐採や火災で大幅に減少。大気も汚染され、酷い地域ではガスマスクをして過ごさなければならない。人類に棲み処を奪われ続けた動物たちは次々と絶滅していったが、無論、諸悪の根源である人類も例外ではない。

そのため、別の惑星での生活が可能であるかどうかの実験として、彼は基地で農作物の栽培や家畜の世話、太陽エネルギーによる発電、活用可能な資源の調査などを行っているのだ。

「月もいいけどさ、もっといい惑星ってないのかな? 地球みたいに、海も陸も植物もあるような……」

『バーカ、そんな都合良く見つかりゃ苦労しねぇよ!』

「わかんないじゃん、そんなの! きっとアタシが見つけてみせるよ!!」

『ほう、言ったな?』

 言ったよ、と得意気に笑う彼女は、かつての隼人と瓜二つだった。

「パパ、あのね! アタシも、パパみたいな宇宙飛行士になりたい! 理想的な人類の移住先を見つけて、ずっと語り継がれる伝説になりたいんだ!」

『伝説か、そいつはいいな!』

「あっ、そうだ!」

 彼女はあることを思い出して突然立ち上がり、自室から本を持ち出した。サインを書いてもらい損なった、葵の最新作だ。

「パパ、これ読んだ!? パパたちがモデルになってるやつ!!」

『ああ、まだ読み始めたばっかだけどな。よく許したもんだぜ、良介のヤツ……』

「チョー面白かったよ!! まずはアタシも、学校の伝説になるべきかな!?」

 そのためにはまず生徒会に入んなくっちゃね、と意気込んだその時、玄関のドアが開けられた。

「あっ、ママ! お帰りー!」

「ただいまー……って、何よこのぐちゃぐちゃのケーキ!?」

 怒り出す昌子、笑って誤魔化す玲緒奈。頬杖をつき、その様子を愛おしそうに見つめる隼人。

『お帰り、昌子。お疲れさん』

「……ただいま、隼人。そっちもお疲れ」

 互いに腕を伸ばし、拳をぶつける振りをして挨拶を交わす。両親が少し変わった夫婦であることを既に知っている玲緒奈だったが、世間という逆風に吹かれながらもその関係を貫いた二人を、彼女は誇りに思っていた。

「それじゃ、改めて乾杯でもしますか!」

 昌子が気に入っている白ワインをグラスに注ぎ、自身はジンジャーエールのグラスを掲げる。

「それでは! パパの誕生日と、『生徒会長は名探偵!』大ヒットを祝ってー……」

 カンパーイ、とご機嫌な玲緒奈の声が、開いていたガラス戸から夜の住宅街に響く。昌子に文句を言われ、慌てて閉めに行く玲緒奈。

 夜空に輝く月を見つめ、未来に思いを馳せながら、彼女はゆっくりとカーテンを閉めた。

                                 

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生徒会長は名探偵! 黒須 南 @tomatino275

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