アフター・ザ・マジック

柚木呂高

アフター・ザ・マジック

 テレワーク、高度な自動化による利便性の高い家電など、人間の環境は自らの肉体を使うことが稀になっていった。今では寝ながらにして音声入力で大体の仕事ができるし、食事も定期的配達サービスが自炊とほぼ変わらないレベルまで価格が低下したことにより、料理のために重いフライパンを振るう必要もない。掃除は言わずもがな、シャワーも全身を全自動で洗ってくれるボックス型のものが流行った。結果一部の健康マニアやアスリートを除いて、人々の体は大きく衰えた。それによって一気に需要が高くなったのがコンパクトな外骨格、手や足にだけ装着するタイプで、今でもこれを使っている人はままいるが、更に現在ではより便利になって、外部筋肉と呼ばれるシリコンのような薄い膜を皮膚の上から貼り付けるだけで済むものが主流になっており、殆どの人間がこれを付けて生活をしている。身体能力の衰えた人類にとって、これは非常に有用な代物であっただけでなく、田中慎也のように生まれつき体の弱い人間にとっても救いのようなものであった。

 慎也は物心ついた頃からほぼずっと外部筋肉を装着して生きてきた。だが、運動をして筋肉をつけることのできない彼は、スポーツに、人間の健康的な肉体に、その肉体が限界を超えて稼働することの美に憧れを抱いていた。だから彼が外部筋肉の力を利用して四一五キロあるという山岳マラソンに参加することを決意したことは、不思議なことではなかったのかもしれない。彼は自分自身もその美の一部分でも味わいたいと思っていたのだ。

 知り合いや家族などは心配したが、彼の肉体に対する強い憧れを知っていたから、その夢を諦めさせることができないことは承知していた。それに彼には強力な外部筋肉がある。やろうと思えば硬い瓶の蓋を開けるどころか瓶そのものを握りつぶすことのできる機能を秘めた外部筋肉は今回のための特別製だ。選手選考会では外部筋肉を使った選手のエントリーに物議を醸したが、彼の勤勉さはレースに必要な基礎知識を網羅し、事前に行ったフルマラソンの結果などにも不足はなく、様々な検査の結果、外部筋肉による機能は走るのに十全なものだと判断され通過することができた。

 いよいよレースが始まる、今日のために鍛えたて体を作った人々に囲まれても慎也は物怖じなかった。ただ目をきらめかせて、この日を迎えられたことに喜びを覚えている。開始の合図と同時に人々が群となって動き出す、その中で慎也は集団の一部に紛れて一定のペースを保って走っている。楽しい、と彼は感じていただろう、風を感じて、自然の空気が肺を満たして、汗が彼の体を湿らせる。

 途中の何度か行ったキャンプでは他選手との雑談をし、彼らが今日までに如何に鍛えてきたのかを聞いて慎也は心が踊った。彼は今憧れた人種とともに同じレースに参加していることの喜びを噛み締めた。

 レース最終日、慎也はより速いペースで移動を開始した。全身を覆う外部筋肉だからこそできる速度だ。他の選手は彼の速さに呆気に取られた。同時に外部筋肉というものが本当にレギュレーションに違反するものではないのか、と疑念を持った人間も何人かいたに違いない。選手は全員今日のために十全に準備し、鍛え上げた肉体を以ってこのレースに参加したのだ。しかし、彼らは今日までの慎也との会話で知っている、彼が如何に熱心に、そして真摯にこのレースに向けて準備してきていたか、肉体を鍛えることのできない人間が、テクノロジーと知識、アイディアなど別の努力の形によって、この過酷なレースに参加できる資格を得たか。

 そして慎也は、他の出場者を押しのけて一位でゴールした。友人や家族は感動で涙した。このレースを見守っていた者、参加していた者で彼の今日までの工程を見て、外部筋肉出場者であるからという理由で否定するものはもはや誰もいなかった。彼はアスリートとは別の方向性による努力により勝者となったのだ。

 彼のウィニングランは続いている。いや、そうではない、彼はもう自分の意志では走っていないのだ。最終日に他のアスリートを押しのけるようなランをした彼の内蔵は、その負荷に耐えきれず機能不全を起こした、彼は最終日のレースの半分以上を死んだまま走っていたのだ。ただ外部筋肉のみが彼の遺志を継いでレースを完走させた。なおも慎也は走り続ける。彼の死が皆に知られるまではまだしばし時間があるだろう。その間彼は美そのものであった。

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アフター・ザ・マジック 柚木呂高 @yuzukiroko

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