006

 雑沓に吸い込まれる瞳を持つ取材者との邂逅を今し方終えた私は、自動扉を出た処で大仰な溜息を吐いてしまったことに赤面した。気温は二十半ば頃を停滞しており、首の裏を焼く見えない光線から隠れるように背中を丸めて歩く。胸衣嚢に入れてある煙草の箱の角が、薄手の服を貫かんと皮膚を引っ搔いていた。とは云っても無機物な掌が護ってくれているので、蒸れはするものの痛みは左程感じなかった。余所行きのために後ろで縛ってあった紐を取り払い、やっと自由になれたこと自体を大変喜ばしく思う。広葉樹の新芽が春を通り過ぎた訪れを癒すように、甘い誘いを寄越した。蝶にも蛾にもなれぬ私は、ひとのまま薄い自然の傘の下へ潜り込んだ。

〈やはり取材というものは好かんな〉胸衣嚢の煙草を一本取り出し銜えた。街路には「煙草のポイ捨て」に注意喚起をする看板があったが、私はそれを無視した。火花が散り、風の影響を受けた火は、ほんの少し拇の先を掠めた。じゅう、と聞こえた音は、葉が燃えるものだったか、拇が焦げる音だったかは不明瞭で、けれども自然に〈熱い〉と思った。事実は熱さ冷たさを感じる暇も、心の余裕もなかったけれども。風に乗った紫煙の先端が、自由意志を持って空中を駆けてゆく。ほんの十数分前まで行われていたある種の儀式を煙の残滓のなかで思い出した。彼は若手の有能な人間だったらしい。敏腕さが伝わり切れなかったのが非常に残念だった。始終短髪の彼は緊張と興奮で頬を赤らませ、テープレコーダーを机の上に置けばいいものを、態と私のほうへ向けるから無性に腹が立った。きっと平時の状態であればそのような愚行を重ねるものではないと理解はしていても、こちらの苛立ちは隠れそうになかった。案外それが目的だったのかもしれない。やけに突っかかる質問の数々や、あからさまに設けられた編集点の杜撰さに頭が痛くなる思いではあったが、終始にこやかに対応できた私は、自分で思っている以上に大人なのかもしれなかった。そんな一種の緊張状態が二時間にも及ぶのだから大変だ、彼も私も、手探り見様見真似だった。一本目を吸い終えた私は口のなかが乾いてしまっていることを思い出して、家の方角へと歩き出す。当然ではあるが途中で自販機に立ち寄って凡そ一年振りとなる弾ける飲料水を購入した。飲み下したあと、ほんの少しの後悔とそれを大幅に上回る爽快さが同時に訪れたため、知らず裡に亦一本と煙草へ火を点けた。自宅へは徒歩で一時間余りはあろうかという距離を散歩と称して闊歩する自分に、なんだかとても誇らし気な気持ちとなった。混凝土によって狭まれた青空の欠片は、どこか遠い海を反射させている。茹だるような暑さも、季節に合った爽やかな風と、咽喉でぷつぷつと消えていった刺激の余韻が後押しして、胸に空いてしまった陥穴へ土を被せるみたいに陽気な気分にさせた。目の前にひと筋の煙が流れた、無意識の裡に煙草へ火を点けていた。喫煙量が多いとかかりつけの医師に注意されていたことを思い出す。記憶のなかの彼は白髭たっぷり蓄えた、ある種の異様な雰囲気を、白衣の袖口や襟元から滲ませることの上手なひとだ。「あなたねえ、若いのにバカスカ煙草を吸って、あなたはいいでしょうよ。けれども周囲のひとの迷惑だとか、健康上の問題とかを考えたことはあるのかね」どのような返事をしたのか朧気だが、これだけは云い切れる。疑う余地がないほどに、批判的で捻くれた言葉だったはずだ。当然ながら医師に会うという行動の理由には、必ずと云ってもいい負の側面が存在し得るからだ。例外なく私も胸が痛むと発言した彼女が気を遣い、態々予約まで取ってくれていた病院だった。断る理由すら喪失してしまった私に、外堀を全て埋め立てた彼女が云った。「さあ、先生。先生ともあろうお方が、煙草如きに後れを取るとは到底思えませんが、毫が一という可能性もあります。世の本質的な解釈では零パーセントはありえないのです。幽霊を否定することはできますが、百パーセント否定できる理由がないのと同様、先生のお体が健康でない証明はできないのです。なんとも嘆かわしい先生……できることなら私と躰を変わってあげたいものです」誇張しているのかもしれないが、凡そはこのような文句だったはずだ。口腔の苦味が殊更強くなった。世で云う賭け事を好まない私が、人生に於いてふたつ楽しみにしていることがある。ひとつは文字を読むこと、文学、ミステリ、民俗学、果ては料理レシピ本や電車の広告まで、ありとあらゆる文字が好きだ。愛しているほどでもないが、兎に角好きと云う単語以外適当なものが見当たらないと断言できる。就中、誤字脱字を見抜くことが大好きだった。浅ましいと思われることは重々承知のうえだが、他人が希望を載せた対象物を、本人に知らせることなく裡で莫迦にすることが大好きだった。見つける度に安堵と憐憫が黝い渦となって肺と肺の間にある、不気味な脈動を打つ器官の出入り口で発生する。血液が興奮のため昂り、顴骨のあたりにはぞっとするほど冷たい汗が流れる。傾斜を転がり落ちる岩を見ることに似ていた。傾斜は徐々に角度を増し、畢竟切り立つ崖となる。足場を探して藻掻く人間の、なんて浅ましく醜く不気味で美しいことなのだろうか。世間では日中夜問わず様々な事件が起こっている。自死や殺人、強盗や痴漢、詐欺や横領。行為の裏には悲しい真実があるとコメンテイターなどは嘯き、世間に対して喞言を宣う。同学年を自死へ追いやった同学年の主犯の少年は、実は自宅では両親から毛嫌いされ、虐待されていた、それを「たまたま」眼につけた人物を「虐げる」というやり方で発散させてしまった。商店街で前代未聞の通り魔が現れ、犯人は仕事をなくし自暴自棄になっていた、仕事がなくなった理由は、努めていた会社の倒産が原因だった、地方の港町にある中小規模の会社は、主に第六次産業を担う会社で、環境破壊や動物愛護を訴える主義のひとたちの妨害に遭いゆくつく処までいってしまった。深夜に小さなナイフ一本携帯した老爺がコンビニを強盗する事件があった、老爺は愛する妻を亡くし、一種の錯乱状態になっていた、家族はおらず周囲のひとたちは冷ややかに村八分を行っていた、結果として老爺は壊れ、強盗を犯してしまった。日々昭和的な考えを持つ会社で働く中間管理職の男性が、通勤ラッシュのなか女子高校生に臀部を触るなどをして逮捕された、上司によるパワハラのストレスが主な原因と発表された。詐欺を生業とする詐欺師が、被害者小学生の兄により暴行を加えられ、被害者加害者共に逮捕された、因果関係を調べると共に、詐欺を働いていた人物は中学生以上のひとに対して、極度のコミュニケーション障害を持っていたからこそ対象を絞っていた詐欺師であった、彼は小銭を稼ぎその日暮らしをすることで約三年間にも渡る逃亡生活を続けていた。政治家のひとりが横領を告白された、理由は単純で、大量の資金が必要と云うものだった、彼の娘が奇病を患い、治療をするためには莫大な資金を必要とされていたが故の犯行だった。世間はこう云った「喞言」が大好きだ、私が他者を踏み躙り、嘲り、愉楽するのと同じくらい。誰しも心のどこかで「あいつが憎い」「なぜ俺、私でないのか」と云った感情をひた隠しにしている。だが、本当にそれは画すべき恥ずかしいことなのか、人間が人間足らしめているものは往々にして「感情」と呼ばれる特別特殊な思考だ。当然ながらポジティヴ的要因、ネガティヴ的要因と云った方向性は必ずしも二者択一として浮かび上がり、世間はその中間を渇望している。為ればこそひととは、醜くありのまま生きていることこそ人間であり、清廉潔白なものしか良しとしない世間こそ、私は心底邪悪だと認識する。頤先で指を廻し心と落ち着かせた、私にとって心休まるタイミングは、周囲から止められている喫煙だけだった。ニコチアナの燻る炭のような香りは、口腔を苦味を纏わりつかせ、指間の皮膚や爪にも独特な香りを染み込ませる。渡鳥には飛行能力を落ち着かせる湖が必要なように、私には決して霑うことのない一本の止まり木が必要だった。そしてこの精神を落ち着かせる木々の葉こそ、ふたつめの愉楽に他ならない。時として煙を楽しみ、時として感情の受け皿に、時としてコミュニティを形作り、時として運命の紫煙となる。常日頃胸中のなかだけで吐露している言葉を、帰宅途中の呼気に紛らわすのならば「一刻も早く止めたい」という言葉に尽きる。愛しているものが手中にあり、容易に、自由に、生殺与奪を得られることにいったいなんの意味があるのだろう。他者への羨望と絶望の狭間には、決して安堵と安寧が存在しないように、ひとつの止まり木を見つけ、充分に翼を休めた私にとって、次なる樹木が必要なのではなかろうか。雑沓をすれ違う若い男女が、私を見て、見たまま通り過ぎた。おかしな表情になってしまっているという自覚はたっぷりあった。ひとりに気がつけば、ふたりに、ふたりがさんにんに、と数が増えていく錯覚。堪らず雑沓の隙間にひっそりとだが存在感を見せつけるようにして真っ暗な路地裏へと飛び込んだ。自宅までもう数分で到着できる近道だった。饐えた臭いは誰かが捨てた弁当の残飯なのか、酔者が垂れ流した自分の一部なのか、判然としなかった。私が現状歩を休めることなく、思考と歩行を止めることなく並行処理をしているのは、どちらの考えも得るためではなかった。

 私はただ、自宅へ帰りたい一心なだけだった。


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小説を書く理由 にーどれす @NEEDLESS1014

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