005

 滴り落ちる速度が限りなく零に近い粘液性の分厚い壁越しに、私は意識の大半を奪われていた。黒い漆塗りかと思わせるほどの重厚感のある真四角な家。処々より黒を、影を際立たせるためか輝かしい収穫時期の小麦の群のような色合いの装飾品がこれ見よがしに飾りつけられていた。以前よりは二時間ほど遅い時刻に電車へ乗り込んだ私は、街というよりは町の駅で人身事故のために停車を余儀なくされていた。特段突っ立っているわけでもなし、空いていた車内だったからか座すことができた。駅と駅の狭間で身動きの取れなくなった電車のなかは、様々な言葉が周囲を気遣って飛び交い、まるで未知の言語のような異質に変貌したものへと成り下がっていた。腰を深く掛け耳栓を忘れた私は、聞くに堪えない憤懣をぶつけ合う罵り合いの言葉を平静さを装いながら歯噛みする。就中ひとつの言葉に私の意識は注力した。それは女子高校生のふたり組で、ひとりは見るからに不良な生徒、残ったほうは凹凸感をでっぷり詰まらせた良の者だった。不良が厭らしい笑みを浮かべスマホを操作しつつ良へと声掛けていた。

「ねえ、あれ見てよ。あんなのあったっけ、最近できたばかりなんかな」

 良は肩を揺さぶられたあと、満更でもなさそうに間延びした声を上げて、そちらを見据えた。大きく硝子玉を彷彿とさせる黒と白の相貌は、薄く洗練され小さく指差されていた箇所を見据えた。分厚い眼鏡が鼻から一センチほどずれ落ち、文庫本を持っていた指で掬い上げて云う。

「ああ、あれね。昔からあるものよ。なんていったっけな……骨董品を扱うお店だって聞いたことあるっけな。うん、そうだ、そうそう、ママが云っていたわ」

「骨董品?」奇しくも不良の言葉は、胸中同様の驚嘆を私へと思わせていた。人工的に色を染めた不良と、私の視線が同一のものを見定めた。金の装飾品のなかで最も際立つものは、やはりあれだなと内心頷いた。良曰く骨董品屋の出入り口、その脇に顔を覗かせている上下四本の本能を剥き出しにした王。鬣の立派な彫像は表面も眼球も自然界の鬣を彷彿とさせる金色を纏って威圧していた。不良は話題に飽いたのか、軽い返事をしながら手許のスマホを良と共に覘く。私は注視した意識を他へ向けられずに座していた。彫刻の細部は呼吸を繰り返していると思わせるほど現実感があり、黒と金の調和によって生み出される美に虜になっていた。黒と金、云わば翳と陽の関係性にある物体は、黒をより翳へと昇華させ、金をより陽へと消沈させていた。明暗判然と撒き散らす建物を覆う陽光の光は温か気で、深く底すら見えない翳が凹凸によって生じた箇所へ発生している。素直に美しいとさえ感じる力量だった。つい先日気儘に赴いた長年の趣味の一場面が靄の晴れた脳髄を貫き、裡側のぶよぶよとした塊のなかで発生した。蝸牛が珍しく波を騒ぎ立て、私の聴覚は聞こえもしない音を拾い、車窓の縁へ肘を掛けながら聴き入るように視界を真黒にした。音は波となり強弱をつけながら一寸先は闇を揺蕩う姿を様々と想像させた。

 この日私の起床時間は特段変わりのないものだった。暁闇の空をたくさんの小鳥が叫喚しながら辷り、宿り木や電信柱などに程なくして脚を下ろした。窓の下を煙草を吹かしながら見下ろした世界には、数十という小鳥と、彼らの下を迷惑そうな表情を浮かべながら歩く会社員たちの姿が見て取れた。サラリーマンというものは酷く難しい職業だと理解している。彼女も立派なサラリーマンだし、友人も一種のサラリーマンだった。世の八割ほどはそういった職業の助けで成り立っている。陳謝する心のまま、部屋の中心でストレッチを始めた。一時間ほど躰の健や筋を入念に解したあと、運動後の火照った躰を休ませることを口実に煙草へ火を点ける。都内のマンションに位置するこの自室は、3LDKとひとり暮らしをするには充分すぎるほどの面積があり、ひとつが仕事部屋として機能し、ひとつがこういった躰を動かす道具や読書などをする部屋として定め、そして残った部屋には熱中していた夢の残骸が眠っている。ストレッチも終え、何故か寝覚めが酷く良かったからだろうか。故に私は柄にもなくその部屋へと真直ぐ歩き、埃が被らないように薄手の布を纏わせていた一枚を、処女へ行う手つきのような仕草で解いた。合計すると数十本はある多種多様な釣竿。糸は先日巻いたばかりの手入れが行き届いた道具たちだった。洋室の床へと臀部を下ろし、少しひやりとする冷たさに恐々としながらも愉楽に対する感情が昂っていたが故に然して気にはならなかった。専用のスタンドへ差している釣竿の二三本を抜き取り、道具を一式搔き集めてはひとつ息を零した。そうして自宅を飛び出した正確な時刻は不明だが、釣り場へ到着したのは午前七時前後だった。思い立ったのではなく、計画性のあることであれば、大きなダム湖へと趣き、二泊三日程度の予定をするものだが、今回は如何せん思い付きであったために、日帰りのものとなった。山の天気は良好で、手許のスマホを見る限り、湿度気温風向き、どれを取っても絶好の日であった。

 急激な震動を受け、瞼を開く。電車が動き出したようだった。周囲のひとたちがそれぞれの反応を示し、不良と良のふたり組も愉楽を表すように口角を上げていた。

 私はひとり、鬱屈そうな表情を浮かべ、彼女の待つ出版社へとただ時間が過ぎるのを待っていた。




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