004

 真白な短髪を覆っている麦藁帽子の端を上げた老爺が何事か口を開けていた。恐ろしく緩慢な粘液性の高い壁が、老爺と我々とを隔てる絶対的ともいえる存在となっていた。鉤鼻を大きく開いていた。興奮状態となってしまうのも無理からぬ話だろうと掌に収まる程度の同情が脳の一隅で発生した。彼は夜道を酒を呑んであるいていただけだった。確かに通行人の何人かには暴力を振るっていたし、公共の電波には流れることができない差別用語なども吐き棄てた。だが別に同種を殺めたわけでも、ましてや標本染みた全方位が透明で分厚い壁になってしまっている部屋に閉じ込められることはないのだろう。隣の彼女はまるで分厚い壁越しにも老爺の悪臭が届いているかといわんばかりに眉を顰め、何事かを冷罵した。言葉は誰にともなく呟いたものだったのだろう、それは私の鼓膜に言語として反響する前に、熱い珈琲に融ける角砂糖のような曖昧さで失った。実の処冷罵をしたのか賞賛したのかは不明瞭のひと言に尽きる。私が賞賛に値しないと考えているから、そういった行動をした彼女も亦同種のものとして扱っただけなのかもしれない。憶測も推測も結果としては同質だった。臓腑の隙間を押し込むような、重低音が二三度発生した。彼女は一度目こそ肩を竦めていたが、続けざまの行動には実に彼女らしい、心の籠った瞥見を以て見下していた。大口を開き、なにか下を指差して懇願している老爺を見て、私は大変面白いものを見ている、と素直な感想を胸に抱いた。気付けば大口を開けているのは老爺のみに非ず、彼女も私も同質のものであった。三者三様に開口した理由こそ違えど、理由についてはそれぞれ明白だった。

「それで、彼はいったいなにをしてこんな処に収容されているんだい」

「なんでも通行人を二三発殴っちゃったとのことですよ、先生」彼女は驚嘆した口調で短躯を前傾にした。「なんでもその理由が特殊だそうで、ですからこうして捕獲、捕縛? 保管……投獄されているんですって」

「へえ。動物園かなって思ったけれど、実は刑務所だったんだね。案内文はどこかにあるのかい」

 私たちは見渡すと、とびきり元気な威勢を発してひとりが駆けて行く。目方長方形の撤廃のような材質のものに、彫られた文字には「神なる子(自称)」と音読してみせた人間を嘲笑することが書いてあった。事実それは理知とは云わないまでも、有名で難問な大学を卒業しているとは思わせない程度の阿呆っぷりがあった。見ているのは私であったし、音読したのは彼女だった。触れることなく如才に抜け目なく、生返事だけを残して彼女が向いている方、つまりは私の後方へ向けて足を延ばした。歩度を強める。彼女は洟を啜りながら追いかけてきた。伸びる翳を踏むことなく隣を歩いていた。軽く波かかった長髪栗毛は見下ろす肩の辺りで忙しなく動いていた。指先で髪を梳いてやりながら、肩を引き寄せた。「ちなみに記憶が曖昧で誠に申し訳ないのだが、全体ここはどういった場所なんだい。気付けば先ほどの老爺の前で見物をしていたわけなのだけれど」

「奇遇ですね先生、私もはっと目を覚ましたときには先生の隣で経っていましたよう」

「ともすると、ここは夢なのかな」

「かもしれませんねえ、ちなみに私は頬を抓っても痛くはありませんでした」

「きみが私の夢の登場人物なら、痛みを感じることはできないよ。夢現の首謀者はここに立っているのだから」云いながら眼前で頬を雑煮の餅のように伸ばしている彼女を見て、確信していた。物理的にありえない現象だった。ならばいっそ開き直ってみようかと思い出した頃、瞬きひとつ落とした刹那には彼女の姿は消えていた。やはり夢らしい、そう思うと少し徳を積んだ気がするのは、私自身が捻くれだからだろうか、翻って夢であったとしても、自傷行為に身を窶さなくてよかったからか。解釈次第だろう。洟を啜った。世界ががらりと変貌した。

「やあ。久しいね、元気にしていたかな」最寄り駅の構内の椅子には懐かしい顔が坐っていた。窓から覘く月暈の妖しさに目も眩む勢いだった。膝から崩れ落ち、まるで対面に坐りたかったかのような形で着座した。友人はニヒルな笑みを顔貌に滲ませていた。常々友人はそういった表情をすることが美徳だと感じ入っている変態であった。「それは畢竟、僕自身が進化の途中というわけだね。まあ君は無論変体のほうだけれどね」

「随分と懐かしいじゃないか、現実の君とはもう会えそうもないと思っていた矢先だったのだが、今もこうして対面してみると少しは感動したりもしそうなものなのに、あにはらんやまったく微塵も吉兆ではないみたいだ」

 酷い友人だよ、と友人は云った。それはお互い様だろう、と友人の私は唾棄した。

 構内には瞥見する限りひとの息を感じなかった。記憶の取捨選択というものだろう。人間は誰しも特異な能力を保有している。日夜連日なにかを吸収するために脳は働き、勉学、指導、教養などといった手段を用いて情報を入手する我々だが、その実それはもっとも非効率的な行動かもしれない。前述の通り、人類の脳は得意なものを秘めている。そのひとつが記憶の拡張能力だったりする。完全記憶とでもいえばわかりやすいだろうか。本来人間が持つ能力の全ては、一度見たこと体験したことは生涯忘れないようにできている。それが理のひとつでもあるし、極致的に解釈するのならば、人間が人間らしい、猿とは違う所以だった。だが我々は完全な記憶能力という事象を認めることができない。頭の一隅で絵空事だと莫迦にしたり、空想科学だと揶揄したりして自らの可能性を否定する。もっとも美しく、もっとも醜い人間ならではの選択だろう。これこそまさに取捨選択の余地があるものだというのに。ひとりとひとりしか存在しないこの夢には、正しく取捨選択の未来が見えていた。見たいものしか見ず、知りたいことしか知らず、触れたいものしか触れず。夢とは脳が見るのか、はたまた心が見るのか。であれば心とは全体なんのことを指し示す言葉なのだろうか、躰のどこを見渡しても心という枠組みの臓腑は見当たらない。心臓という感じには心という文字が存在しているが、それも体裁的に必要なだけであって、事実とは限らないのだ。

「また変なこと考えているな友人、君はそうやって物事を無理なほうへ解釈するのが癖だ、悪癖だよ。まったくもって無駄だ、骨折り損だ」

「骨折り損とは心外だね、きみのほうこそ忠告を聞かず向う見ずな言動ばかりを重ねている。故にきみは私と逢えないんだよ」

「逢えないのではなく、逢わないだけなのかもしれないよ。これは流石に暴言だったかな」

 友人は大袈裟に肩を竦める仕草をし、おもむろに胸衣嚢からシガーケースを取り出した。鈍色の長方形の容器から慣れ親しんだ一本を取り出した。目を瞠ることだったが、宛がった口端からは煙が揺蕩っていた。火を点す瞬間を見逃していたのかもしれない。動揺を悟られないよう煙草を取り出し銜えた。溢れ出る白煙に驚愕する。もしひとりで坐っていたならば素っ頓狂な様子を周囲へ散見させていただろう。けれども友人の前で醜態を晒すわけにもいかない。これが夢現な世界だとしても、彼に失望されることは当方にとって厭な事実だった。愛煙家といってしまえば聞こえはいいが、私も彼も重度な依存症だ。不安になるとき、心配なとき、心がざわつくとき、脳が勝手に躰を駆動させ、私や彼のような人間は抗うことができずに一本の薬物染みたものに縋ってしまう。

「君はいつから煙草を吸っていたのだったかな」

「中学の頃だね、特別不良なんかじゃなかった。どちらかというと良ではあったが、反抗したく年頃だったせいか、それともかの有名な探偵の真似事をしたくなったのかは灯籠に帰す事実ではあるが、兎も角中学生の頃だったね」眼間に揺蕩う分厚い煙を見て思い出す。初めての喫煙は深夜の二時前後だった。当時は煙草の自販機で専用のカードも必要なく、老若男女何時如何なる場合に於いても購入できた時代だった。貯金箱から硬貨の一枚を持ち寄って周囲を伺いながらボタンを押すときの高揚感足るや、如何ともし難いものがあった。友人は、実に不良だね、と嗤った。私はなにも返さなかった。

「これ以上の話は次の機会にするとしよう」友人は煙草を投げ棄て、朗らかに嗤った。視界の端から徐々にだが確実な速度を伴って、物質の端々が霧状に霧散してゆく。遠くからは彼女の声が聞こえた。ともすると夢から覚める時間なのだろう、そして起きれば地獄のよう執筆が待っているのだろう。辟易とする一面、どこか楽しくなってきた。「君はそんな嗤い方ができるんだね、変わったよ」漫ろ笑みを指摘された私は頬が熱くなるのを認めた。なんてことはない、起床すれば曖昧になってしまう夢のなかの出来事だった。

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