第16話 「刹那」

 一方。

 エリーに𠮟られて慌てて中庭の隅で口に手を突っ込んでいた刹那は、妙な感覚に陥っていた。

(……吐けん)

 嘔吐しようと何度もえづくのに、胃の中からまったくものが出てこない。まるで胃の中に粘りついているかのようだ。

(こりゃー大変なことになっちまったなぁ。先生になんて言えば……)

 薄く雲が覆っている空は今にも泣き出しそうだ。そうして諦めて顔を上げたその時。

 高速で、何かが刹那の顔をかすめる。鋭い痛みが頬を走った。

「っ!」

 左後方。睨みつけると、そこにふわりと男が降り立った。金色の髪の男。青い瞳をしている。整った顔の中に、誰かに似た面差しを見た気がして、刹那は瞬きをした。それを見て男は──。

「――お前、馬鹿そうだな」

「ああ? 今なんつった」

 鼻白む刹那を見て、軽薄そうな口の端に邪悪な笑みがにじむ。

「頭が悪そうだなって言ったんだよ。エリクシアにしちゃ趣味が悪いって言ったんだ」

「は?えりくしあ……?」

 男はにんまりと笑った。「なんだ。名さえ明かしていないのか。あの女姉さんらしいや」

「……何者だ」

「これから死ぬニンゲンに名乗る名はない」

 金髪碧眼の男は両手を開いた。すぐさま十本の指の爪先が鋭くとがる。

「はは、これも見たことねえだろ。俺とエリクシアは何もかも違うからな」


 そこでようやく、刹那は悟った。師匠が《敵》と言いつづけ、逃げてきたのはこの男だと。銀の太刀は部屋だ。こちらは丸腰のうえ、妙なものを食わされている。未だ何も起こってはいないが、何か仕込みがあるのは明らかだ。用心しなければならない――。

「お前も刹那って言うんだろ?」

 男はさらりとこちらの名を当てた。刹那は目を見開いた。頬を滴る血が、顎を離れて地面に落ちた。

「やっぱりぃ? あいつのったらねえや。死ぬ前に教えてやるよ。あの女の護衛はみんな『刹那』って言うんだぜ。そんでおれは、何人もその刹那を殺してきたってわけ!」

「……な」

 男は手を打って笑った。女性めいた美しい顔立ちに残忍な暗さを宿して。

「自分だけ名前をもらって特別だと思ってたろ?ざんねん。かわいそー」


『よくぞこの太刀を使いこなして見せました。……お前は今日から刹那。刹那と名乗りなさい』

(先生……)

 

「俺ら長命種にしてみれば、人間の命なんて一瞬なわけよ。わかる?だから、あの女は護衛に毎回――」

「ごちゃごちゃうるせえなぁ!」

 刹那は頬の血を拭った。そして滴るそれを払いのける。笑いすらこみあげてきた。こいつは知らないのだ。師がどんなわがままを言うか。師がどんなときに笑うか。怒るか。上っ面だ。全部上っ面。あたかも深層を突くようなことを言うが――。


「はっ。に外野が知ったような口きくんじゃねえよ、蝙蝠野郎」

 男の笑顔が強張り、真顔になり、やがて般若のような顔へと変貌していく。

「――殺す」


 刹那はとびかかってきた男の両腕を掴んだ。相手取ったことのない怪力だ。だが――。

(互角!)

 刹那は男の全力をすべて左へと流す。地面に転がった男の尻を思い切り蹴飛ばし、頭を踏みつける。喧嘩なら慣れている。形式など無用だ。

――命を取った方が勝ち。そのまま乗り上げて首を絞める。ばたつく手足を押さえ、首の手前に指を伸ばして締め上げる。

「うらあああ!」

 素手の喧嘩は慣れたもの。なぜなら――

に銀の太刀なんかめったに使わねえんだよ!このど阿呆が!)

 ぼきっ。

 首の骨が折れる音がした。刹那は荒い息を吐きながら、動かない金髪を見下ろし――そのまま踵を返して走る。太刀は部屋にある。それさえ手元にあれば勝算はある。刹那とて、この男が人間でないことはよくわかっていた。人ならざる者は、銀の太刀で葬らねばならない。

(時間稼ぎになるか?)

 刹那が全力で走り出したその時だ――。



 びたり、と体の動きが。まるで見えない糸にからめとられるように、刹那は前傾姿勢で固まってしまう。

「なっ……」

「あの飯を食ったな、何人目かの刹那。だから馬鹿なんだよお前」

 秀麗な顔に着いた泥をそのままに、男は笑いながらこちらへ近づいてくる。折れた首を直し、長い爪をかちゃかちゃ鳴らしながら――。

「これでお前も俺の眷属。あの女を攻めるための駒になるわけだが……お前なんぞ使いたくないね。虫唾が走る」

「……こっちこそそんなのは御免だね……」

(ああ、おしまいか、先生、済まねえな……)

 刃のごとき爪が刹那の胸をえぐろうとしたその時である。


「待て!」

 高い声が中庭の沈黙を絹のように裂いた。

 粟田口の刀を構えた信が、ひたりと男の首筋に刃を当てている。

(……!お姫……)

「誰の許可を得てこの庭で殺しあっている。この庭は織田・安槌の誇る中庭。血で汚すことはこの信が許さん」

「は、お姫さんじゃないですかぁ」

「……御客人。私もこの庭を血で汚したくはない。聞き入れてはもらえないだろうか」

「聞くと思います?」

 信は男の首に刃を食い込ませた。「言葉を変えよう、刹那殿を解放しろ、さもなくば斬る」

 鋭い切っ先が男の皮膚を破る。流れだす血に、信は動じない。ただゆるぎない殺意がそこに宿っているのを、刹那は動じながらも見つめていた。

(お姫がこんな目をするなんて)

 男は状況にも関わらずからからと笑う。

「はは、物騒なお姫さんだ、さすが。最高じゃねえか。ふふん」

「!?」

「困ってるニンゲンに呪いを売るのが仕事なんですよねえ、俺。……呪術師まじないしって知ってます?俺、それなんです」

「……それしきの言葉で私の刃が退くとでも思うか」

「――いいえいいえ。ただ、呪術のタネ、知りたくありません?何があなたを男児たらしめたのか、知りたくありません?お姫さん」

「……」

「聞くな!」

 刹那は叫んだ。嫌な予感がした。しかし眷属とやらの枷に阻まれ、口が開かなくなってしまう。

「お前は黙ってろ」

 青い瞳に睨まれると、身体から力が抜けていってしまう。未だ迷いの残る信の瞳に向けて、男は言い放った。

「幼いあなたに服用させたのは、ようはです。粥に混ぜてね」

「っ……!」

 信が崩れ落ちた。粟田口の刀が音を立てて地面に転がる。口を押えて、青い顔をした信は吐き気をこらえるように体を丸めた。

「もう吐けませんよ。だって、もう体に浮き出てきてるでしょう? 

「う、うぇ……」

(クソ外道野郎!)

 刹那は体を動かそうと踏ん張った。しかし、身動き一つとれない。

(ちくしょう、ちくしょう、こんな……)


「……邪魔者もいなくなったことだし」

 男が刹那の耳もとで囁いた。

さようならオールヴォワ。二度と会わないことを祈って」

 

 次の瞬間、刹那の身体に風穴があいた。

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