第13話 降りる天使

「おふくろさんに嫌われてるってなぁ、辛いよなぁ」

 夕方、刹那がこぼした。珍しく布団も敷かないまま、胡坐をかいている。暑いのか、着物は左の片袖を抜いており、傷の塞がらない左手首の包帯が浮いて見えた。

「……なんとかしてやりてえが……俺にはどうもできん――」

「刹那」

 エリーはぶつぶつ呟く刹那の真ん前に腰を下ろした。

「わかったことがあります。今夜、やりますよ」

「えっ」刹那は目をまるくした。「なに?なんだって?」

「正面突破です」

 エリーは当然のように言った。「慈菫院さまのお部屋に、行きます」



 いったい何が分かったんですか、と聞きたげな刹那に、エリーは手短に説明していく。

「信さまが呪われた原因はひとつよ。単純なこと、

「何を?」

「何のために?」刹那は眉を寄せて、腕を組んで唸った。「いったい誰が得するんですか、……若のおふくろさんかい?」

「いいえ。私は今の段階で、慈菫院さまは無実だと考えています」

「???」

 刹那がついてこれていない。エリーは、「思い出して」と刹那の記憶を揺さぶった。

「あなたと二人きりの稽古場で、信さまは兄君あにぎみを殺してしまったといったわ」

「言ってたな、そういえば」

(そういえばって……刹那、あなたねえ……)

 よほど「母に嫌われている」という言葉が刺さって抜けなくなってしまったのだろう。他の一切のことを忘れているなんて!

(だめよ、女性の言葉は全部聞かなくっちゃ。好かれてるものも嫌われてしまうでしょう!)

 頭の中は刹那への説教で一杯になってしまったが――エリーはかぶりをふって、気を取り直す。


「でも、信永様の嫡子は信さま。これがどういうことだかわかる?」

「ええと……、兄さんは、いたけど、いないのか?」

 エリーは頷いた。

「そう。いたけどいない。。そして……彼はすでに死んでいる。何らかの事故で」


 恐らく信とその兄は、だったのだろう。刹那はぽかんと口を開けてエリーの推理を聞いていたが、しばらくして、確かめるようにわなわなと手を動かした。


「それで、若が呪われて、その兄さんの代わりになった。親父殿を、だますために……?」

「そう。……それが妥当だと思うのだけど。問題はね、刹那。だれがそれを隠したか、なの」

「隠すことによってになる人物……?」

「いえ、人物ね。仮に――不幸な事故で貴重な男児を失ってしまったとする」

 エリーは推測する。

「しかし、信永さまにはすでに通達済み。初めての男児に大喜びする父――事故で死んだとはとても言えない。言ったら殺される。織田の六代目は人を斬る。容赦なく斬る。たとえそれが身内だろうがなんだろうが――だから隠さねばならなかった。おそらくは……」

「……それは、若のおふくろさんだったとしても成り立つと思わないかい、先生」

 刹那が疑問を投げかける。「若のことを嫌ってるっていうんなら……命おしさに、若を盾にするってことがあり得る、違うかい」

「それはね」エリーは両の手のひらを開いて見せた。

「これから確かめるのよ。だから、慈菫院さまの部屋に行くの」

「だからどうやって……」

「私は、慈菫院さまではないと思っているけれど。……これは人と人との間のこと。ないとは言い切れませんからね、刹那。検証いたしましょう、信さまの御前で」


※※※


夜、雨雲に隠れた月がぼんやりと中庭を照らしている。

「無理だって」

「できます。わたしをなんだと思っているのですか」

 エリーは芙蓉に頼み込み、西洋由来のひらひらしたドレスを見繕ってもらった。透けるような生地、いやらしくなく、上品な仕立ての真っ白な夜着ナイトガウンである。

「不老不死を目指し、仙人の境地を目指す方士です。しかも徐福の娘。不安要素はひとつもなし!」

「しかもの後が重たい!先生、本当にできるんですか……?」

 俺の肩が壊れる、と刹那は訴えた。しかしエリーは首を横に振るのみである。

「私が上に乗ったら思い切りかっ飛ばしフルスイングなさい。あの高楼めがけて」

 エリーの案はこうだ。

 刹那が木刀を構える。その上にエリーが乗り、機を見計らって刹那がそれを打ち飛ばす。うまいことエリーは飛んでいき、慈菫院の部屋の窓に張り付く。

(ふっふっふ。旧きに倣え。カルタゴのカタパルト式よ!)

 刹那はまだぶつぶつ言っている。

「木刀が折れるか俺の腕が折れるかのどっちか――」

「何を言うんです、師匠の言うことをお聞き」

「むりです!」

「できます!もし折れたなら直してあげるから頑張りなさい!」

「無茶言うな!」

 師弟の声が暗い庭に響き渡る。誰かに聞きとがめられたらまずい。エリーは強行突破することにした。

「乗ります。構えなさい」

「無理だって!無理無理、無理」

「三」

「ひい!」

刹那が反射で構える。エリーもまた、神経を研ぎ澄ませる。

「二、一!撃てファイア!」

「うらあああああああああ!」

びゅんっ!

「えっ!か、かるっ……⁉」

 はるか下から刹那の驚愕の声が聞こえてくる。エリーは高速で飛びながら、慈菫院の幽閉されている高楼の、下の階にへばりついた。

手筈てはず通りに!」

 それきり叫ぶと、エリーは貧弱な腕で軽々と楼を上っていく。時間がない。

(丸薬の効果が切れる前に上り切らなきゃ……!)

 もともと方士の目指す仙人とは、煙のように立ち消えては現れたり、一度腐敗してから蘇ってみせたりと、世の理を外れては戻ってくる世捨て人変人のことを指す。

(あの父さんの娘なら、重力に逆らうくらいよ……徐福の娘の名が廃るわ!)

 世を捨てたわけではない。しかし仙人を目指す者として、エリーにも矜持がある。(ずぇったいに、たどり着くッ!そうじゃないと、……そうじゃないと!)

 誰も救えない。慈菫院も、信も、そして信永も――。


 最後に目的の階の欄干を掴んだとき、丸薬の効果が切れた。エリーの体重は戻り、肩がきしんで悲鳴を上げる。手のひらに汗がにじみ、滑る。今にも落ちそうな自分の身体を掻き抱くようにして、身体を上へ持ち上げる。

「ここで、あきらめて、たまるもんですか……っ」

 伸ばした手、根性でつかんだ横木をなんとか跨ぎ、ようやく――エリーはそこへ、はだしの足をつけた。


 肩が上下して、心臓は脈打ち、汗がだらだらと流れている。大の字になりたい気分だったが、そんなことをしている場合ではない。エリーはまとめていた髪をほどいて、薄くはかない月の光のもとへ晒した。流れる髪が、彼女の想像する使徒にそぐえばいい、そう思いながら。

「……」

 息を吸い込む。彼女の洗礼名は、あらかじめ芙蓉に聞いてあった。

「ヴィオレット、ヴィオレット、目覚めなさい」

 しんとした部屋の中で、彼女が身じろぎをした。

「どなた?……だあれ?」

 子供のような声は、かつて聴いた悲痛な祈りとは遠い。エリーは手筈通りに続けた。

「ヴィオレット。そなたにはわかっているはず」

(クリス=ロウ教のことは勉強した、抜かりない。……はず!多分!)

 エリーは乾いた唇を舐めた。百年以上前の知識でも役には立つはずだ。おそらく。

「窓を開けて。あなたの懺悔を聞き届けに参りました」


 がらりと引き戸が開くと、信にうりふたつの、痩せた女が顔を出した。

「……天使様で、いらっしゃいますか」

「皆がそう呼ぶもの。皆がそうあがめるもの」

「ああ、天使様」

 慈菫院は跪いた。図ったように、雲間から月の光が差し込んで、エリーの銀髪を照らし出した。

「天使様。……わたくしの罪を、お聞き届けください」


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