第12話 母子の物語
真昼の稽古場。外は雨。
「若。――前も言ったが、力みすぎだ」
刹那は信の背後に立ち、刀の構え方を指導している。
「真正面に立つ相手を切るならそうだが、奇襲だの、搦め手だのを使う相手にその持ち方じゃ無理だ、手首を柔らかくして、足は余裕を持たせて」
刹那は信の手首に触れる。エリーは内心、ヒュウと口笛を吹いた。
(他人の恋路ってなんて楽しいの!)
信は信で、大真面目に話を聞いているが、明らかに刹那を意識しているのがわかる。とうの朴念仁はそのことには全く気付いていないようだが。
(あれだけ女を相手にしても、若い
エリーはこっそり二人の稽古を覗いていた。あくまで、ばれないようにこっそりだ。視線を敏感に感じ取ることのできる刹那にはばれているだろうが、それしきのことで態度を変えるような男ではない。信と刹那の一挙手一投足をじっと見つめて、エリーは考えを巡らせる。
(まあ、刹那は信さまの周りにいない感じの男ではあるけど……)
ありていに言えば大男。言葉を選ぶなら、雄々しい
(刹那のあの、ちょっと悪そうな雰囲気がまた……いいんでしょうね、たぶん)
そうやってうきうきと二人を眺めていたエリーだが、本来の目的を思い出して、かぶりをふる。
(いけない。人の恋路もいいけど、今回は信さまと慈菫院さまの関係を聞くんだったわ。うまいこと聞きだしてちょうだいね、刹那――)
「休憩にするか」
刹那が言った瞬間、信が崩れ落ちるように座り込んだ。
「きつい!」
「お、活きのいい弱音だねえ」
信は笑う刹那をにらみつけた。「弱音ではない。感想だ」
「そういうことにしておこうか」
刹那は信のとなりに腰を下ろして、着物の衿で汗を拭った。乱れた衣の間から、鍛え上げられた筋肉がのぞく。信はそっと刹那から目をそらした。
「……なあ若。おふくろさんは元気か」
「え?」唐突な話題の切り出し方に信は驚いているし、エリーは目をみはった。
(もうちょっと自然に話題を切り出せないのかこの男はぁ!)
内心暴れまわっているエリーを差し置いて、二人の会話は続く。
「なぜ?」
「なぜって。自分の子供がこんなに気合入れて踏ん張ってるのに、おふくろさんときたら一回も見に来やしねえ。臣下も世話係もかわるがわる見に来て下すったのに」
「――母上は、忙しいのだ」
信は、言い聞かせるようにつぶやいた。「いたし方あるまい」
「そういうもんなのかねえ、俺にはわからん」
信は何か言いたげにしたが、口をつぐんだ。刹那はそれを見逃さずに、畳みかける。
「俺のおふくろはいつも笑ってた気がするよ。大丈夫だ大丈夫だってさ。全然大丈夫じゃなかったろうに」
「……あなたの出身は確か……貧しい農村だった、か」
(そこまで話してあったのね)
エリーは意外に思った。
(あの刹那が、私以外に自分のことを話すなんて……)
ぐっとこぶしを握りこむ。そしてつき上げようとするのを押さえおさえて、一人しずかに快哉をあげた。
(これは、脈あり!?がんばれ信さま!!)
「そうだなぁ。コメが不作の時はもう、食えるか食えないか、みたいなところがあってよ。そんな時におふくろは、腹いっぱいだから、お前が食べなさいってよ。……自分がいちばん腹減ってるだろうにさ」
刹那は目を細めた。そしてそのまま、信を見つめた。
「若には、飢えた経験がないだろうがね……責めてるんじゃねえよ。ただ、事実として、言いたくなっちまったんだ」
「……すまない」
「いやこちらこそすまねえな。いらねえこと聞かせちまってよ」
刹那の目が暴れまわるエリーの影をとらえた。なにやってんだよ先生、というじっとりした視線が向けられている。
(はっ!我を忘れてしまったわ。いけないいけない)
その時、うつむいた信が、か細い声で言った。
「……私には、わからない。母のことが」
刹那は信に視線を戻した。エリーもまた、暴れ狂うのをやめて耳を澄ます。
「母は、……物心ついたときから、いなくて。ずっとお徳と芙蓉が私を愛してくれた」
「そうだったのか……」刹那が言った。
「だから私は、母上の心が分からない。母上の、……気持ちが分からない」
信の言葉は次第に早口になっていく。エリーは見守りながら、唇を噛んだ。
(信さまの、触れてはいけないところに触れてしまったかもしれないわね……)
「母上は私を嫌っていらっしゃる。憎んでいらっしゃる。どうしたら愛してもらえるのか、わからない」
刹那とエリーは同時に息を呑んだ。
(嫌っている?憎んでいる?どういうこと?)
「私を呪ったのは、母上に違いない。ずっと考えていたのだ。……ずっと。方士殿に頼んで、すべて明らかにしてもらえれば、もうあきらめがつくと、そう、思って……」
信は目を真っ赤にして刹那を見上げた。
「笑ってください、刹那殿。男らしくないと……」
「待て、先生はまだ調べてる。まだそうとは限らない。若、」
信は顔を上げて笑った。眦から涙がこぼれていた。
「……私は
(――兄?)
今のところ、織田信永の家系に男児は居ない。いないはずだ。家系図に記されない、信の兄がいたとするなら、……するなら?
(兄の代わり……)
エリーは瞼を下ろした。これまでの会話や証言をかみ合わせていく。
「たった一人の息子」。幽閉された慈菫院。昔は女子だった信。「母親に嫌われている」と泣く信。そして、信が娘であることを知らない、信永――。
そして「兄の代わり」。
――これは二択だ。伏せられた椀の中に、真実がある。丁か、半か。
勝負を掛けねばならない時が来た。
エリーは固く歯を食いしばった。もし、本当にそうだとするなら。
(なにがなんでも、慈菫院に会う必要がある。どうにかして……)
エリーの視界の外では、刹那が泣く信の頭をゆっくり撫でていた。
※※※
「主よ、お許しください。この罪深い母をお許しください」
十字に向かって祈りをささげるは、部屋の主、慈菫院。ろうそくの明かりが揺れる室内はひどく暗く、澱んでいた。
狭い部屋だ。寝るには困らないが住むには小さい。
その部屋に、もう一つの影がある。
「許しましょう、
「ああ……神父様。ですが、わたくしは」
「主はあなたの悲痛をも背負い、あの聖なる十字に架けられた」
神父と呼ばれた金髪の男は、青い目を光らせた。
「人間の罪、人間の咎、悲しみや苦しみの一切を背負い、十字に架けられたのです。それでも許されないというのであれば……」
神父はあるものを差し出した。椀と小刀だ。
「わたくしは……」
慈菫院は、ためらいながらも、渡された小刀を手にする。手首を薄く切り、滴るものを椀の中に注ぐ。
「これで、あなたの頑なな心をも、主はお許しになるでしょう」
慈菫院は微笑んだ。微笑みながら、椀を男へ渡す。
「ありがたき、しあわせ」
「主の慈愛は、広く、等しく、貴方の上にも注ぎましょう、ヴィオレット」
そして男は――椀の中の血をすべて飲み干した。
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