第10話 忠義のわけ
「だああー!」
信は頭を振り乱してしゃがみ込んだ。外は雨、稽古場は薄暗く、真向かいに立つ刹那の影だけが長く伸びていた。
刹那は構えていた木刀を下ろし、信の様子をうかがっている。
「どうした、若」
「何もわからない!何も!」
「そりゃあ……目が肥えてなきゃあ見えるもんも見えんよ」
「そうじゃない、打ち合いのさいの、あなたの考え方が何もわからないのだ!」
信は唇を噛んで刹那を睨み上げた。「受けるのもかわすのも難しい、一太刀浴びせよと言われればなお不可能だ!どうしろと!」
「若は筋道立てて考えすぎだ、勘だよ勘」
刹那はこめかみをとんとんと叩いた。「ここが違うんだ」
「ぎいいいいいいいい!」
信は奇怪な鳴き声でもって刹那を威嚇した。そんな信を意にも介さず、刹那は思い立ったように休憩を提案する。
「そろそろ体を休めるべきだ。手も震えているだろう」
「う、うるさいっ」
確かに刹那の刀を受け続けた両手はびりびりとしびれていた。
「……私とて、男子だ。この国を背負って立たねばならぬ!」
威勢ばかり空回り、信は震える両手を握りしめて、ぐっと握りこむ。
(強くなりたい。何もかも守れるように、強く、……)
「なら、引き際も肝心だ」
刹那は信に歩み寄ると、その頭をぽんと叩いた。「引き際をわきまえてなきゃ、戦い続けることはできねえよ。何にしたってそうだろ?」
「……刹那殿」
「俺の太刀は守るために振るうもんだ。それ以外の時は無用の長物さ」
刹那はどっかりと腰をおろす。
「雨が降って気分が塞ぐなら、気晴らしに昔話でもするか?」
「昔話?」
「おうよ」
刹那はらしくなく、優しく微笑んだ。
「俺の村は鬼に襲われてな。十五の頃だ。俺だけ生き残った。そこを拾ってくださったのが、あの先生よ」
「先生……方士殿のことか」
「おう。あの人が見かけ通りの年齢じゃないことは、若も気づいてたろう」
信は頷いた。刹那は、眉を下げて笑った。方士の年齢のこともだが――方士のことになると、刹那は途端に優しい顔になる。信はそのことに気づいていた。
(……気づかぬとでも思ったのだろうか、このお方は……)
「やっぱりなぁ。黙っててもらえると助かる」
「……隠さずとも、よかったではないか」
信はそっと頬を膨らました。「私はここまで暴かれているというのに、そちらが手の内を明かさないのは不公平ではないか。そうは思わぬか」
「まあまあ。俺の話で一つ手を打っちゃくれないか」
刹那はいかつい手で、乱していた着流しの襟を整える。
「――乾いた絶望の中に立つあのひとは、すごくきれいだったよ」
近隣に血を吸う鬼が出るという噂が流れてきたときには遅く、刹那の里はその怪物の群れに襲われた。納戸に隠れて震えていた刹那のみが助かり、ほかの者は「砂」になった。一人残らず、形を残さず消滅した。
刹那は絶望した。虚無の色濃く残る村で、飲まず食わず、動かず……そんな日が続いたある日――。
砂塵巻き起こる風の日に、彼女はやってきて、光る銀色の髪をなびかせて村中を歩き回り、小さな納戸で、やせ衰えた刹那を見付けた。そして力いっぱい抱きしめた。乾いた鼻先に、ほのかに花のような匂いが香った。
――ああ……。
彼女の喉から零れたのはそれだけだった。あとは目がすべてを物語っていた。美しい赤い瞳からぼろぼろ涙をこぼして、刹那を固く抱きしめ、静かに泣いた。
――どうして泣くの。
――罪深いわが身を思って泣くのです。
――罪深い?
――私の罪が、貴方を傷つけた。だから泣くのです。
彼女は名乗らなかった。「先生とお呼びなさい」とだけ告げた。それから彼女は、刹那に重たい太刀を預け、「これを扱えるようになれば、私の弟子にしてあげましょう」とも言った。
「でもよ、身体の小さな、やせっぽちの子供だぜ? 太刀をほいと渡されて使えるわけがねえんだよな」
刹那はため息をついた。「何度旅先で放り出されそうになったかわからん。今からでもいいからお前は人間のそばで生きなさいと、何回も別れのセリフを言われちまった。あれにはまいったね。いつ捨てられるか、いつ見限られるかとひやひやした」
「それでも、側にいたんだろう? 今ここにいらっしゃるということは」
「そりゃあそうさ。……そうだよ。俺は先生についていくって、初めて会ったその時に決めちまったもんだから。決めたことを変えることもできねえで、ここまで来たってわけだな」
刹那が眉を下げて笑うから――ずき、と信の奥で何かが疼いた。
「刹那という名も、先生に貰ったものだ」
「――前の名は?」
「忘れたよ」
信はまだ震える手を薄い胸に押し当てた。理由のわからない動悸を押さえつけるようにしながら、刹那の顔を覗き込んだ。
「後悔はしないのか」
「しないな。していない」
「方士殿は、やはり人ではないのだな」
「そうだな。……でも、俺にはそれしか言えんよ。これ以上は言えねえ。言ったって知られたら俺が半殺しにされちまうから、若、二人だけの秘密ってことにしといちゃくれないか」
「――無論だ」
(刹那殿は――)
信は刹那のたくましい横顔を見つめて、それからふと視線を自分のゆびさきに向けた。丸くて小さくて、とても男には見えない手。
(刹那殿は、強くなったのだ。方士殿のためだけに。彼女のためだけに……)
刹那の手も、腕も、首も、喉仏も、すべてが信のそれと違っている。違っていることは当たり前のことなのだが、それらすべてが歯がゆかった。信が、一生をかけても手に入れることのできない逞しさがそこにあった。
(そんな強さに、私は届くのだろうか。この半端な体で――半端な心で!)
信は、自分を呪った相手がわかったところで――呪いは、解かない。そう決めていた。
なのに。
(私は織田の男児。強くならねば……)
握りしめる拳の大きさすら違う。全然、敵わない。信は刹那をうかがい見た。引き締まった体躯の男は、休憩とばかりにうとうとと船を漕いでいた。寝入るのが早い。早すぎる。
「全くこのお人は……」
危機感があるのかないのか。不思議な方だ。
そう言いながら、信は……刹那の、だらしなく緩んだ襟元からのぞくその稜線──首筋から、胸筋にかけての、男の硬い線を、見てしまった。
おかしい、見慣れたはずなのに。
先ほどと似たような感覚が襲ってくる。ずき、ずきと痛むそれは、頭などを病んだときの疼痛に似ている。
「っ……」
(私は、)
唇を噛み、信は勢いよく立ち上がって、そのままどこへともなく一直線に駆け出した。
(今何を考えた??)
声にならない叫びのような激しい息で、信は音もなく叫んだ。
(今何を)
自室の前までひたすら逃げてきて、大きく息をつく。心臓が早鐘を打っている。いまだ、目に焼きついた刹那の肉体が頭から離れない。
「私は嫡男、織田の信、私は……」
(今……)
──私がちゃんと女だったらこの人はどんな顔をするんだろう。
(いや、いやいや、いやいやいやいや!ない。無い!)
「……あり得ない」
信は真っ赤に染まった頬を隠すように両手で挟み込んだ。
「あり得ないッ!!」
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