第7話 狂女の祈り

「なるほど……」

 昼間の出来事を聞いたエリーは、布団の中から刹那を見上げた。

(刹那でもわかる視線が三つということは……これは、面倒ですねえ……)

 端麗な顔の真ん中にぎゅっとしわを寄せて、エリーは伸びをする。

「信さまは呪いよりもご自身の在り方にとらわれていらっしゃるようね」

「……強くあらねばならない、ってなぁ」

 刹那がエリーのそばに胡坐をかく。「別に強くなる必要もなさそうだがね。この城は堅固だ。家臣も十分にいて、けして骨のない連中じゃない。それに、あの若の太刀筋だってそう悪いもんじゃないんだがな。隙だらけだけどよ」

「そういう問題じゃないのです。あなただって覚えがあるくせに。昔はぎゃあぎゃあぴいぴい、先生置いて行かないで~って泣いてたじゃない」

「そういう問題だろう、俺はあんたのそばに居なきゃあならねえって必死だったんだからよ。ことあるごとに置いて行く置いて行くって……」

「――それはあなたがとても弱かったからでしょう」

「今は?」

「今は……」

 言いながら刹那が小刀を取り出して、左手首の包帯をほどいた。幾重にも切り裂いたあとが残るそこへ、刹那が小刀の切っ先を当てると、刃が皮膚を破り血が零れるより早く、エリーは体をゆっくり起こして唇を寄せる。口内に広がるのは鉄錆の味ではなく、芳醇な生命のしずく。刹那の血だ。

 エリーの後ろ頭を支えるように、刹那の大きな掌が髪の毛を梳く。エリーにはいまだ、その行為の意味が分からない。

(たまに男女の駆け引きごっこをしたがるのよね)

 鋭くとがる犬歯が触れないように「食事」を追えて、口元を拭ったエリーはそっと瞼を下ろした。寝静まった城の中で、まだうごめく人の気配がある。

「……よし、今度は私の番ですね。お前は寝ていなさい」

「城の中に危険がないとも限らない、俺も……」

「医食同源といいますよ」

 エリーがにっこりと笑うと、刹那は観念したように、「わかったよ」と答えた。

「――美味い血を作れるよう努めることにするよ、先生」

「それでよろしい」



(刹那が感じたという、試合の時の三つの視線)

 気配を殺しながら、夜の安槌城を歩く。エリーはあたりを見回し、見張りの者が外を警戒しているのを横目に進んでいく。

(二つは高楼の上から、ひとつは物陰から。表に出てきて応援するでもなく、かといって試合に干渉するそぶりもない。可能性は二つ)

 エリーは、夜目が利く。まっすぐ廊下を突き進むと、難なくくりやを見付ける。朝餉の仕込みがされたあとの、人のいないそこをぐるりと見渡す。料理――エリーにとってはまるで意味をなさない営みだけれど、それが刹那の肉となり血となる。

(一つ。単純にこちら刹那の力量をはかりたいから。二つ。こちらも単純で――信さまを見守っていらっしゃる。あるいは、を見たかった)

 物音ひとつ立てず、滑るように進むエリーは、傍目には幽鬼に見えたかもしれない。銀色の髪をさらさらと揺らし、赤い瞳ひとつで夜を見通すさまは、絵物語の中の「鬼」を思わせる。

(高楼からの視線というのは、刹那が言う通り、ひとつは信永さまのものだろう。もう一つは――)


 厨から表へ出て、外の空気を吸いこむ。

「はあ……」

 月がくまなく夜を照らしている。エリーは目を細めて、ゆっくりとあたりを見渡した。刹那と信が一戦交えたというのはこのあたりだろう。高楼は見えるところにあり、遮るものもないので、ここを見下ろすにはちょうどいい。そして、身を隠すのに適切な物陰もいくつかある。

(ここで少なくとも三つの視線を感じた、と……)

 エリーは腕を組んだ。唇を撫でると、先ほどもらったばかりの刹那の血がついていた。指先についたそれをぺろりと舐めて、再び考え込む。

(情報が少なすぎる……わたしは、信さま以外の人のことを知らなすぎる)

 信を呪ったのは誰なのか。女子である信を男に見せかけ、あまつさえ「男に成る」呪いをかけたのは誰なのか――。

(わたしには女子にしか見えないけれど、刹那も、誰もかれも、信さまが男であることを疑っていない……幻術も視野に入れたほうがいいか……)


 その時だ。

 高楼の上から、細い女の声が降ってきた。

しゅよ、お許しください。この罪ぶかいわたくしをお許しください。わたくしの懺悔を、どうかお聞き入れください。主よ、お許しください……」

(……なに?)

 月に願うように、一人のやせた女が窓際に立っている。柔い風に黒髪が靡き、優しげな面立ちが悲痛に歪んでいる。その悲痛が、彼女の眉間に深いしわを刻んでいた。

(誰だ……?)

「……わたしの子らをお守りください」

 痛々しいほど震える声が、そしてきつく握り合わされた手が、彼女の願いを物語る。「お守りください、お守りください、お守りください、主よ、お守りください」

(主……)

 エリーの知る限り、「主」と呼ばれる存在はひとつ。エリーが生まれながらにしてそむいた相手だ。

(なんてこと……クリス=ロウ教……!)

「わたしの子らを……そしてをお守りください……!」

 祈りの声が響き渡ると同時、女の後ろから侍従らしき手が伸びてきて、彼女を奥へと引きずり込んだ。

慈菫院じとういんさま!」「慈菫院さま、お気を確かになさいませ!」


(慈菫院……!?)

 それは、信の生母の名ではなかったか。確かに、言われて見れば面影がある。というか……

(言われなくとも……信さまにそっくりだ)

「主への祈りを邪魔しないで!放しなさい、無礼者、無礼者ッ!」

「慈菫院さま、これが人目に触れたら!」

狂女きょうじょに理屈がわかるものか、窓を閉めよ!閉めるのだ!」

 窓が閉まり、物音も声も聞こえなくなった。エリーは一人残されて、深々と考え込んだ。

(……宗教のことはまず、おいておこう)

 再び、慈菫院の部屋を見上げる。中ではまだ何か言い争いをしているようだった。

(二つ目の視線は、慈菫院さまで確定、かな……)


 しかし、気になることがいくつもある。

「……たった一人の息子」

 仮にそれが信のことであるなら、相手がだれであれ、祈りをささげることは特別不思議なことではない。日ノ本には確かに、そうして息災を願う文化があるのだから。むしろ……、

(なぜその祈りを止める必要がある?夜に声高に叫ぶからか?)

 そして、「狂女」という言葉。仮にも継嗣けいしである信の母を、臣下が「狂女」扱いするのはなぜだ?

(ますますこんがらがってきたぞ……)

 エリーは内心頭を抱えた。暇だったはずの数日前が早くも恋しい。けれどひとつ、分かったことがある。それは確かな手がかりだった。

(すくなくとも、この呪いはあの時の賭場と同じ……みんな、だ)




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