第4話 強欲に溺れる雅美

「ママ、昨日、正人くんの話したでしょ?」


正人というのは雅美の幼稚園からの幼馴染で、よく遊んでいる近所のお友達だった。


「ええ、正人くんが自分でお買い物して”地球グミ”買って食べてたって話ね」


 ”地球グミ”は最近、小学生の間で流行っているらしく、和子からすれば、ただのまん丸いだけのグミではあったがそれを食べただけでクラスの話題になるらしい。

 ただ、五百円もするもので気軽に買えるほどものではなく、かなり高級感漂う駄菓子だった。


 和子は雅美に留守番させる機会は多いが、家からは出ないように全て和子が買い物していた。その方が安全で和子も安心できたからだ。

 同じ年の正人がもうお使いできるなんてすごいねと昨日話していたところだった。


 しかし、別にこれといって変な話ではなかった。雅美は小さな眼に涙を浮かべながら、


「絶対に言うなって!正人くんが。誰かに言ったら殴り飛ばすって言われて怖くて……」


和子は唖然として雅美を見つめていた。正人はいつもひょうきんな男の子で和子の前でも面白いことを言ったりする良い子で通っていたからだ。その正人が雅美を脅すなんて、やはり昔から知っていただけに和子にもショックだった。


「え? なにそれ? 雅美、どういうこと?」


「あのね。あのね……」


雅美はまだ口にすることを怖がっていた。

和子は、正人がなにをやったのか、なんとなく理解できた。


保身に走った正人の醜悪な恫喝が和子と雅美の間に壁を作っていた。和子は沸々と湧き起こる怒りが雅美に噛みつかぬよう必死に抑えていた。でも和子は雅美から壁の中に閉じこもっていないで突き破ってほしかった。和子はなにも言わず、笑みを作り続けた。


——————雅美!頑張って!頑張って!


「あのね、ママ……。正人くん、ママの財布からお金を奪ったんだって!それで地球グミ買ったんだって」


——————雅美!頑張ったね……


和子はうつむいて眼に涙を溜める雅美を見つめていた。醜悪な恫喝に打ち勝ったことが和子には嬉しかった。


「そうだったの。雅ちゃんはそれ聞いてどう思ったの?」


「悪いことだと思った。そんなことしたらいけないって。正人くんにも言ったよ。そしたら……」


「そう。怖いこと言われちゃったのね。でもママは雅美は偉いと思うよ。雅美が正しいよ」


「うんうん。でも正人くんがお巡りさんに捕まったら大変だし、遊べなくなるし……」


「あははは! まぁ、正人くんはママさんとパパさんにこっぴどく怒れるけど、お巡りさんには捕まらないよ。大丈夫よ」


「なぁんだ!そうなんだ!よかった」


ようやく、安心したのか、雅美の顔に笑みが戻った。雅美はオレンジジュースを飲んでいた。


 その時、登山用リュックを持っていたサラリーマン風の男が席を立って、トイレに向かった。雅美はその様子を眺めている風だった。


 男が席を立ってトイレに向かったとき、リュックのそばをすり抜けて行ったので、風で札が舞っていた。そして、ヒラヒラとフロアに落ちた。


「あれっ!」


トイレのドアが閉まった刹那、雅美はサッとソファーから立ち上がってその落ちた千円札に向かって走って行った。


 和子はその様子を眺めていたが、やがて猜疑の色を滲ませて雅美を眺めていた。雅美はその千円札を両手で持ちながら、じっと見つめていたのだ。


——————どうしたのだろう? なぜ雅美は千円札をテーブルに置かないの?


そして雅美は千円札を持ったまま、スタスタと席に戻ってまたオレンジジュースを飲み出した。


——————え? なに?


「雅美? その千円札はどうしたの?」


「…………落ちてたから拾ったの」


和子の全身に戦慄が走る。

——————今どんな顔をしているのだろうか、私は!


 和子は信じられなかった。雅美はきちんと善悪を判断できると自信があった。胸にぽっかりと大きな穴が空いた気がした。再びうつむきジュースを飲む雅美が感情のない昆虫のように見えてゾッとした。


「その千円札は誰の? 雅美」


「…………落ちてたの」


和子は愕然と雅美を見ていた。いつも笑顔で明るい自分の娘とは違い、全くの別人格のように思えてならなかった。いや、そうあってほしい。これは雅美じゃないと必死に自身に言い訳する自分がいた。


「雅美、ママもう一度だけ言うよ! そのお金は誰の?」


 雅美はいつも欲しいものを欲しいとおねだり出来ない子だった。それはいつも働きに出かけて誰もない家に一人で留守番させていた和子が全て悪いことはわかっていた。


 雅美は子供ながらにママに気を遣っておねだりはしなかった。いつも物欲しそうな眼で眺めるだけで決して自分から欲しいとは言わない子だった。その雅美が”地球グミ”の話をしていた事を和子は理解していた。お友達の話で自身の欲を装うことが雅美の最上級のおねだりだと言うことを。


 わがままを言わない雅美を、周りのお友達のママたちは「偉いね」って褒めたはいたが、和子は貶されているようで嫌いだった。

 子供は駄々っ子でわがままが当たり前で聞き分けが良すぎる子はどこか欠陥があると持論があったからだ。


 和子は涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえていた。最愛の娘がいつの間にかバケモノに覚醒していたからだった。


「……拾ったの。これは雅美のお小遣いなの」


雅美はうつむいたまま、千円札に固執する姿勢を崩さない。


——————そんなに欲しいものがあるんだったら、ママにねだってよ!雅美!


和子は千円札にしがみつくような娘にしてしまった自分に血の涙を流す思いだった。


「雅美! いい加減にして! それじゃあ、正人くんと変わらないよ。あなたは盗んでいるのよ!」


雅美はわかっているふうではあった。しかし、どうしてもそのお金で”地球グミ”が買いたかったようだった。


「…………ママァ」


猛烈な未練を自分一人で絶つ事が出来なかっただけだった。強欲という名の悪魔に取り憑かれていたのか、ハッとした表情をした雅美はオレンジジュースをテーブルに置いた。そして、雅美は駆け出した。


 ちょうどその時、トイレからサラリーマン風の男が妙に下を向いたまま、自席に戻ろうとしていた。


 和子は雅美がその男に千円札を返す様子を見守っていた。


……ごめんなさい


あれじゃあ、何の事かわからないだろうなぁと和子は苦笑いしながら、男の方に向かって会釈した。するとササっと雅美はスッキリしたような表情で戻ってきた。


「ママ、ごめんなさい。雅美、ちゃんと謝ってきたよ!」


「うん。それで良いのよ。ちゃんと謝れましたね。よく出来ました!」


和子はそういうと自分のバッグから”地球グミ”を取り出して雅美に渡した。


「え?ママァ!! 買ってくれたの? ありがとう、ありがとね、ママ」


「雅ちゃん、良い事をするとね、良い事があるんだよ。覚えときな!! さぁ、帰ろうか」


「うん」


和子はトレイを持ちながら返却口へ向かい、雅美は男の方へ手を振っていた。雅美は男が笑顔で振り返してくれたのが嬉しそうだった。

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