第2話 呪縛の札
1人の女性客が空のケーキ皿とカップをのせたトレイを持って忠司のそばを通り過ぎた。その刹那、忠司の背中に戦慄が走る。
——————見られたかもしれない!
全身の血の気が引いて、サッと体温が一斉に下がった感覚に囚われる。忠司はその女性の後ろ姿を凝視する。もし何か悟られたとしたら、こちらに不審な目線を送るはずだと思ったからだ。しかし、その女性はトレイを返却口へ返すとそのままスタスタと店を後にした。
フゥ……
安心すると冷たい血に、引いた体温が一気に戻り、汗が吹き出した。忠司は熱いコーヒーを飲む気がせず、冷水の入ったガラスコップを手にして一口飲んだ。そして目の前に置いた不釣り合いなほどでかいリュックに目をやった。
ちょうどその頃、店内ではエンヤの『Watermark』という優しいBGMが流れていた。
忠司は何の気なしに財布から千円札を取り出すと、目立つようにリュックの上に載せて席を立ってトイレに行った。
トイレに入り、ドアを閉めると忠司はじっと大きな鏡に映る自身の虚像を見つめていた。忠司は顔を両手で覆い考え込んでいた。
——————もし、トイレから戻った時、千円札がなくなっていたらコーヒーを飲んで帰ろう
この日本のカフェでトイレに立っているとはいえ、他人のテーブルに置いた千円を盗む奴がいるとは思えない。この客の少なさ、設置されている監視カメラのことを考慮すると、たかが千円札を盗むにはハイリスクすぎる。店の中には日本人しかいなかった。
日本人はこの状況では盗まない。だがもし盗まれていたとしたら、それはある意味奇跡かもしれない。
その奇跡はおぞましい安定的ルーチンワーク社会の日本に突如降り注いだ鬼雨のようなもの。突然の鬼雨はビニール傘や折り畳み傘の細い骨を砕き、全身ずぶ濡れの帰宅難民を生んだ。いつも型にハマっていないと安心できない日本人が自然に太刀打ちできずに崩壊する様は忠司にとって気分の良いものであった。
そんな奇跡が今起こるとしたら、これから先、自身の人生も何か希望を持てるかもしれない。千円札を盗まれることで。
いや、そうではない。
忠司はあの千円札でこれから先の人生の幸運を買うのだと奇妙な結論に至っていた。鏡に映る虚像が死神にさえ見えて、忠司の背中にゾッとする戦慄が走った。その時、トイレのドアが鳴る。
コンコン……
いつの間にか、トイレに長居していた。このままトイレから出ては待っている人に、「おいおい水も流さないのか」と不快な思いをさせるだろう。そう思って忠司はトイレの流しのレバーハンドルを「大」の方へ回して水を流した。そして通常、流してから身なりを整える時間があってドアが開くことを考えると、それにコーヒーを楽しむ他のお客さんに汚物を流す音を聴かせるべきでもない。そう思って忠司は少し間を置いて、一息入れて外へ出た。
すぐにでも自席に千円札があるか、確認したい。しかしあれば、奇跡が起きなければ、計画を実行する以外ない。千円札があれば、もう引き返せない。自分はやるしかない。しかし、どうしても直視することができなかった。
忠司はまるで何か落とし物でも探しているかのように下を向きながら自席に戻った。
そしてゆっくりとリュックをみた。
「あっ!」
その刹那、声が漏れる。なんと千円札はそこになかった。
「う、うそ……」
呆然と今起きている奇跡を眺めていた。そしてハッとして内ポケットの携帯を取り出し、素早くロックを解除する。すると、カウントダウンは残り20分となっていた。
もう一度、リュックを見てもそこに千円札はなかった。
安心するように忠司の頬が緩み、全身の力が抜けてソファーに身を沈めた。そして忠司はカウントダウンを止めようと右手の人差し指でストップボタンを押下しようとした時だった。
小さな白い手がスッと忠司の視界に割り込んできた。その手に千円札が握られていた。忠司の表情から安堵の色がサッと消える。
「お兄ちゃん! さっきトイレに行ったでしょ? その時、風でこの千円が飛んじゃったんだよ。雅美、ちゃんと見てたよ!はい!どうぞ!」
小学校一年生か、元気の良い女の子だった。その女の子の後方にその子の母親らしい女性がこちらを見て笑顔で会釈する。
その子は、興醒めした無表情の忠司を怖がるどころか、闇を照らす仄かな希望の光そのもののような可愛い笑顔を見せてくれた。
しかし、今の忠司には、浅はかさを嘲る不愉快な視線を送りながら、口の端に軽蔑な笑みを浮かべて千円札を差し出す小悪魔にしか見えなかった。そして、漆黒のベールを無理やり覆い被せられ、その先の景色が何も見えなくなってしまったかのような絶望感に打ちひしがれていた。
千円札を見てここまで恐怖に陥るとは思いもしなかった。ガクガクと震える手で千円札を受け取ろうとした時、ふと変な考えが浮かんできた。
——————もし、ここでバァーッとか言いながら、吸血鬼が血を求めるような、化け物が襲いかかるような仕草を見せれば、この女の子は驚いて泣きながら母親のところへ帰るだろう。そうなれば、コーヒーを飲んで帰ろう
だいぶ、計画中止のハードルは低くなったが、おそらくこれは確実に違いない。そう思うと不思議と震えていた手は止まり、凍りついた表情に温度感が戻る。ややイタズラっぽい色を滲ませていた。
「雅美ちゃんっていうの? ありがとね!」
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
忠司はなぜか唐突に謝られたために、硬直してしまう。
「え?」
——————あっ!
その時、雅美はテーブルに千円札をパッと置くと、走ってさっさと母親の方へ戻ってしまった。
それはあまりにも一瞬で普段やらないことをやろうとしたことと、思いもよらない意味不明な謝罪の言葉に忠司の動作がだいぶ遅かったためにタイミングを逸した。
そして女の子とその母親はトレイを持って立ち上がり、返却口の方へ歩いて行った。雅美は忠司に笑顔で手を振っていた。
忠司はもう逃れられないと悟り、呆れ顔になりながら、小悪魔に手をふり返した。偶然とは思えなかった。ここで計画したことを遂行することこそ、自分の運命だと忠司は何者かに悟らされているとしか思えなかった……
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