おひめさま

たちばな

おひめさま

「先輩って、筋肉すごいですねえ」

 あたしの右腕に左腕を絡めた姫川が、ぼんやりと言った。「急に何だ」と横を向くと、姫川はえへ、と笑う。

「今、思ったんです。運動してる人の腕だ、って」

 そう言いつつ姫川は首を傾けて、頭をあたしの肩に押しつける。

「姫川、暑いからやめろ」

「ええー。もう、先輩は恥ずかしがり屋さんですね」

 恥ずかしいわけではない。ただ、ちょっと慣れてないだけだ。でもそれは言わずに、姫川の手を握る。

 姫川は握り返してくれた。信号に引っかかってしまったので、足を止める。向こうの夕日を眺めながら、姫川は続ける。

「……先輩、筋トレしてるんですか?」

「まあ、腹筋とか腕とかはな」

「良いですね、それ。痩せます?」

「……姫川。またダイエットしようとしてるのか?」

 あたしが尋ねると、姫川はうっと言葉を詰まらせた。

「……さ、最近……。先輩といっぱいデートしていっぱい食べたから、お腹まわりが怪しくて……」

「でも無理なダイエットはやめろ。姫川は痩せてるだろ」

「うう、先輩はそう言いますけどね……」

 姫川が唸ったところで、ちょうど信号が青になった。軽く手を引くと、あたしにつられて姫川も歩き出す。

「あたし結構重いんですよ、体重」

「へえ。何キロ?」

「いっ、言いません! もう、先輩ってば」

「ごめんごめん、冗談だ」

 本気で慌てた顔に思わず吹き出せば、ぽこぽこと肩を叩かれる。ごめんごめん、と重ねると、ようやく姫川は静かになって前を向いた。

「……ねえ、先輩」

「ん?」

「あたし、結構重いです。筋肉も全然ないし」

「お、おお……」

「腕だってぷにぷにしてるし、足だって細くないし」

 突然何を言い出すんだ。

 というか、姫川に筋肉がほぼないのは知っている。今触れている白い腕だってもちもちで、すべすべしている。もう、分かってるんだけど。

 姫川の家の方へ、角を曲がる。夕日が射してオレンジっぽく染まった住宅街は、人の気配がない。

 そこで、姫川が足を止めた。

「姫川?」

「先輩。あたし、夢があってですね」

 あたしの側から少し離れた姫川が、顔を上げる。控えめにあたしの顔を覗き込む。照れているのか、上目遣いになった目は潤んで見えた。

「あたし、……お姫様抱っこ、されてみたいんです」

「お姫様、抱っこ」

 あたしがおうむ返しすると、姫川はこくんと頷く。お姫様抱っこって、あれか?

「されたい、のか」

「っ、はい……。現実では見たことないけど、気になっちゃって……」

 姫川は頬を両手で挟んで、ひゃあ言っちゃった、と呟いている。顔が夕日くらい真っ赤だ。

「あたし重いですけど……でも、先輩に、やってもらいたいな、って……」

「あたしに? あたしで良いのか?」

「せ、先輩じゃなきゃダメ! だってあたし、恋人にやってもらいたいんですもん!!」

 恋人。確かに、あたしと姫川は恋人。でも、今更な響きを改めて聞くと、気恥ずかしい。姫川も同じだったようで、元々丸い目がさらに真ん丸に見開かれていく。

「あああ、やっぱり何でもないです! わ、忘れてください!」

 もう帰ります、と勢いだけで言った姫川があたしの手を離す。さらさらの黒髪の隙間から見えた耳までもが、真っ赤だった。

「待て、姫川!」

 その手を、あたしは掴んだ。急いで走って、姫川が痛くないように肩を掴む。

「家まで、あとちょっとだろ。誰もいないし、する」

「へ……ここでですかぁ」

 姫川が口元を覆った。信じられない、と言いたげだ。あたしもそうだ。まさかあたしが、恋人にお姫様抱っこをする日が来るなんて。

「姫川。良いな? 行くぞ」

「なっ、うそ、先輩、ホントに……」

 片手を姫川の膝の裏。もう片方は、ちゃんと背中を支える。

 大丈夫、いける。

「せーのっ」

「わ……!?」

 案外、姫川の体は軽かった。すぐに持ち上がってくれた。一度胸の辺りまで上げてから、しっかり抱けるように体制を整える。

「せ、せんぱ、ホントにやっちゃった……」

「ほら、ちゃんとあたしに掴まれ。帰るぞ」

「はい……」

 姫川の腕が、あたしの首にまわされる。運ぶのはさすがにきついかと思ったが、意外にもいけるものだ。鍛えておいて良かったな。

「なんか、照れちゃいますね。……」

「そ、そうだな……」

 ……姫川との距離が近い。シャンプーの良い匂いがする。ああ何だ、急に緊張してきた。どうしよう。あたしは、大丈夫だろうか。汗の匂いとかしないだろうか。早く姫川を送り届けようとは思うけど、落としたらどうしようと思うと怖くていつものように進めない。

「……姫川、ゆっくり行くからな……」

「は、はい……」

 姫川は姫川で、憧れのお姫様抱っこを喜んでいるのだろうか。喜んでくれたら、嬉しいが……。

「……先輩って、筋肉すごいですねぇ……」

 ことり、と姫川があたしの肩に頭をくっつける。真っ赤に染まった顔の中で、口角は確かに上がっていた。

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おひめさま たちばな @tachibana-rituka

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