その木の下で

 梅子と別れてから数週間後。あの濃密な一日のことがようやく思い出に変わりはじめていた僕は、とうとう新学期を迎えていた。


 この時期特有の春風にのった桜の香りを玄関先で吸い込み、僕は学校へ向かって歩き出す。


「今日から二年生、か。僕も先輩になるんだし、そろそろシャッキリしなくちゃな」


 そう言いつつも数日前までの自分を思い出し、思わず嘆息してしまう。


 実は梅子と別れてからの数日間、僕は抜け殻のようになっていたのだ。


 それは喪失感とでも言うのだろうか。

 何も出来ず、考えられず。ただぼうっとした日々を過ごしていた。


 けれど、仕方がないことだったのだと思う。たった一日のあの出来事が、僕にとってはとても大きな事だったのだから。


 そう。何かが変わるきっかけになるような、そんな大事件だ。


 家を出てからしばらく行くと、いつものあの梅屋敷が見えてきた。すでに梅の花は散り、青々とした葉が生い茂っている。


 また来年も、綺麗な花を咲かせてくれよ。

 そんなことを心のうちで呟きながら、僕は梅屋敷を通り過ぎた。


「梅子嬢はあれからどうなったんだろうな」


 そう独りごちると同時に、彼女の顔が頭をよぎった。


 淡雪のように白い肌。薄紅色の頬。黒くて大きな瞳。たまに見せる子供っぽい笑み。


 彼女は今、好きなことを頑張れているだろうか。またどこかで逃げ出してはいないだろうか。


 いいや――とかぶりを振って、彼女が見せてくれたあの笑みを思い出す。


 日本舞踊が大好きだと語った彼女のあの時の顔を。


「うん、そうだよな。きっと大丈夫だよな、梅子嬢ならさ」


 僕も、彼女のように何か打ち込めるもの、好きだと本気で思えるものに出会えるのだろうか。今はまだ、すぐに見つからなかったとしても――。


 そんなことを考えているうちに、僕は校門の前まで来ていた。


 ここまではそれなりに距離があったはずなのだが、どうやらその距離を感じないほどに深く考え込んでいたらしい。


 校門を潜ると、校舎までの間に続く桜並木が目に入る。


 新学期の始まりを歓迎するかのように立ち並ぶ桜の木々には、四月の二週目にも関わらずまだ花弁が散らずに残っていた。今年は特に寒い冬で、桜の開花が遅れたからだろう。


 僕は足を止め、目の前にある一本の桜の木をつと仰ぐ。


「『世の中は 桜の花に なりにけり』良寛」


 春休みの部活で先輩が教えてくれた一句だ。

 意味は、なんだったかな。寂しい意味があると先輩は言っていた。


「……せっかく俳句部に入っているのに、今のままで僕はいいのか」


 彼女の言葉を聞いて、僕も同じようになりたいと思ったあの気持ちは嘘だったのだろうか。


「いや。あれは、嘘じゃなかったはずだ」


 だって、今でもはっきりとあの感じたものを思い出せるのだから。


 そして今の僕が身近でやれること、それはきっと俳句部の活動なのかもしれない。


 部員数も先輩と僕の二人きり。このままでは廃部の危機だ。部員募集も活動自体も今後は活発にして、それで――


 いつかまた彼女に会えた時、僕も好きなものを見つけたよと胸を張れるようになれたらいいな。


「でも、頑張れるかな。今さらになるけれど」


 そんな悲哀をまとわせた言葉を呟きながら、深いため息を漏らす。


「あら、なんだか随分と深いため息ですね?」


 聞き覚えのある女の子の声に、僕はハッとした。そして、ゆっくりと振り返ると――。


「お久しぶりですね、鈴木君」


 同じ中学のセーラー服を着て、胸の辺りまである黒い髪を風になびかせながら、彼女はそう言って微笑んだ。


「え、梅子嬢!?」


「いえ、違います。今回は桜の木ですか……それでは、桜子とでも名乗りましょう」


「またそれかよ」と僕は吹き出す。


「その節はご迷惑をおかけしてすみませんでした」


 梅子は深々と頭を下げる。


「いいよ、もう。僕は気にしていないから」


「それはよかった」とホッとした顔をしてから、梅子はまた微笑んだ。


 たしかに気にはしていなかったが、しかし気になってはいた。


 やはりあの濃厚な一日は、僕にとってとても意味のある大事な一日だったのだから。


 それから梅子はいたずらっぽい笑みを浮かべて言う。


「あの……また、かくまってもらえませんか? 今度の週末、あのショッピングモールへ行きましょう。クレープが待っています」


「まったく、梅子嬢は相変わらず呑気だな」


 また稽古をサボる気か? この間、改心したと思ったのにな。

 それに、僕だってこれから部活が忙しくなるかもしれないのに。


 そんなことを思いながらも、僕は内心嬉しいかったのだろう。口角がしっかりと上がっているのを感じた。


「わかった。僕はどこまででもお供しますよ、梅子嬢」


「ありがとうございます、鈴木君」


 梅子は初めてあった時のように薄紅色に頬を染め、微笑んだ。


 それからあたたかな一陣の風が吹くと、桜の木は揺さぶられて、笑うようにサワサワと音を立てる。


 もしかしたら「お前はまた性懲りもなく」と、その木は言っているのかもしれない。


 それでもいいんだ、僕は。


 再び僕はその桜の木を仰ぎ見る。

 風に揺さぶられたせいか、花びらが吹雪のように舞い散っていた。


「もう、桜も終わりの時期ですね」


「そうだな」


 それから散りゆく桜の花びらを無言で見つめる梅子の横顔を、僕はそっと盗みみる。


 希望に満ちた彼女の瞳は、とても強くて美しかった。


「そろそろ行きましょうか。遅刻してしまいますよ」


「そうだな」


 梅子と共に歩き出した僕は、少し進んでから後方に顔だけ向ける。


 これでもう、なんてことのない日々を送っていた僕にはもう戻れないだろう。


 だって――その木の下で、僕らはまた出会ってしまったのだから。


 それはきっと、これから何かが始まる予感を孕んでいる。




(了)

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その木の下で、僕らは出会う。 しらす丼 @sirasuDON20201220

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