逃亡の末

 河川敷を駆けのぼった僕らは今、河川敷沿いの道にいた。


 もう、どれほど走っただろうか。

 梅子の手を掴んだまま、僕はあれからずっと走り続けている。


 少しずつ迫るように、空には紺色の波が押し寄せ、砂に埋もれるガラスの破片のように星々が小さく輝き始めていた。


「鈴木君、ありがとうございます!」


 梅子は息を切らしながら嬉しそうに言う。


「このまま駆け落ちとかしちゃいます?」


「それは、まだ、ちょっと」


 僕らはまだ中学生だ。そんな駆け落ちなんてこと、雲の上の出来事だろう。


「さっきはあんなにかっこよかったのに、なんだか急にいくじなしですね」


 梅子はからかうように言った。


「梅子嬢はそういうことばっか言うんだから」


「鈴木君といると楽しくって、つい」


 しかし、これからどうしたら良いだろうか。こうして逃げてきたけれど、やはり僕はまだなんの策も講じられていない。


「鈴木君。さっきの、嬉しかったですよ。今までの人生であったことの中でも、特別に嬉しかったです。だから、ありがとうございます。


 きっとこの先、私たちがどうなったとしても、その気持ちは変わらないと思います」


「そう思ってもらえるのなら、僕も嬉しいよ」


 鈴木君、と梅子は急に改まった口調で僕の名を呼んだ。そして、そのまま彼女は言葉を続ける。


「実は私、いろんなことから逃げていたんです。家族のことや自分の将来のこと。それと――自分の、好きなことから」


 それが問題の根本にあって、いま僕らはこうして逃げているということか。


 ほんの少し冷気を帯びた風が、全身を撫でるようにすり抜けていった。三月初旬といえど、まだ肌寒い。


「その話、きいてもいい?」


 思わず、僕はそう尋ねていた。


 根本の上にある問題について知る権利が、今回巻き込まれた僕に少しばかりはあると思ったからだった。


 しかしまあ、いささか無粋ではあるけれど。


 僕の問いに梅子は少しだけ間をおくと、「はい」と答え、訥々と語り始めた。


「好きなことって初めのうちは好きって気持ちだけで出来るじゃないですか。でも、長く続けていくうちにいつか壁にぶつかりますよね。


 どうしてこんなことをやっているのだろう。

 これ以上、私には無理なんじゃないか。とか。


 そういう時、何かを見つけて進める人と諦めて逃げてしまう人がいて、私は後者だったんです。


 大好きだったはずのに、怖くなって逃げ出して。いろんな人達の期待を私は裏切った」


 彼女は僕の知らないところで、大きな挫折と悩みを抱えていたということか。


 半日も共に過ごしていたのに、彼女が本当に逃げているものの正体に僕はまったく気がつけなかった。


 やはり僕はただの中学生で、女の子一人助けることもままならないということなのだろう。


 それから少しだけ沈黙があった後、梅子は再び口を開き、話を続けた。


「……でも、さっき鈴木くんが言ってくれましたね。諦めるなって。


 だから私、また向き合おうって思えました。諦めずにもがきながらも、何かを掴んで前へ進んでいきたいって。今、こうしているように。


鈴木くんのおかげです。ありがとうございます」


「僕は、そんな……」


 梅子からの思いがけない言葉に、僕は思わず狼狽える。


 そんな反応しかできない自分に少し情けなく思ったのだが、梅子の贈ってくれた言葉の暖かさにいつのまにか僕の顔は綻んでいた。


「でも。君の進むきっかけになれたのなら、僕も嬉しく思うよ」


「はい」


 なんてことない一日になるはずだったのに、梅子嬢のおかげでずいぶんと楽しくて刺激的な日になってしまったものだ。


 すべてはあの木の下で、君と出会ったから。


「――あれは」


 梅子の声で遠方に目を向けると、黒い車が道を塞いでいるのが見えた。


「もうこんなところにまで追手が?」


「そのようですね」


「後ろに逃げ――」


 振り返ると、背後にも黒い車がついていることに気づく。


 いつの間に。ハイブリッド車はこんなにも静かに走行するのか。


 そんな呑気なことを思っている暇なんてないことは分かっていたが、それくらい背後に迫っていることを気がつかなかったのだ。


 僕らは前方にある黒い車の前で足を止めた。するとそこからあの、着物の女性が出てくる。


 僕は庇うように梅子の前に立ち、着物の女性と対峙した。


「まったく。手間を取らせるんじゃないよ、モモ」


 呆れた声で着物の女性は言った。


「彼女は渡さないぞ!」


 意気軒昂に僕は告げた。


 すると、着物の女性は目を丸くして、僕の後ろの方に視線を向ける。


「モモ、あんたはこの坊やに何を吹き込んだのさ」


「かくまってほしい、とお願いしました」


 着物の女性は額に手を当て、大きくため息をつく。


「あんたって子は……稽古が嫌で逃げ出すために、人様の子を巻き込んで」


「え、稽古?」


「日本舞踊の稽古のことさ。まったく……ちょっと目を離した隙に、木をよじ登って抜け出すなんて。竜宮寺家のものとしての自覚を持ちなさいといつも言っているでしょう」


「すみません」


 梅子はしゅんとしながら答えた。


 日本舞踊? 竜宮寺家? なんの話だ?

 困惑していると、着物の女性は申し訳なさそう顔をこちらに向けた。


「ごめんなさいね、坊や。うちのモモが迷惑をかけてしまったみたいで」


「うちの、モモ?」


「はい、こちらは母で。竜宮寺もも、それが本当の私の名前です」


「梅子じゃないのか!?」


「まあ、梅子は源氏名のようなものだと思ってもらえれば」


「えっ? じゃあ、『ドラゴン』さんたちは?」


「ごめんなさい。それも全部ウソです」


「ウソ!?」


 そんなことにも気づかず、僕はずっと――。


 先ほど梅子の母に告げた言葉を思い出し、なんだか急に恥ずかしくなってきた。穴があったら今すぐにでも入りたいくらいだ。


「でも、誤解しないでください! 鈴木君が言ってくれた言葉に背中を押してもらえたのは本当です」


 その言葉に、つと彼女の顔を見つめる。

 ウソをついていた申し訳なさを感じているのか、彼女は心苦しそうな顔をしていた。


 もしかしたら、どこかで本当のことを打ち明けるつもりだったのかもしれない。


 そうか、河川敷。あの時に終わらせると言ったのはそういうことだったのか。


 打ち明けられなかったのは、僕があの場であんなことを言ってしまったからなのだろう。


 つまり、この状況は僕が自ら作り出したということか。そうだとすれば、少し彼女に対して申し訳なく思ってしまう。


「私、これからはちゃんとお稽古に向き合いたいと思いました。舞踊を極め、竜宮寺の名に恥じないようにと。


 一度は逃げ出してしまったけれど、それでも私は日本舞踊が大好きなんですよ」


 そう言い切った梅子の顔には今、微笑が浮かべられている。


「そっか。うん、頑張ってね梅子嬢」


 今までの言葉に多少のウソがあったのだとしても、今の言葉――日本舞踊が大好きだという想いはきっと本当のものなのだろう。


 僕はまだ本当に好きになれるほどのものに出会えたことはない。だから、そんな彼女が少し羨ましく、そして眩しく見えた。


「それじゃあ、坊や。うちの車に乗っていきなさい。家まで送っていくよ」


「あ、はい。よろしくお願いします」


 僕がそう返事をすると、竜宮寺家の黒い車に乗せてもらい、逃げてきた街へ戻っていくことに。


 その車中で、僕はあの梅屋敷のことを梅子たちから聞いていた。


 住んでいるのは梅子のお祖母さんで、たまに屋敷に来る梅子や梅子の従姉妹たちに日本舞踊の稽古をつけたりしているのだそうだ。


 そしてそのお祖母さんは、かつてかなり有名な日本舞踊家だったのだとか。


 梅子はそんなお祖母さんに憧れつつも、その才能の差を感じて不安になり、逃げ出してしまったということらしい。


「好きなのと、楽しいのとは違うのだと思うのです。好きだからこそ急に不安になるし、逃げたくもなる。


 馬鹿なことだって自分では分かっているのに、どうしてもその場を離れたいと思ってしまうものなのですよ」


 彼女の悩みに共感することは、今の僕には出来ない。けれど、その言葉の意味を理解することはたぶんできるのだと思う。


 無責任なことを安易には言えないけれど、でもこれだけは彼女に伝えておきたい。


「梅子嬢は梅子嬢のやりたいことをやればいい。頑張ればいい。でも、つらくなったらまた、僕がかくまってあげるからさ」


 ショッピングモールにでも、公園でも河川敷でも。彼女が望む場所ならどこまでも一緒に。


「――ありがとう、ございます。私、頑張りますね。それで、困ったらまた鈴木君を頼らせてください」


「もちろん」


「出会えたのが、あなたで良かった」


 そう梅子に微笑みかけられ、頬が急に熱くなる。思わず僕は、彼女から顔を逸らしていた。


「……大袈裟なんだから」


「やっぱり鈴木君はうぶですね」


「梅子嬢はすぐに揶揄う」


 それから梅子は小さく笑うと、こちらを見据えながら言う。


「鈴木君。いつかまた、お会いしましょう」


 僕は彼女の方を向いて「ああ」と頷いた。


 それから目的地に着くと僕は車を降り、梅子と別れた。


 それは、また明日ね! というくらいのあっけない別れだったと思う。


 もう彼女に会うことはないとわかっているのに。


「なんだか、いろんなことがあっという間だったな」


 こうして僕の濃い一日は、幕を閉じたのだった。

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