理由
目の前に流れる河川は水質があまりきれいではないのか、水底がまったく見えない。陽光に反射した水面には、キラキラと三角が揺らめいている。
梅子の追手から逃れた僕らは、橋の下にある河川敷で身を潜めていた。
隣に座っている梅子は、ジーンズパンツの上から膝をさすって眉間に皺を寄せている。
「足、大丈夫か?」
逃げてくる途中、梅子は足がもつれて派手に転んでしまったのである。
家に寄った時に履き物までは用意出来なかったため、梅子はずっと下駄のままだったのだ。そのせいで足がもつれ、彼女は転んでしまったらしい。
「大丈夫ですよ。ちょっとぶつけただけです」
梅子は笑顔でそう答えた。
ジーンズパンツを履いていたとはいえ、思い切りベッタリと倒れ込んだようすから察して、かなり痛そうだ。
スニーカーも貸してあげるべきだったかもしれない、と僕は若干の後悔をする。
「でも、本当に背負ってくれるなんて思いませんでした」
梅子はクスクスと笑った。
派手に転んだ梅子に駆け寄った僕は、なりふり構っておられずに彼女へ背を向け、その背に彼女を乗せると、この河川敷まで駆けてきたというわけだ。
「いや。ああいう時こそ、じゃないか? それに梅子嬢だけ置いて逃げるわけにもいかないだろ」
「ありがとうございます。重くなかったですか?」
「まあ、見た目通りかな」
そう答えると、梅子はぽかりと僕の腕を叩く。
「失礼なことを言う鈴木君にはおしおきです」
「悪かったって。でも、重いとは言っていないだろ?」
「それでもです!」
そう言って梅子は笑う。
「なあ。さっきの人たちは何者なんだ? なんで梅子嬢を捕まえようとする?」
「あの人たちは、私がいた屋敷に住まう者たちです。あの場に私をとどめ、恐ろしいことを強要するのです」
梅子は苦悶の表情でそう答える。
「恐ろしいこと、か……」
さっきも似たようなことを言っていたっけ。
あの梅屋敷ではいったい何が行われているんだ?
「耐えられなくなった私は命からがら、ということです」
「そうか」
近隣の誰もがあの屋敷の内情を知らない。もしかしたら、世間に公表できないようなことが行われているってことなのかもしれない。
着物の女性と庭師のような格好のおじいさん。
一見、まともそうに見えるあの人たちだけれど、世を忍ぶ仮の姿というわけか。
「なあ、あの人たちが言っていた『モモ』って?」
「ええっと……それは、暗号みたいなものです。閉じ込めている子供たちにつけるコードネームのような」
「コードネーム?」
「はい。フルーツ由来のものがほとんどで、私は『モモ』でしたが、他にも『りんご』や『ぶどう』、『ドラゴン』というのもありました」
「ド、ドラゴン?」
「ドラゴンフルーツですね!」と梅子は微笑む。
なぜそれだけちょっと捻ったのだろう。『いちご』や『レモン』でもよかったのではないか。
そんなことを思いつつ、つい苦笑いをしてしまう。
「まあ、梅子嬢が追われているのが本当だってのはわかった。けど、ますますどうするって感じだよなあ」
「本当に、どうしましょうねぇ」
梅子は呑気にそう言ってその場に寝転がる。
「本当、梅子嬢は呑気だな」
僕もその隣に寝転んだ。
「慌てても仕方がないですし。ここなら、しばらくは身を隠せそうですからね」
「そっか」
それから僕は小さくため息をつく。
今はこれでもいい。だが、これから先のことは何も考えていない。
追われているのが本当なのだとすれば、いつまでもここでのんびりとしているわけにもいかないだろう。
「とんだ休日になっちゃったなあ」
「そういえば、もうすぐ新学期ですね。鈴木君は何年生になるのです?」
「二年だよ。梅子嬢は?」
「私も二年生になります。同い年だったのですね! もっと年下かと」
「失礼なやつだなぁ」
「鈴木君も失礼なことを言ったのでおあいこです」
そう言って梅子は僕の方に顔を向けて微笑む。僕も彼女の方を見てから「それもそうだな」と答えた。
もしも――もしも、彼女が同じ中学にいたのなら、また四月からも一緒にいられたんだよな。
そんなことをふと思っていた。
しかし、それは無理だろう。彼女は追われる身で、本来この街にいるべき存在ではないのだから。
「鈴木君? どうかしました?」
どうやらぼうっと梅子の顔を見つめていたようで、彼女の声にハッとした僕は、急いで彼女と反対側に顔をそらした。
「なんでもないよ」
それから梅子は身体を起こして座り直すと、ぼうっと目の前の景色を眺めているようだった。
僕も身体を起こすと、梅子が見ている先を見据えた。
少しずつ日が沈み始め、先程まで青々としていた空は少しずつ白んできている。夜が顔を覗かせ始めているのだ。
「梅子嬢はさ、これからどうしたい?」
「……どうしましょうね」
梅子はじっと前を見据えたまま答えた。
その少しだけ哀切の入り交じった声に、僕もしんみりとした気持ちになる。
「家族が帰ってくるまでだったら、僕の家にいてもいいよ」
たぶん僕は、まだ彼女と一緒にいたいと思ったのだろう。自然とそう告げていた。
すると梅子はゆるゆると頭を振る。
「いえ、もういいんです。私は十分楽しめましたから」
梅子はそう言って僕の方を見て微笑んだ。
「いいって?」
「もう、お終いにしましょう。あまり鈴木君にご迷惑をおかけするわけにもいきません」
「僕は平気だよ。それに、両親にだって理由を説明すれば分かってくれるだろうし、警察とかに助けを求めることだって――」
梅子は微笑んだまま、何も言わずに僕を見つめていた。それが答えなのだろう。
彼女の大きな黒目には、有無を言わさない力があった。その瞳にそれ以上、何かを言うことは出来なかった。
「『モモ』さーん! どこに隠れているんですかーい!!」
遠くの方から男の声がした。先ほどの袢纏を着ていた老いた男性だろうと僕は察した。
それは梅子も同じだったようで梅子は静かに立ち上がり、声の方へと向かって歩く。
「借りた洋服は必ずお返ししますね。それでは、さようなら鈴木君」
一度足を止めた梅子はこちらを振り向かずにそう告げて、再び歩き出した。
ああ、終わったんだ。これでよかったんだよ、きっと。それに僕が一人で女の子を助けるなんてこと、できるわけがなかったんだ。だって僕はただの中学生なんだから。
去っていく梅子の背中を見つめながら、そんな言い訳じみたことを思う。
仕方がない。無理だった。会うこともない人間に、そこまで情をかけることもない。
そう言い聞かせ、僕は梅子から顔を背けようとした。でも、できなかった。
僕は立ち上がり、梅子を追う。
そして追いついた彼女の腕を掴んで、言った。
「諦めるなよ! まだなんとかなるって!! 僕が必ず隠し通すから!!」
「え、でも」
「ほら、逃げるぞ!」
僕は梅子の手を引き、男の声のする方とは反対側に走り出した。
逃げるところにアテなんてない。けれど、まだ諦めたくはない。僕は彼女を助けたいんだ――。
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