筋肉戦争

ここのえ九護

その日、人体は戦乱の炎に包まれた


 その日、〝筋肉による平和パックス・マスキュロー〟と呼ばれる平穏の時代が続く人体世界に、戦乱の火の手が上がった。


「肛門括約筋が反乱を起こしただと!?」

「はっ! たった今神経系から連絡がありました。肛門括約筋は、もはや我々頭脳からの指示には従わぬと!」

「馬鹿な……一体なにが不満だったというのだ!?」


 肛門括約筋の反乱。

 数十年にわたる平和を謳歌していた人体世界にとって、それはまさに青天の霹靂。

 報せを受けた人体世界の王である頭脳は、すぐさま周辺各筋肉でも精強で謳われる大臀筋に乱の鎮圧を命じた。


「たかが肛門括約筋一つに何ができる! 奴らの周囲には、我ら人体が誇る無敵の〝大臀筋伯〟を配しておったのだ! 大臀筋伯に命じろ、今すぐ肛門括約筋の首を我が前に持ってこいとな!」

「御意!」


 こうして、頭脳の命を受けた大臀筋伯は、すぐさま肛門括約筋の鎮圧へと向かった。


 筋肉の強さとは、即ちその筋肉が保有する筋肉領土の巨大さと精強さで決まる。

 大臀筋伯が保有する筋肉領土は、肛門括約筋の数十倍の版図を誇る。

 人体各部が稼働するために避けては通れぬ大臀筋伯の筋肉領土は、各地への貿易交通の基点。ゆえに保有する筋繊維騎士団の精強さも随一。


 肛門括約筋と大臀筋伯の〝筋肉力きんにくぢから〟には、決して埋めることのできない圧倒的な差があった。

 この時はまだ、人体世界の誰しもが大臀筋伯の勝利と、肛門括約筋の無様な敗北を信じていたのだ。しかし――


「報告します! 大臀筋伯が敗北! 繰り返します、大臀筋伯が肛門括約筋に敗北したと!」

「な、なん……だと……!? それで、大臀筋伯はどうなった!?」

「それが……神経系の必死の捜索にもかかわらず、未だ生死不明と……」

「信じられん……! あの大臀筋伯が、肛門括約筋に敗れるとは……!」


 紛う事なき歴戦の大筋肉、大臀筋伯の敗北。

 その報せは瞬く間に人体全土を駆け巡り、各地の筋肉にこの反乱が、ただの気まぐれや些事ではないことをまざまざと見せつけたのだ。


「大臀筋伯が敗れたとあっては、もはや肛門括約筋を倒せる筋肉伯は限られます。いかがいたしましょう!?」

「ぬぅぅ! まだだ、まだ我が人体には最強のあの筋肉がいる! 〝大腿四頭筋伯〟に伝達! どんな手を使っても構わぬ、必ずや肛門括約筋を血祭りに上げよと!」

「だ、大腿四頭筋伯にですか!? しかし、すでに大臀筋伯を失い、肛門括約筋も裏切った今、大腿四頭筋伯にまで万が一のことが起これば、我ら人体世界は……!」

「黙れ黙れ! 肛門括約筋ごときに、我ら最強の大腿四頭筋伯が負けるはずがない! どのみち、このまま肛門括約筋を野放しにしていては、我ら人体も〝色々とお終い〟なのだ! 急ぎ大腿四頭筋伯に討伐を命じよ!」


 大臀筋伯の敗北を知った頭脳の額に大粒の汗が浮かび、その表情に焦りと恐怖の色が浮かぶ。


 古来より、肛門括約筋は人体世界の暗部――負の側面を一手に引き受けてきた影なる筋肉。

 肛門括約筋がその任を放棄し、周囲の筋肉伯に牙を剥いたと言うことは、このままでは人体の暗部に隠された〝恐るべき魑魅魍魎〟が世に解き放たれることを意味していた。


「それだけは避けなくては……! そうなってしまえば、なにもかも終わりだ!」


 こうして、半ば悲鳴にも似た頭脳の指示が大腿四頭筋伯の元へと下る。

 人体最強。保有する筋肉領土、そして筋繊維騎士団の精強さ。そのどちらにおいても並ぶものなき最強の筋肉――大腿四頭筋伯が、肛門括約筋討伐へと軍を進めた。


「来たか、大腿四頭筋伯」

「久しいな肛門括約筋。お前が反乱を起こしたと聞いた時には我が耳を疑ったぞ。どういう風の吹き回しだ?」


 肛門括約筋と大腿四頭筋。

 片や汚れた人体の暗部を担う筋肉。

 片や人体最強の誉れ高い、最強の筋肉。

 すでに屍となった大臀筋伯を挟んで対峙した両者は、まるで久しぶりに再会した旧友に語りかけるような様子で言葉を交わす。


「いい加減嫌になったんだよ。俺たちが日々何度も汚れ役を必死でこなしてるってのに、この世界は俺たちのことを何も考えやしない。一日中座りっぱなしで血行を悪化させ、力任せにごしごしと俺たちを拭いてくる……だがだからといって、ウォシュレットの使いすぎも駄目だ。ウォシュレットの強烈な濁流で、俺たち本来の肥沃な土地はとうに干からびちまった……」

「肛門括約筋……お前……」

「お前にはわからないだろうさ。どんな媒体でも〝一番大切な筋肉〟、〝真っ先に鍛えるべき筋肉〟と書かれ、人体から大切に育てられてきたお前たち大腿四頭筋には、俺たち肛門括約筋の気持ちなんてわからないッ!」


 大腿四頭筋伯の耳に、肛門括約筋の悲痛な叫びが木霊する。

 その叫びには、ただ怒りだけがあった。

 自らを虐げ、酷使ししてきた人体全てへの怒りと憎悪。

 懸命に働き続けたにもかかわらず、何一つ報われることのなかった無念。

 全ての負の感情が、肛門括約筋の周囲に渦巻いていた。


「もう誰にも俺は止められない。いや……俺だけじゃない。俺たちが必死に押さえ込んでいたこの世界の闇……そいつを全て解き放ち、この世界に終焉をもたらす! それが今の俺の望み……俺の復讐だッ!」

「待て肛門括約筋! たしかに、俺にお前たちの苦しみを理解することはできないかもしれない! だが、これからは俺もお前たちに協力する! その闇を抑える苦しみは、お前たち肛門括約筋と領土を接する俺たちにも負担できるはずだ! だから――!」


 肛門括約筋の絶望を聞いた大腿四頭筋伯が声を上げる。

 それは、祈りにも似た説得だった。

 まだやりなおせると。すでに大臀筋伯が倒れた今でも、まだ自分が肛門括約筋の支えになれるはずだと、そう訴えたのだ。しかし――


「ごめんな……大腿四頭筋伯。もうなにもかも遅いんだ。たとえ俺たちがここで立ち止まっても、〝あいつら〟はもう止まれない――」

「こ、これは!?」

「じゃあな、みんな。どいつもこいつも、この闇に食われて消えちまいな!」


 闇。


 肛門括約筋の周囲に渦巻いていた闇を抜け、人体全てが恐怖する〝ソレ〟が、大腿四頭筋伯の前に姿を現わす。

 そして、大腿四頭筋伯が認識できたのはそこまでだった。

 次の瞬間、濁流のように質量を増したソレは肛門括約筋と大腿四頭筋伯を一瞬にして飲み込み、大臀筋の屍すら押し流して、何もかもを漆黒の闇に染めた――。


 こうして、肛門括約筋の反乱から始まった戦乱は、人体世界そのものの崩壊という形で幕を下ろした。


 ある日。

 あるとき。

 ある世界の片隅で。


 肛門括約筋を虐げ続けた人体が、また一つ社会から消えた。

 願わくばこの愚かな犠牲が、次なる犠牲者を出さぬ一助とならんことを――。

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