イブドア

Aiinegruth

第1話


 ――激突の衝撃は収まった。視界を覆う暗い肉の洞窟のなかで、深島吾郎ふかしま ごろうはボンベの酸素を吸い込んだ。右手側、四○メートルの水底を映していた侵入孔が閉じたのを確認すると、代わりにヘルメットのライトを照らして、接操骨翅イブドアに送電する。二〇代後半の男の背から伸び、その身体を覆っていた突入用の鉄筋が拡がる。開ける視界。展開された金属の肋骨からバチンと発生した膜帯電まくたいでんが青いオーロラのように閃くと、世界が鳴動し、ぎゅっと両脇の肉の壁が狭まる。AフィラメントとIフィラメントが滑り込んだ。一八メートル後方の尾鰭おひれの動きに揺れる身体。――筋収縮だ、動ける。

 超巨大な海洋生物群の発生と地殻変動により、中四国地方がまとめて海底の仲間入りを果たしたのは、一五年前の話だ。本州最西端の兵庫と九州地方を繋ぐ海運は壊滅したが、航空機は増便され、船舶強化計画は国家主導で直ぐに進められた。アメリカから視察に来ていた女性の海洋学者が生み出した巨魚に乗る扉を開くイブドア技術は、非合法の金稼ぎの手段となった。政府が魚類の研究データを取るために支援を行っているのを、報道番組は秘密にしている。

 そういうわけで、海渡うみわたしに、新入りはいない。一〇年前、海伐船かいばつせんが旧瀬戸内海を制してから、弾丸のように孔を空けて巨魚のなかに潜り込み、その筋力で以て物品を運送する仕事はほぼ需要を失った。体長一八メートルの硬骨魚の背主動脈の上に位置取った壮年の男は、両脇の血合いの結合組織層の脈動を見ながら、汚れ防止の袋に入った鞄を抱える。深島ふかしまは思う。正規の運送にはまだ限りがある。兵庫から福岡まで、片道五〇〇キロメートル。よく泳げる個体さえ捕まえれば片道三時間ちょっとで五万円稼げるこの仕事は、空き缶を拾ったり靴を磨いたりするより自分の生き方に合っていた。今日は記念すべき、政府直々の最後の届け物をする日だった。


 ・・・・・・


 悲しいときは歌うもんだ。


 本当は音楽家になりたかった。体育館よりもっと広いステージで歌いたくて、バイトで稼いだ金だけを手に、春、高校の仲間たちと東京に出た。その二週間後に中国地方が水没を始めた。プレートや岩盤を考えても有り得ない天変地異だった。二年後の夏、旧香川県沖で全長二〇メートルを超える魚が見つかったというニュースが広まったころには、その四国も北部の海岸線を残すだけになった。父と母と妹が死んだ。

 バンドどころではなかった。正規のものはもちろん、生きるためにできるはずの盗みも、殺しも、あてがなかった。やっと見つけられた仕事は、ふざけた運送のそれだった。始原の扉イブドアの前で立ち止まってはいけない。それが、海渡うみわたしたちの口癖だ。しばしば、彼らの故郷は渡る水のなかにあった。巨魚の体内で数時間も進む仕事は、孤独で、しばしば気が狂う。脳内に赤い扉が想起される。向こうに、亡くなった大切なひとがいるような幻想に襲われる。そういうときに電気信号を止めて、速度を落とすと、たちまちほかのより大きな海洋生物の餌食になる。

「――っつぁ、ぷっ」

 東京で一発当てるはずが、海の藻屑になった何人ものバンド仲間の扉を振り切った彼は、門司の海岸線に打ち上げられていた。体長一八メートルもあった魚は、胸鰭むなびれまでが後ろから食い千切られて隣に転がっている。平均よりずっと大きく力のある個体を選んでこれだ。あと少しでも電気信号を弱めていたら、自分の足も持っていかれていた。影が太陽を隠す。巨大な海蛇が鎌首をもたげながら砂浜を睥睨して去っていくのを、声をガラガラにした深島ふかしまはぼんやりとみていた。

「おつかれさま」

 血肉に塗れた服を申し訳程度に洗って届け主を探す準備を整えたところで、瑞々しい声がかけられる。流暢な日本語。背後の砂浜に立っていたのは、上半身裸で、透き通るような白い肌をさらした青年だった。背は一八〇センチある深島ふかしまより一回り以上小さい。輝く長い銀の髪と、翡翠色の瞳。まるで、神秘の世界から降りてきたような有り様に、凡庸な二○代はおし黙った。指定された住所ではないものの、次の行動のために、荷物の届け先が彼だということは直ぐに分かった。青年は、拳銃を大男に突き付けて言う。

「アダム・アーキアルマだ。荷物をそこに置いて」

 鞄を指示通り海岸の岩の上に置くと、青年は一歩ずつ近づいてくる。その三歩目で、深島ふかしまが動いた。跳ねる銃弾一発が腹部をかすめるのを気にも留めず、彼は青年の肩に掴みかかり、地面に押し倒した。砂塵が舞う。深島ふかしまが手元の接操骨翅イブドアの一本を槍のように白い首元に突き付けると、青年は興味深そうに視線を向けた。

「お前のその足を治すために、アメリカで筋肥大の研究が行われた。日本での実験中に魚種の変異個体が生まれ、海に逃げられた。そいつらは岩盤を食って巨大化し、数年かけて中四国を海に沈めた、これが聞いている話だ」

「正解。やっぱ気付いていたね。海渡うみわたしは巨魚調査のデータ回収にはなるけど、どこかで秘密を掴むだろうってことだった。だから、仕事はそこそこに引き上げさせて、遠隔の電気信号で一人ひとりの記憶を消すんだって母さんが言ってた。電気信号のプロが仲間にいるんだって」

 やはりかと思った途端、波音を割る音がする。いつのまにかそこまで遠くない沖合につけていた海伐船かいばつせんから、科学者の一団が見下ろしてくる。彼らのリーダーだろう男性が、手元のスイッチを操作する。ああ、Silver Stage――地下ステージでも一度も歌うことのなかった男ばかりの自分たちのグループ――お前らの調べた情報通りだったよ。ボーカルの深島ふかしまは納得して、岩の上に置いた荷物を見た。海上の男たちの視線も、そこに集まっている。

 張り裂ける閃光と轟音。打ち上げられた直後に海に投げこんでいたから、深島ふかしまが運んできた鞄に入れられていた小型の爆弾は、船底付近で炸裂して、鉄の巨影を激しく揺らした。混乱に満ちたデッキから声がする。――作戦を変更する、どちらも銃殺しろ!!

 え? 困惑を顔に浮かべる青年の手を掴んで、駆けた。ざらざらの喉で言う。

「お前の母親は死んでるよ。海渡うみわたしも、オレ以外全員海で死んでる。電気信号のプロと政府が乗っ取ったんだ。お前とオレを殺すための最後の運搬計画を知らせてくれたのが、イブ博士だ。嘘じゃねえって分かったのはいまだがな」

 銃声が響く。一発はくれてやったが、思ったより鋼鉄の海伐船かいばつせんは硬かったし、隙がなかった。荷物を取りによる余裕もなく、海に一直線に走る。こんなカス共に殺されるよりは、哀れな怪物のエサになったほうが多少はマシだ。深島ふかしまが思った途端、真横から声がする。

「片足あげる、逃げて」

 背負わされたのは、アダムの右の義足になっていた接操骨翅イブドアだった。こんなに走ったことがなかったのだろう。疲弊しきった銀髪の青年が水面に倒れる前に、深島ふかしまは仰向けに滑り込んで腰から伸びる八本の金属枝きんぞくしで彼を包んだ。そして、呼吸のためにそのまま唇同士を合わせると、姿勢をねじって、電子を弾けさせ、数十メートル先の獲物を突き刺す。

 かくして、寄生者は迎え入れられる。頭部に孔の開いた巨大なエイは、自分の倍――六〇メートル――ほどの大きさの船の艦橋を尾の一振りで輪切りにすると、爆発的な水飛沫を上げて海に戻った。銃撃のためにセキュリティーを落としていたのが仇になった。狙って二階の制御室にある防護隔壁装置を破壊すれば、あとは海洋生物の餌食だ。遠ざかる悲鳴。深島ふかしまが小型ライトを灯すと、戸惑いの声が響いた。腕のなかからだ。美しい銀髪が胸元をくすぐり、不安に歪んだ顔と目が合う。

「お兄さん、これからどうするの」

 接操骨翅イブドアは、魚体の運動によるあらゆる衝撃を吸収する。予備も含めて身から離していなかった二つの小型酸素ボンベが役に立った。魚の体内。収縮に、刷り込まれるフィラメント。青く、オーロラのように揺らめく膜帯電が天地に満ち、血色の壁に覆われたセカイ。一〇〇ノットで前進する筋肉のうねりを切り開いた場所で、二人は言葉を繋ぐ。

「逃げるに決まってんだろ、オレたちゃもう人殺しだぞ」

「逃げるって何処に」

「何処にでもだ。海は広いな、大きいなってな」

「えっ」

「悲しいときには歌うもんだ」

「そうなの、――うん、うん」

 全ては、筋肉が電気刺激で動くところから始まった。金属の肋骨、始原の扉イブドアから漏れだした小さな歌声は、心も身体も、あらゆるものを揺らして、母なる海に溶けていく。

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