肌寒い先輩の部屋で、私は恋を知る。

「すごいですね、ドンピシャです」


 私は素直に驚く。


「でしょー?ちょっとは日和ちゃんのこと見てるんだから」


 ——私を見て…か。


 そう言う先輩はどこか悲しげに笑っている。


 何となく姿勢を正さないような雰囲気を感じ、背中が伸びる。

 先輩の方をよく見ると、先ほどに比べて少し息が上がっていて、肩を揺らして呼吸している。


「じゃあ改めて聞きますね。先輩はどうして左耳だけピアスを開けているんですか?」


 意を決して、しかしそれをおくびに出さないように質問する。


 先輩の悲しげだった表情は、いつのまにか諦めたような表情に変わっている。


「それはね、日和ちゃん。…私が女の子を好きだから、だよ」


——ああ、そうか。


 はあ。と、先輩は深いため息を吐く。

 それが大事なことを告げた疲れからくるものか、この先の私の反応を想像してのものなのかはわからない。


「…やっぱりそうだったんですね」


——そうだったのか。


「あー…まあ、気づかれてるよねえ。それで、どう思う?」



——私は、先輩に恋をしている。



 意識した途端、顔に血液が集まっていく感覚に襲われる。

 あの日、先輩の家に初めて行った時と同じ感覚だ。いや、記憶にあるそれよりも強烈かもしれない。


 私、顔赤くなってるんだろうなあ。


 自分の体をどこか俯瞰的に見ている自分がいる。


「先輩、私は…わたし、は…」

「うん」

「…」


 声が出ない。

 「好き」と、そう告げるだけ。なのにどうしてか、口が動かない。


「私は!」


 言葉に詰まったことはなかった。教卓に立ってクラスメートに発表する時も、両親に感謝を伝えるときも、街中でインタビューを受けたときも、ただの一度だってなかった。


 私は自分を堂々とした人間だと思っていた。

 いや、実際にある程度は胆力があるはずだ。


 なのに、なぜ?


 …わかってる。

 好きだからだ。何かミスしていたらどうしよう、振られてしまったらどうしよう、取り返しがつかないのではないかと弱気になってしまう。


「無理に言わなくてもいいよ」


 小さな声で告げる先輩の顔を、私はなんとか目に写し続ける。


「少し、私の話を聞いてくれる?」

「…はい」

「まあ掻い摘んで話そうかな。さっき初恋について少し話したよね。私は好きになったって気づいてから猛アタックしてね、何とかその委員長と付き合えたんだ。」


 先輩に彼女がいたと聞いて、胸にちくりとした痛みが走る。


「結構仲良くやれて、高校二年生の終わり頃までは問題なく続いたんだけど、その関係が委員長のクラスメイトにバレちゃってね。よく陰口を叩かれるようになって」


 辛かったですね、大変でしたね。なんて、かける言葉なんていくらでもあるはずだ。しかし、見ていて痛々しいほどに苦しい表情で語る先輩を見ると口を閉ざしてしまう。


「もう辛い、別れてくれって、そう言われちゃって…」


 ぽたり。

 先輩の瞳から雫が流れ落ちる。


 痛い、さっきなんかとは比べ物にならないくらに痛い。

 嗚咽を我慢するように喉を抑える先輩の姿を、これ以上目に収めていたくない、今すぐ逃げ出してしまいたい。


 それでも先輩は話を止めない。


「私が想像してた以上に、あの人はかけがえのない存在で…心に穴が空いたみたいで。学校をサボってみたり、机にあったお父さんの煙草を吸ってみたりなんかして、しょうもないこと、ばっかして…。私ってこんなに弱かったんだってショックを受けて。結果だけ見たら、別に特別なことがあったわけじゃない。不都合があって、それで振られちゃっただけ。どこにでも、誰にでもあるような話なのにね。それからはただただ無気力に生きてきた。習ってたピアノもやめて、勉強もほとんどしないで、ゲームなんかは何にもしなくなって。それで、ここからはつい最近の話なんだけど」

「…はい」


 私が絡んでくると察して、視界が床に移り変わる。


「今年の文化祭の運営の人が私のことを知ってたらしくてね。有志としてピアノを弾いてくれって頼み込んできて。最初は断ってたんだけどあんまりにもしつこかったから、一曲だけなら、って引き受けた。そしたら、日和ちゃんが声をかけてくれた。初めて話したとき、あの人に似てるって、そう思ったの。身長とか、口調とかは全然違ったんだけど、顔と声と、あと雰囲気が。関わってみるともっと驚いたよ。だって性格まで似てるんだもん。だから、最初はあの人の代わりみたいに思ってた。でも変わっていった。日和ちゃん、すぐ照れるし結構冗談言うし、あとゲームはド下手だし」

「むう」

「そういうところは可愛いし」

「むう…」

「あの人は全然照れなかったし、自分から冗談は言わなかったし、あとゲームは何でも上手だった」

「もうゲームはいいじゃないですか…」

「ごめんごめん。それでね、結局なにが言いたいかっていうと…」


 先輩の話が中途半端なところで止まったので、思わず顔を上げる。


 涙は頬を伝っていて、瞳は濡れたまま。でも、満面の笑みを浮かべていた。

 儚くて、その表情だけで切なくなってしまう。


「私、日和ちゃんのことが好き。日和ちゃんはどう?」


 こんな時でも、先輩は優しく私の手を引っ張ってくれる。


 情けなくて、申し訳なくて、涙が出るくらい嬉しい。人の心は矛盾するとはよく言ったものだ。


「私も、先輩のことが好きです」


 どちらからでもなく私と先輩の影が動き出し、やがてそれは一つに交わる。


 冬の始まり、暖房もついていない肌寒い先輩の部屋で、私は恋を知る。







「ダメです。一限遅れちゃいますよ?」


 細い指に大きい手が私の後頭部に回る。


「いいよ、サボる」

「またそんなこと言って。最近サボり過ぎです、出席足りなくなったらどうするんですか」

「ちゃんと考えてるよ。まだ大丈夫」


 大学のことを追及している間も先輩の小さな顔は私に近づいてきていて、ついには比喩なしに目と鼻の先ほどの距離になる。


 これからどんなことが起きるのかを想像すると、自然と先輩の艶のあるピンクの唇に目が移ってしまう。


 ドクドクとうるさい胸の音は少しずつ間隔が短くなっていき、耳にはもう心悸とお互いの息遣いの音しか入らない。


「…んちゅ」

「…!」


 瑞々しい音が鳴ったのを合図に、一切の音が聞こえなくなる。


 私の全ての意識は唇に持っていかれる。


 柔らかくて、暖かくて、味なんてしないはずなのにどこか甘い。


 この人からの信頼が身体に伝わってくるようで気持ちがいい。


「…先輩、このまま——」




 *



ここまで読んでくださった方、貴重なお時間を割いていただきありがとうございます。

自分で決めた設定を殆ど活かせていなかったことに力不足を感じるばかりです。

本編は終わりましたが、まだ二人のお話は少しだけ番外編としてありますので、読んでくれると嬉しいです

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