肌寒い先輩の部屋で、煙草の匂いに咽せる。(3)
「先輩は、どれくらいピアノ続けてるんですか?」
「そうだねー…かれこれ十八年くらいになるかなあ」
「十八年!長いですね。となると三歳の頃からですか」
「そうなるね」
「へー。私小さいころ少しだけ水泳してましたけど、興味がなくなっちゃってすぐ辞めちゃいました。そんなに長く続けれるのは本当にすごいですね」
「ありがと。中学生頃かな、私も一時期辞めたくなってたんだけどね。そのとき母親が死んじゃって、それを忘れるために必死で弾いてたら辞められなくなっちゃった」
「それは…大変でしたね。私なら気力も全部無くなってたと思います」
「うん、ピアノじゃなかったら辞めてたな。お母さん、ピアノ大好きだっんだよ」
「あー、なるほど」
「まあ、もう習ってはいないんだけどねえ。趣味の範囲で。日和ちゃんはピアノ好きなの?」
「いえ、まともに聞いたのも今日が初めてかもしれません」
「あっそうなの。声かけてくるくらいだから相当好きなんだと思った」
「それは…気づいたら足が動いてました」
「そっかそっか。いやーなんか嬉しい」
いやはや時が過ぎるのは早いもので、居酒屋に着いてもう2時間が過ぎていた。
割と話が…というか会話のリズムが合うようで、私にしては珍しく人と会話してもまだ疲れが来ていない。
私はビールを一杯飲んだだけなので大丈夫だが、先輩はわりとひっきりなしに飲んでいる。
もうすでに顔は真っ赤になっているが…いやでもそれ以外の様子は特に変わってないように見える。
お酒には強いのだろうか?
と、思っていたのだが…
「ひっく…うう…」
パタン、と突然机の上に伏す。
「あちゃあ…」
ええどうしよう、私酔って限界の人の介抱なんてしたことないんだけど…とりあえずどうにか家まで送るか?
あーいや、まずは水か。この人ほとんど水飲んでなかったし…
「ほら、先輩。飲めますか?」
水の入ったコップを先輩の口の前に差し出す。
「あぅ…のませてー」
…!?
…なんというか…良くない気がする…
顔を上げた先輩の目はトロンと垂れており、呂律もさっきに比べて回っていない。
早い話、幼児らしくなっている。
まあ仕方がないのでコップを先輩の口につけて流し込む。
「うぇ、たれてきた…ふいて!」
えぇ…この人ついさっきまでピンピンしてたのに。
私もお酒には気をつけよう。そう誓った。
「はい、拭きましたよ」
次は…とりあえずタクシー呼んで、先輩は休ませておくか。
「おさけのむー」
「ダメです、ちょっと休憩しておいてください」
「…けち」
掴みどころのないこの先輩が真っ赤な顔で上目遣いかつ舌足らずな声で「けち」って…
庇護欲…?それとは少し違う?説明しずらい感情が胸の内に広がっていく。
少なくとも心地よいことは確かだ。
「あーもしもし、早めに来ていただきたいです。住所は…あっすみませんちょっと待ってください。店員さーん!――
◆
「でっか…」
私は今、なんとか先輩から聞き出せた住所にいる。いるのだが…
「えっ、これあってるよね…さっき先輩一人暮らしだって聞いたけど…」
居酒屋で話していたのだが、先輩の父は海外に長期出張に出ているらしく、マンションに一人暮らしをしているらしい。
これが所謂"タワマン"というやつで、今からこれに入らないといけないと考えると少し気が滅入る。
いやこの先輩が自分で歩けるなら帰れるのだが。
「えと、何階の何号室ですか?」
「んーっとねえー、ごじゅっかいのおー…うぅ」
ああダメっぽい…
「…五十階ですね。じゃあとりあえずそこまで行きますか…」
にしても五十階って…家に帰るのも一苦労な高さだな。
「やっと着いた…」
一度も止まらなかったのに3分ほどかかった気がする。いや、そう考えるとさほど大変でもない…のか?
「着きましたよー先輩。部屋はどれですかー」
「いちばんとーいとこー」
このエレベーターが端っこにあるから、真反対の部屋ってことか。
ドア同士の間隔も心なしか広いように感じる。
うーん、部屋の中もちょっと見てみたいな。
今度頼んで入らせてもらおうか?
「ここかな。鍵はあります?」
「えーっとね…これ?たぶん」
「はめてみてください」
ガチャリと鍵の開く音がする、あってたらしい。
「よし、無事に辿り着いた。お金はまた今度請求するとして…もう大丈夫ですね?」
「かえるの?」
「はい。もう夜も遅いので」
「なんで?」
「えっいやだから夜もおそ――」
「いや!いて!」
「えー…いいのかなあ」
幼児退行先輩(仮)は最早意識がないようなもの…そんな時に部屋の中に入るのはどうなのか。
長く話していて忘れそうになっていたが、今日会ったばかりでもあるし…
「いいの!きて!」
「って、ああちょっと…」
なんだかんだと悩んでいるうちに、結局部屋の中に連れ込まれてしまった。
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