力になりたい
九十九
力になりたい
「筋肉を付けたい?」
少女が大きく頷くと、喫茶店のマスターは目を瞬かせた。筋肉を付ける、それは健康的で良い事ではあるのだが、とマスターは少女を見る。
少女はやる気満々な様子で、興奮で頬を赤くしてマスターの反応を待っている。
「ううん、どうして筋肉を付けたくなったんだ?」
「強くなりたいから」
「どうして強くなりたいんだ?」
「それはまだ内緒」
少しだけ恥ずかしそうに顔を背けた少女にそれ以上突っ込んで聞くのも野暮だ、とマスターは口を噤む。
さて、話は分かったが、とマスターは少女を見る。未だ幼さの残る少女の身体はか細くふにゃふにゃだった。まだ筋肉よりも柔軟な成長の方が身体に必要な年頃に思えた。それに果たして少女に筋肉が付くかどうかは微妙なところだった。
だからと言って期待の籠ったきらきらとした目で見上げてくる少女に、本当の事を言ってしまうのは憚られる。新しい事にやる気があるのは良い事だ。やる気満々の少女のやる気をへし折ってしまうのは大人として気が引けた。
「うん、分かった。じゃあ一緒にやろうか筋トレ」
一人でやって無理なトレーニングをしてしまわないように、とそう言えば、少女は目を輝かせて喜んだ。
「いいの?」
「一緒にやる方が楽しいだろ?」
犬の尻尾が付いていたならぶんぶんと振り回していそうな程嬉しそうに頷く少女にマスターも微笑む。
無理をさせない事、身体に悪影響にならない程度の筋肉を付ける事を目標に、マスターは少女の筋肉を付けたいと言う目標を叶える事にした。
何においても、健康とはまず食事と休息からだ。休息していなければ身体は守られず、身体に栄養が行っていなければ丈夫な身体を作る事は難しい。
という事でマスターは手始めに少女の食事状況から把握する事にした。場合によっては少女の両親にも協力してもらわなければならない。何せ今の所、少女の料理の腕は壊滅的なので、食事の管理となれば両親の協力が必要だ。
客が居ない時間帯に入った喫茶店の中、少女に日々の食事を書き出してもらうと、一般的な健康で子供の好きそうな献立が並んだ。筋肉を付ける時はタンパク質が大事だと言うが、この分なら大丈夫だろうとマスターは献立を眺める。意識して取るように言うと過度に取ってしまいそうだし、それに少女には未だ色々な栄養がバランス良く必要な時期であるので、これで良いだろう、とマスターは少女に丸を出す。
休息に関しては少女はよく眠っているようなので、こちらにも丸を出す。
バランス良くしっかりと食べる事と、しっかり休息を取る事が丈夫で元気な身体、ひいては筋肉を作るための第一歩だと、少女に伝え、それらが十分に取れていなければ筋トレはしないと約束する。
「筋トレって何するの?」
「どこにでもある運動だ」
提案したのは何処でも聞くようなトレーニングだ。腕たてふせと腹筋、スクワット、それとプランク。トレーニングに関してマスターは専門知識があるわけでは無いし、少女も初めてなので、マスターでも姿勢の指導ができ、負担の見極めもしやすい基本的なトレーニングにした。
こちらも無理はしない事と、知らぬ所でやりすぎてしまわないように家ではやらない事を約束する。
ある程度どう言った物にするのか決まってくると、少女は嬉しそうに時折やってくるようになった喫茶店の客相手に話をする。幼い頃からよく遊びに来て、配給や掃除を手伝ってくれる少女は店のマスコットになっていて、客によく猫可愛がりされている。少女が筋肉を付けるのだとやる気を見せれば、頑張ってとあちらこちらから声援が上がった。
コーヒーを挽くマスターはそんな少女と客の様子を見ながら、筋肉痛にならない事を願った。
トレーニングは大凡順調に進んだ。少女はマスターの言い付けを守って、よく食べ、よく眠り、けして無理をしなかった。少しでも何処かが痛めば申告したし、もうちょっとやりたいと家で追加のトレーニングをする事も無かった。
既におじさんに足を踏み入れているマスターからしたら、運動をしても翌日軽い筋肉痛になるだけで、三日後に重い身体の痛みが訪れない少女を眩しく感じた。
少女には目に見えて筋肉が付く事は無かったが、それでも少女は満足だったらしい。ほんの少し先日よりも重い物が苦じゃ無かったと、以前よりも付いた力に嬉しそうにはしゃいでいた。
適度にのびのびと運動した事が良かったのか、身長も少し伸びたようだった。保健室で確認して来た日には、溢れんばかりの笑顔で喫茶店に飛び込んで来た。やはり昨日よりも少し成長したのは嬉しいのだろうと、マスターは微笑ましげに客に自慢して回る少女を見ていた。
「目標、達成できそう」
そんな風に少女が言ったのは、トレーニングを始めて数ヶ月後の事だった。昨日、保健室で身長を測ったばかりの彼女は、また少し伸びていた。
「目標って身長?」
もしかして、筋肉を付けたいと思ったのは身長を伸ばすためだったのだろうか、とマスターは首を傾げる。
けれども少女はマスターの問いに首を振った。どうやら身長を伸ばすことが目的だったわけでは無いようだ。
「目標、聞いても良い?」
「もう少しだけ待って。もし出来たら教えるから」
少女は恥ずかしいのか、教えられないと首を振った。
目標が何なのか気になる気はしたが、それ以上無理に聞くことも無く、マスターは、じゃあ待ってる、と笑った。
「マスター。マスター、出来た!」
客のいない時間帯、興奮気味な少女の声にマスターは片付けを止めて少女のいるカウンター裏に顔を出した。
「どうした?」
カウンター裏を覗けば、少女は蹲っている。いや、蹲っていると言うか、何かを持ち上げてる途中のようだった。マスターはカウンター裏に回り込み、少女の手元を見る。
少女が持っていたのはコーヒー豆が入っている麻袋だ。マスターにとっては持ち上げる事は雑作も無い物だったが、小さく細く筋肉もなかった少女にとっては重い物だ。少女は力を入れて麻袋を持ち上げると、嬉しそうにマスターに振り返った。
「出来たよマスター!」
輝かしい笑顔で報告する少女に呆気に取られていたマスターは、人差し指で麻袋を指した。
「目標ってそれ?」
どうにもそんな様子の少女にマスターが聞けば少女は元気に頷く。
「私も持ってあげたかったの」
それはもしかしてもしかしなくとも己のためだろうか、と考えてマスターは顔に熱が集中する。
「お、手伝いのため?」
俺のため、と聞くのは恥ずかしくて、そう聞くと、少女はしっかりと頷いた。
「マスターぎっくり腰とかあるから、私も重いもの持つの手伝いたかったの。この前もマスター麻袋持ってぎっくり腰起こしちゃったでしょ?」
確かに最近、歳のせいか重いものを持つと腰に響く事はあった。
にこにこと嬉しそうな少女に、さらに顔に熱が溜まる。それはつまり今まで頑張ってトレーニングしてきたのは、筋肉を付けようと考えたのは。そう考えて、マスターは口を覆って蹲った。
「マスター?」
「コレカラモ、ドウカ、オ手伝イ、オ願イシマス」
片言になって、震える声でマスターがそう言えば、少女は輝かしい笑顔で頷いた。
力になりたい 九十九 @chimaira
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます