最終話 ある哲学者の終わりに寄せて

 その後のことーつまり、事件の後始末についてーはあまり詳しく語る必要は無い様に思われる。何しろ、事実はあまりにも散文的であって、奇特な点など殆どない灰色の仕事であったのだから。

 結果として私は五体無事に助かった。事件解決から二日目に、壊死の進行が止まったからである。そしてそれは、拘置所に捉えられていた間先生が命を落としたことの証明でもあった。

 事実、その翌日に私の病室に神田警部がやってきて、間先生が昨晩病院で命を絶ったことを知らせてくれた。生きながらにして全身が腐る痛みの余り遂に発狂し、四階の窓から飛び出して頭を砕き死んだのである。遺体の包帯を解いてみると、その下半身は被害者と同じ様にほとんど腐乱して形を失い、正視に堪えぬものだったそうだ。

「短期間の間に三人が死んだ。しかし、この後に死者が出ることはもう無いだろう」

 胃洗浄で自身も助かった教授は私にそう告げた。彼女は退院した後も暫くの間事情聴取を受けることになったが、結局は釈放された。そこでどの様な話がなされたか、それは私には窺い知れぬことである。だが、少なくとも彼らが満足する様な結果がそこからは得られなかったことだけは確かだ。

 そして、私自身に対して行われた事情聴取でもそれは同じことで、私と教授は警察から「狂った哲学の連中」と言う烙印を押されながらも解放されたのだった。


 八月十日。事件からおよそ一ヶ月後。大学は元の賑わいを取り戻していた。連続不審死事件について、警察は結局のところ犯罪として立件するに足るだけの証拠を集め切れず、関連していると思われた殺人未遂事件も被疑者死亡のまま書類送検されたことから、幕引きを図る大学に押されて事実上の捜査打ち切りを余儀なくされた。

 無論世間はこれに強い不満を抱き、その後も我が母校は誹謗中傷や好奇心旺盛な人々の広めた都市伝説の材料にされたが、私には大学経営陣の気持ちが痛い程よく分かる。何しろ、学生二人に相応の名声ある教授一人が不審死を遂げ、尚且つその教授は同僚への殺人未遂で現行犯逮捕された。国立ならばともかく基盤の危うい私立大学にとっては、その経営に致命傷を与えかねない。

 そして、賢明な彼らが選んだのは、社会の忘却に傷を治療させることだった。事件の早急な幕引きによって、飽きっぽい人々は程無くしてその関心を別のものに向け、一月も経てばそのサムネイルは極彩色のゴシップとトレンドに埋め尽くされる。

 最終的に私と教授の手元に残ったのは、恐ろしい怪事件に関与していた、という不明瞭な噂と、それで拵えられたサングラスよりも真っ黒な人々の色眼鏡だけだった。彼女の研究室には「幽霊が出る」、私の居た哲学科は「呪われている」。そんな噂がこの話をまとめている現在に至るまで、連綿と受け継がれているそうだ。

 とはいえ、私は事件によってすっかり精神が鈍磨し、その様な種々の噂には一切無頓着になっていた。その代わり脳味噌を占める様になったのは、教授が私に見せてくれた余りにも鮮烈な哲学のイメージであり、堅牢な象牙の壁の向こう側に広がる知性と理性が絡み合う目が眩む様な狂気と思索の世界への拒み難い誘惑だった。

 すっかり体が回復し、事件に関する報道と後始末が片付いたその頃に、半ば引き込まれる様にしてあの研究室を再訪したのは、きっとその誘惑に既に私の魂が呑まれていたことの証拠であろう。


 「おや、来たかね田崎君」

 研究室の戸を開けると、語教授は相変わらず無愛想な調子で私を迎え入れた。研究室は一度徹底的に洗浄が行われ、あの忌まわしい事件の痕跡は殆ど消し去られている。

「おはようございます」

「済まないね。今四年の卒論を見てやってるんだ。それが終わったら話をするから」

 教授は汗ばむ手で金髪をかき上げると、冷房を効かせているにも関わらず大きな音でファンを回すパソコンに向き合った。キーボードを打ちつつ、先輩方の中間発表資料をチェックしていく。一時間ほど経った頃にそれはひと段落ついた様で、パチパチと言うキーの音が止まった。

「さて、じゃあ今度は君の方に話をしなくては」

 教授は私の方に向き直ると、側の鞄から茶封筒を一つ取り出した。宛名書きには私の名前ともう一つ、「報酬」とだけボールペンで書かれている。許可を得て中を見てみると、そこには一万円札が十枚顔を覗かせていた。

「教授!?これは…」

「必要経費を除いた君への報酬だ。一日一万円に事件解決の賞与を足してちょうど十万円。病院の入院費、私が君の家に滞在していた時にかかったコストはまた別で計算する。…ご苦労だった」

「でも、こんな大金」

「いや、これでも安い。何しろ命の危険がある様な仕事だったんだ、胸を張って受け取ってくれ」

 教授はにっこりと優しい笑みを浮かべた。透き通ったその笑みに、私の心は一瞬釘付けになってしまった。

「はい…では、頂戴致します」

「結構。で、だ。もう一つ君に渡しておくものがある」

「は?」

 次いで教授はまた懐からー今度は少し分厚い封筒を取り出して、私に手渡した。再び中を開けて見てみるとー何とそこには、きっちり合わせて三十万円の現金が入っていた。私が慌ててそれを返そうと差し出すと、彼女はそれをやんわりと留めて、また笑みを浮かべた。しかし、今度の笑みは先ほどの様な澄んだ優しいものではなく、いつもの通りー内心に飼っている狼が牙を剥き出しにしたーの笑みであった。

「こいつは報酬の先払いだ。君にはこの夏休みにも、もう一働きしてもらおうと思ってね」

「は、はい?」

「実は事件の後あのマルクフーディッヒについて詳しく調べたんだが…どれだけ潜っても南ドイツの哲学者だったこと以外とんと分からない。彼があの呪われた本に記した知見がどこからきたのかさえ見当がつかんのだ」

「…」

「そこで、だ。私はこの夏にドイツに行くことにした。君を助手兼荷物持ちとしてね」

「は、はい!?い、今なんと…」

「だから、君を連れてこの夏休みにドイツに行くと言ったんだ。同じことを二回も言わせるな無能め」

 何日の何時に大学に来い、着替えとパスポートを絶対に忘れるな、ビザはこちらで申請するから。と簡潔に連絡事項だけを伝えると、教授はまたパソコンに視線を移した。結局のところ、彼女がこの次に私に言葉をかけたのはドイツへと出発する当日のことだった。初めての外国で、私は束の間微かに垣間見た哲学の深淵に、遂に頭の先まで潜り込んでしまうことになるのだが、そのことはまた別の機会に振り返ることにしよう。

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変人教授と哲学の犯罪計画 津田薪太郎 @str0717

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