第12話 滔々と落ちる
「成程、成程ね…」
間先生は俯きながら笑った。くっ、くっ、と喉奥に引っ掛ける様なこもった声を立てると、やがてぐっと顔を上げた。その表情は、思わず血が凍るほどに清々しい、莞爾とした笑顔であった。
「そこまで分かっておきながら、ここまでお出でになるとは。好奇心は、哲学者をも殺しますな」
「何っー」
教授の声が揺れた。同時に、立ちあがろうとした足から力が失せ、ガクンと地面につく。額に暑さのせいではない、悪い汗が浮かび、双眸が焦点を失った。
「教授!」
「一服、盛られたか…ッ!」
「流石だ。これだけの量を盛られて、まだ意識がある」
私は何が起こったのか分からなかった。あれほど頼もしかった教授が、猛毒によって一瞬で撃ち倒され、もがき苦しんでいる。私の体はまるで蛇に睨まれた蛙の如く、ぴくりも動こうとしない。
「先生、やはり、貴方が二人を…」
「ふむ、そうか。田崎君は慎重だね。私のコーヒーを一口も飲まないとは」
実際、私はここに来てから出されたコーヒーに一度も口を付けなかった。手元にあるガラスのコップは結露で生じた雫に塗れ、天板の上に小さな水溜りを作っている。
「語先生。貴方の質問に二つながらお答えします。まず一つ目ですが…私は弟子を殺したのではありません。人間存在の止揚の為、彼らを『使った』のです」
真に恐ろしかったのは、彼が人間を単に道具として捉える人でなしではなかったことだ。彼は自分の弟子を愛していた。自分の弟子に愛情を注ぎ、底辺の大学生と軽蔑すること無く、一人の人間として育てていた。
しかし、同時に彼はヘーゲルを愛していた。それを追いかけて自身が見出した哲学を愛していた。二つの愛情が溶け合い、結果起きた反応は余りにも禍々しい暗黒の濁流であった。
顔面から覗いたその精神の裂け目には、単なる歪んだ愛だけではない何かが巣食っており、それが私達をその大きな顎で喰らおうとしている。その姿を私は幻覚よりもなおはっきりと眼前に見出した。
「彼らを使った、とは?」
「二人ともとても優秀な学生でした。彼らならば、ヘーゲルが辿り着いた真理の門を潜れるであろうと確信していましたよ」
「…」
私の問いに先生は淡々と答える。既に教授の追及にたじろいでいた彼も、いつもの様な好々爺然とした教師の彼もいない。そこに居たのは、ただひたすらに真理を希求した『一人の哲学者』であった。
「語先生。私はね、貴女がこの謎を解いて私のところに来てくれるであろうと、ずっと待っていましたよ。思ったより多少時間がかかりましたが、それもまた良しです。何しろ、私は貴女がずっと欲しくてたまらなかった」
「どういう…こと、ですか?」
「その卓越した頭脳、類い稀な美貌、そしてなによりも、哲学への探究で燃え上がる澄んだ魂。貴女ならば、彼等よりもずっとその『可能性』があるんです。貴女こそが、最初に新たな人間存在へと踏み込めるかも知れない」
「…」
「どうです?協力して頂けませんか?貴女が追い求めた、哲学の真実が今目の前にあるんです。きっと貴女なら、彼の見た境地を….」
「残念ながら、私はそんなものに興味は無い」
苦しげな息の下で教授は答えた。力を振り絞って乱れた髪を掻き上げると、手負の獣同然の眼光を向け、敵意に満ちた答えを返す。
「何故なら、私はその先を行っている…時代遅れの原始的なシステムに、今更興味は無い!」
余りにも不遜な放言。自己の才能が歴史上の大哲学者にも匹敵すると信じて疑わない者の言葉だった。しかし、それでこそ、「哲学者語風子」である。私の中に奇妙な納得と、眼前の脅威に立ち向かう勇気が湧いた。
「そうですか。ならば、仕方ありませんな。予定通り、力強くでご協力願うことにしましょう」
間先生は徐に片手をパッと開き、前へと差し出した。その掌にはあの呪印が略号の形で刻まれていた。直接触れて、教授に呪いを流し込もうというのだ。
「間先生!!」
自分でも信じられないスピードで立ち上がると、私は差し出されたその腕にしがみつき、強引に動きを止めようと試みた。掴むという生ぬるいやり方ではなく、半ば噛み付くと言っても過言ではないくらいだった。先生は一瞬驚いた様子だったが、すぐに調子を取り戻し、今度は空いていたもう片方の手で私の頬に強かな平手打ちを喰らわせた。
するとバチバチ、と奇妙な音と共にボッと火花が散った。片目の視界が突然の光に奪われると共に、一二秒遅れて凄まじい痛みが私を襲った。もう一つの手にも仕込みがあったのだ。
私は堪らずしがみ付いていた腕を離し、激痛の走る顔を抑えてのたうち回った。不気味な煙と共に顔の皮膚が爛れ、壊死していく。略式とはいえその呪印には間違いなく私の体を殺していく効果がある。一週間よりは長くかかるであろうが、ほぼ確実に私は先人と同じような末路を迎えるだろうと覚悟した。
「では先生。貴女にも、彼と同じ様に門を潜って頂きましょうか」
「…断る!私は、絶対に嫌だ!」
教授はよろよろと立ち上がると、閉められた書斎の入り口に向けて一歩、二歩と震えながら踏み出した。しかし、薬の効き目は恐ろしく、忽ちのうちに教授は力を失い、そのままうつ伏せで床に倒れ込んでしまう。大きな音と微かな揺れが続け様に起こり、最早彼女の余力が使い果たされてしまったことがわかった。
「おや、もう動けませんか?」
「近づくな…この、クズめ…」
「ふむ。そうして立ちあがろうと喘ぐ貴女の姿は大変魅力的です。しかし…些か見苦しくはある。是非とも、背筋をしっかりと伸ばしていただきたいものですな…」
間先生が腰を曲げ、激しい動きで皺になった教授のジャケットを掴み、その体を無理やりに引き起こそうと試みた。私と同じ様に、顔に直接呪印を刻んでやろうというのだ。しかし、最早彼女には指一本動かす気力も無く、されるがままになるしかない。
その呪われた手が背中を掴んだ刹那、
「何!?」
目が眩む凄まじい光を帯びて、ジャケットに大きくシルシが浮かんだ。次いで私のよりも遥かに大きな音と火花が浮かび上がり、先生の体をガラスの天板へと跳ね飛ばす。
「ぐわっ!!」
間先生はパキパキと音を鳴らす天板に着地すると、途端に襲ってきた凄まじい痛みによって周囲をのたうち回った。その間に教授は会心の笑みを浮かべ、相変わらず不気味な光を放っている呪印を背中に貼り付けて壁に身を寄りかからせ。
「目が悪くなりましたね、先生」
「まさか、まさか、ジャケットの背に、あらかじめ仕込んでいたな!」
「材料を…調達するのは骨が折れましたがね」
立ち上がった先生の顔は歪み、強烈な痛みで汗ばんでいた。触れた片手には私よりも遥かに大きな黒点がポツポツと浮かび、壊死した皮膚からは滲出液と血が生々しく垂れてきている。
「…あなたのシルシは所詮略号。どれほど早く効くとしても、本物より短いということはあり得ない。つまり、それで私にシルシを刻んだとしても…あなたが先に死ねば、私と彼は助かる…」
「先生っ…私は、あなたがその様に抵抗するとは、思ってもみませんでしたよ!」
「何も、そんなに怒ることはないじゃありませんか。もしかしたら、貴方自身が…初めて人間の先へ行けるかもしれないというのに!」
術者が死ねば呪印はその効力を失う。それを見越して教授は自身の衣服にシルシを仕込み、時間差で先生の方が先に死ぬ様に仕向けたのだ。(尤も、実際に背中の呪印に触れてくれるかどうかの賭けであることに変わりはないのだが)
そして、そのことは無論間先生も十分過ぎる程弁えている。ならば、彼がこの後に出るべき行動は一つである。
自身が生き続けたいという欲望が真理を希求する思いを上回ったのか、何と先生は懐から小さなナイフを取り出すと、そのまま教授の頸動脈を掻き切ろうと前へ走り出したのである。このままでは彼女が殺される。私は痛みで赤く明滅する視界の中をもがいて立ち上がり、背後から抱え込んでそれを止めようと試みた。
しかし、ことは更にその上を行った。なんと、先生が教授に襲い掛かろうとしたその時、バタンと乱暴に押し上げられた扉の向こうから、あの神田警部が現れて先生を強引に押し倒し、ヒビの入ったテーブルへと叩きつけたのだ。
既に限界を迎えていたテーブルは粉々に砕け散り、高い音と共に体を落下させた。そして、そのまま地面へと二人分の体重が到着する大きな音と揺れによって、呪われた老哲学者の意識は奪い去られた。
「殺人未遂の現行犯だ」
「…助かりましたよ、警部」
教授の懐から、「通話中」の表示があるスマートフォンがずり落ちた。彼女はあのシトロエンの中に隠れていた警部と絶えず連絡を取っており、間先生が暴発して凶行に及んだ時には、ー少なくとも彼らの次元で立証可能なー現行犯で捕らえてくれる様に頼んでいたのである。
「鍵を開けっぱなしにして扉を閉じた時、あれが一番不味かったですな、ええ」
「私も懲戒になる瀬戸際ですよ、教授」
「非番ですから、おそらくは問題無いかと」
「そんな訳が無いでしょう」
手早く拘束を完了すると、警部は私用の携帯で連絡をとり、直ぐにパトカーと救急車をこちらへ回してくれる様に手配した。後から聞いた話だが、大量の薬を盛られた教授の身体は内臓機能に障害を及ぼす瀬戸際であったらしく、これだけの量の薬を悪意を持って盛ったと言うだけでも十分に重罪に問われ得るものだった。にも関わらず、あれだけ気丈に振る舞い、全ての策を成功させたその強靭な精神は、間違いなく彼女の世にも稀な美徳であろう。
「田崎君、君も病院へ」
「は、はい…!」
「この位ならきちんと治療すれば助かる…ですよね教授?」
「さあ…もしも…もしも、科学が万能の、絶対の真実なら…殺された私の弟子も、そこで伸びているクソ野郎も…きっと、助かるでしょうね」
「…」
近づいてくるサイレンの音は、眼前に大口を開けていた真理と狂気を孕む理性の世界から、私達がいつも生きている、退屈で単純な世界への回帰を示していた。私は激しい痛みの中、大きな安堵と共に一抹の奇妙な落胆の中で、その意識を手放したのだった。
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