第11話 死にゆくもの

 前夜。教授が全ての推理をまとめた時、私は教授に質問した。

「あの二人、どうしてヘーゲル全集を抱えて亡くなっていたんでしょうか」

「決まってるだろ。そもそも彼らが、マルクフーディッヒという男のことを全く知らなかったからだ」

「え!?」

 驚く私に対して教授はこともなげに説明してみせた。

「まず、その男の本は、前にも示した通り少なくとも東京都内には帝国大学の資料庫にしかない。問い合わせたが、国会図書館にも収蔵されていないわけだ。また、著者本人の情報についても、私とお前とで調べたが殆ど情報が出てこない」

「はい」

「独自のルートや調べ方を心得た研究者でさえろくな情報を見つけられない人物について、ど素人の学生が、ましてや『ド底辺』の大学生が教授に先んじて知ることができると思うかね」

「でも、どこか変なサイトで知っていた可能性も」

「有り得ない。さっきも言った通り、彼らは『ヘーゲル全集』を抱えて死んでいた。呪いが一週間かかって体を蝕むのなら、どうして残された僅かな時間を有効に使わなかった?」

「あっ!」

 確かにそうだ。二人がマルクフーディッヒの名前やその思想を事前に知っていたとすれば、自身の体を蝕む呪印のヒントは帝国大学にしかないと分かるはずだ。態々大学の貧弱な図書館にまで体を引きずってくるわけがない。

「彼らがヘーゲル全集に縋ったのは、彼らにとってそのヒントが、本に刻まれた呪印本体しかなかったからに他ならない。一週間の最後、病院に通ってあらゆる手を尽くしても原因の分からない腐乱、苦痛に苛まれる中で最後に縋ったのがアレだったと思うと、涙を禁じ得ないな」


 「二人は知らなかった。だが、自身を殺そうとする凶器が、あの呪印であることは分かっていた。だからこそ彼らは、それが記された本を握って死んだのです。そして、それを最後に図書館から持ち出した人間は…他ならぬ貴方です」

「…」

 間先生は黙って手元の紅茶を一口飲んだ。そして、一転して今度は苦笑いを浮かべ、教授を嗜める様な声を上げた。

「先生、非常に面白い仮説です。しかし、それでは結局のところ、呪印が本に書き込まれた時期がわからないでしょう?仮に、本が出版されてすぐの頃にいたずら者が書いたのかも知れない。それが不運にも、全集を手に取ったのかも。その可能性も否定しきれないでしょう?」

 確かに。ここまでの教授の仮説は些か牽強付会の感が否めない。間先生があの男を知っていたこと、事件の十日前に本を借り、一週間前に返したこと。そして、その直後に二人が図書館に入場し、一週間後に先生の借りた二冊の本をそれぞれ側に置き、不可解な死を遂げたこと。

 それらの事実を結ぶ真実の糸はあまりにも細く、頼りない。また、その基盤になっている狂える魔術師の書物でさえ、実際に信じられるものだろうか?

「そもそもとして、その本自体が眉唾かも知れない。呪いなど本当はなく、未知の疾患かも知れないのに」

「…確かに、そうかも知れません。ですが、先生。呪いの真贋はともかくとして、『貴方が呪印を書いた』かどうか、その証明は出来ますよ」

「何?」

「先程私がした説明をもう一度思い出して下さい。それを書くには唯のインクではならない、その為には何が必要か。私は何と言いましたか?」

「…まさか、使われたインクの成分分析で、中に入ったDNAを」

「オカルトの推理を進める中で、自然科学的手法に立ち返るのは極めて遺憾ですが、まあ仕方ないと言えば仕方ありません。何しろここは、ミステリーの世界ではない。有りとあらゆる『知』のあり方を駆使して貴方が組み立てた『哲学』の犯罪計画。それを解くのに、私もあらゆる知を動員して何が悪いのでしょうか」

 くすくす、と教授は笑った。一方先生は、反論する気力も無い様に椅子に凍りついている。やがて、彼女が静かに問いかけた。

「しかし、教授。私がいかに真実に辿り着いたとしても、貴方は決して逮捕されない。不能犯だから。仮に警察に通報したとしても、精々が器物損壊程度のことです」

「ならば…どうして、態々あんなにも回りくどい理屈を捏ねて、私のところへ来た。私を捕まえられないと知っていながら」

「それには三つ理由があります。一つはそう、『弟子を殺した』人の顔を見る為です」

 弟子を殺した。それは、教授が何度も口にしている言葉だった。その言葉には二重の意味があり、彼女はその双方を目的として事件を追いかけていた。

「あの二人は貴方のゼミの学生だった。つまり、貴方の弟子に他ならない。なのに何故、貴方は二人を惨たらしく殺したのか。それを聞きたかった。そして」

「…」

「あの二人は哲学科の学生です。したがって、貴方だけでなく私の弟子でもある。だから、とても気になっていました。私の弟子を殺したクソ野郎は、一体どんなツラをしているのかね」

 敵意を剥き出しにして教授は笑った。一方間先生は黙って俯き、一言も発しようとしない。私の目には完全に、勝敗は決した様に見えた。

「間先生」

「何だね」

「もう一つだけ、私には分からないことがあります。半分はこれをお聞きする為に来たと言っても、過言ではありません」

「ふむ」

「今回の事件、貴方にしては随分と犯行が粗雑です。呪いによって不能犯になれるとはいえ、本に書かれた呪印のDNAが調べられたなら、一発で貴方が犯人であると分かってしまうのに。私だって、警察の設備、いや大学の理学部のラボを使えたのなら、あんな回りくどい推理から犯人を導き出す必要なんか無かった」

「…」

「そこでお伺いしたい。卓越した哲学者である貴方が、こんなにも粗雑な犯行を働いたのは、例えバレたとしても決して捕まらない、あるいはバレるわけがないという傲慢さから出たものですか?それとも…」

「それとも?」

「私の様な、事件に首を突っ込む虫を、火の中に誘き寄せる為ですか?」

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