第10話 ヒッパソス
三日後。事件が始まってからちょうど七日目。私達は教授の運転する車でとある場所に向かっていた。東京から道路に乗って埼玉県へ入り、T市周辺にある緑豊かな新開発地の一画を目指す。
やがて車が山に程近いそれなりに大きな一軒家ー建ててからそう時間は経っていないであろう、白い壁の瀟洒な家だーの敷地に停まると、私と教授は車から降り、表札の直ぐ隣にあるインターホンを押した。出るまでの間に彼女はジャケットを羽織り直し、身なりを整える。
「…はい」
「語です。間教授はご在宅でしょうか」
「おや、先生。お時間通りですな、少々お待ち下さい」
ややあって家の鍵が開けられ、中から間先生が出てきた。相変わらず髪の毛をきちんと後ろに撫で付けて、髭も手入れされている。服装は大学の時よりも緩いが、それでも下品な様には見えない。
「突然すみません」
「いえいえ構いませんよ。…それにしても、シトロエン2CVですか。まさか、先生の愛車がこんな味のある…」
「趣味人だった祖父と親父の遺産です」
私達は先生に案内されて、一階の奥まったところにある書斎に通された。窓越しに小さな庭が見えるのどかな部屋で、背の高い本棚にはずっしりと分厚い文献が詰まっている。部屋の中央にはガラス天板のテーブルが一つと、肘掛けの椅子が左右に二つずつ置いてあった。そして、テーブルの上には今さっきまで読んでいたのか、開きっぱなしの哲学書が飲みかけのアイスティーと共に置かれていて、所在無げにクーラーの風でページが揺れていた。
「紅茶とコーヒー、どちらがお好みですか?」
「では、アイスコーヒーがあれば」
「田崎君は?」
「あ、じゃあ自分もそれで…」
酷く暑い中をドライブしてきた教授は冷たい物に飢えていた様で、運ばれてきたアイスコーヒーを半分ほど一口で飲み干した。まるでビールを飲んだ時の様な息を吐くと、ようやく人心地を取り戻した様で間先生にお礼を言う。
「ありがとうございます。なにしろ外が暑くって」
「いえいえ…それで、本日は何のご用でしたかな?」
「例の事件のことで、とても大切なことをお伝えする為にここへ来ました」
「ふむ?」
アイスコーヒーのコップをテーブルに置くと、教授は急に真面目な表情を作り、懐から何枚かの写真を取り出した。
「これは?」
「彼らを死に至らしめた凶器です」
それはあの悍ましい呪印の写真であった。一つは原本から撮った物、残りは証拠物件から神田警部に撮ってもらった物だ。それを見ると先生は困惑の表情を浮かべ、これが凶器ですか、と問うた。
「はい。これは、新山君達が調べていたヘーゲル心霊派の哲学者マルクフーディッヒの本から撮ってきたものです」
「彼の本が実在したのですか!?」
「はい。彼の本は、帝国大学の稀覯本資料室にありました。東京、いえ、彼らが言うには日本でここにしかないだろうと」
「まさか、凄いですな。よく見つけられた…」
「ラテン語で書かれた本によると、この魔法陣…いえ、呪印は、『人間の体を生きたまま腐らせる』ことができるそうです」
「…何ですって?」
教授は呪印について、その哲学的基礎と詳しい効能について語った。
「彼らは絶命するまで、酷い苦痛に苛まれたことでしょう。何しろ、生きながらにしてどんどん体が壊死していく。神経が生きている限り痛みは続きますからね」
「…その、先生。申し上げ難いのですが」
「言いたいことはよくわかります。あまりにも空想的で、有り得ない物の様に思われるのでしょう?」
「…ええ。少なくとも私には、私の弟子がこんな、何の根拠もないオカルトに殺されたなどと言うのは、最も恐ろしい侮辱です」
「そうでしょうか」
「そうです。私はそんなー魔法の様なものは絶対に信じられません。彼らの死がそんなものによって引き起こされたなどとー」
「最低限。あなたはこれを信じておられるはずですよ」
教授は冷静に言い切ると、先生をじっと見据えた。一瞬狼狽えた様な表情を浮かべた先生は、すぐに冷静さを取り戻す。そして、
「どういう意味ですか?」
「それは勿論…あなたが、二人を死に追いやった犯人に他ならないからですよ。間時貞教授」
教授は遂に、事件の核心へと足を踏み入れた。七日間に渡る呪われた事件は、今最終楽章に入ろうとしている。
「私が、犯人!語先生、とても面白い冗談をおっしゃる。私が二人を、その何が何だか分からない呪術で殺したと、そのように言うのですか?」
「ええ、そう言っています」
「馬鹿馬鹿しい。何と非科学的な、いや、仮に呪術があるとしても全く論理的ではありませんな」 「ふむ」
「宜しいですか教授。覚えておいでか分かりませんが、私は申し上げましたね。マルクフーディッヒなる人物のことを知ったのは、新山君が亡くなる前日のことだった、と」
「ええ」
「あなたのお話によれば、その呪印とやらで人を殺めるには最低でも一週間前後かかるとのことだ。しかも、材料を揃えるのにはかなりの手間がかかる。たった一日で殺しの材料を揃えるなど全く不可能です」
「…なるほどね。では、ひとつ時系列順に振り返ってみましょうか、先生。この事件がどこから始まって、どこで終わるのか。一つ一つ事実を積み重ねて行きましょう」
教授はもう一口コーヒーを飲むと、まるで論理学の講義をする時の様に、ゆったりと、但し有無を言わせぬ迫力のある言葉で話し始めた。
「そもそもとして。この事件の発端はいつか…そこから整理をしましょう」
「…」
「私と彼ー田崎君が図書館の地下で、新山君の遺体を見つけた。彼は下半身がほぼ完全に腐乱していて、苦悶の表情で死んでいました」
「その通りだ。とても見ていられなかった」
「では、呪印の要件より少なくとも犯人は、一週間前には彼が触れる様な場所に呪印を仕掛けておかなくてはならない。そして、その準備の為にはれよりも前に…この本の存在を知っておかねばなりませんね」
「そうだ。だが、私がそれを知ったのは新山君の死の一日前のことだ。震える彼の口から聞いたのが初めてなんだ。だから私が犯人であるー」
「下手な嘘をつくのはもうおやめになったらどうですか、教授。貴方が少なくとも二週間ほど前にその本を閲覧したことは、既に調査で分かっていますよ」
「何だと!?」
「…先に申し上げた通り、私達が例の本を見つけたのは、帝国大学の稀覯本資料室です。そこは盗難防止の為、利用者の身分証明はもとより、持ち物まで厳重に検査し、しっかりと記録を残す。そして、担当する司書もどうやらとても優秀な方々の様です」
「まさか」
「ええ。彼女は覚えていましたよ。前に来た、T…大学の教授、間時貞先生の名前をね」
「…」
「ですが、これだけでは貴方を犯人と断定するにはまだ及びません。どうしてこの魔術師のことを既に知っていることを隠し、嘘を吐いたのか。不自然ではありますが、今は追求しないことにしましょう」
「…それで?」
「次はね、先生。貴方がいつあのヘーゲル全集に呪印を仕掛けたかの話をしましょうか」
「それもわかると?」
「ええ。図書館というのは実に素晴らしいものです。図書の貸し借りは無論、人の出入りもすぐに分かる。特に弊学の図書館は余りにも出入りが少ないですからね」
「なるほど」
「事件発生から十日前と一週間前の図書館の貸出・返却と入場の記録を調べました。すると、そこには驚くべきデータがありましたよ」
教授はカバンから四枚の紙片を取り出して間先生に示した。一、二枚目には図書館の入場者を示す学籍・職員番号と、その番号が入った時間が印字され、残りの二枚にはその日貸出・返却がされた本の資料番号とその相手が示されている。
「まず十日前の入場・貸出記録をご覧下さい。そこにはしっかりと、貴方の職員番号がある。貴方が借りた資料はー『ヘーゲル全集 大論理学』と『精神分析学 上』の二冊です」
「それが何か?」
「続いて事件発生一週間前の記録です。ここにも貴方のデータがある。だが、見るべきはそこではなく貴方の他にもう二人ほどー見覚えのある学籍番号があることです」
「この番号は…」
「新山君、そして小谷君です。偶然にも彼らは、貴方が資料の返却手続きをした直ぐ後に入場している様ですね」
「だが、それが一体なんだというんだ!?」
「黙って聞け!」
教授の剣幕にたじろいだか、間先生はぐっと後ろに揺れて、倒れる様に席に座り込んだ。
「…私の仮説では、二人が呪印に感染したのは一週間前、つまりこの日なんですよ。そして、それには彼ら二人がこの日全集を実際に手に取る必要がある」
「それで?」
「…私は考えました。もしかしたら、貴方が、貴方自身が、図書館の地下でその本を二人に手渡したのではないかとね」
「…」
「無論これは、推論の上の推論です。明確な証拠にはならない。しかし、たった一つ確かな事実があります。それはー」
「それは?」
「彼らが呪いによって体を蝕まれながらも大学に来て、ヘーゲル全集を手に取っていたということです」
一見無関係に見える二つの事実。それが未来の時空において結びつけられ、事件の真相を導き出そうとしている。
「教授。貴方は『彼らからマルクフーディッヒのことを聞いた』と言いましたが、それは嘘でしたね。貴方は事件のずっとずっと前から、そのイかれた男のことをご存知だった。そしてもう一つ、貴方は大きな嘘を吐いた」
「…」
「そもそもとして彼らは知らなかったんです。だから彼らはあの地下図書館で、ヘーゲル全集に縋って死んだのですよ」
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