第9話 観察と経験

 翌朝。あの地下書庫で呪われた遺骸が発見されてから今日で四日目だ。依然としてテレビのトップは母校での連続不審死であり、警察は未だに何も掴めていない様だった。捜査一課の恐らくは幹部であろう、老年の刑事の記者会見と母校の正門の様子が代わる代わる映され、アナウンサーやコメンテーターが的外れな意見を述べる。

「そういえば、事件が起きてからインターネットってどうなってるんでしょう」

「見ない方がいい。あそこは知性のゴミ箱の様な場所だ。上野動物園の猿山を見ていた方がまだしも有意義だと思うがね」

「は、はぁ…」

 教授は警察関係者の下へ行く為に、例の「おめかし」をしていた。リボンやブラウスなど、多少女性らしい服装をするだけで、彼女は普段よりも遥かに魅力的になる。若々しく、幼なげに見える顔の中に何処か無視できない大人の艶があり、私はその姿に飽きもせず見惚れていた。

「さて、行き先は警視庁だ。神田警部に話は付けてある。行くとしようか」

 教授はカバンに必要な物を詰めると、私にさっさと着いてこいと合図をした。あいも変わらぬワイシャツにくたびれた細身のズボンの装いで後に続く。

 大学最寄駅に到着し、改札を抜けて都心向きのホームに出ると、そこには意外な出会いが待っていた。

「おや、語先生、田崎君」

「間教授!」

 間先生はこの盛夏にも、一分の隙も無い背広姿でホームに立っていた。好好爺然としたその顔には一滴の汗も浮かんではおらず、伸びた髭に乱れた様子も無い。彼は目を細めて私達を見ると、差し支えなければどこに行くのか教えてくれないか、と訊いて来た。

「警視庁です。件の事件のことで少し」

「ああ、私もそうです。これから警視庁まで行って、二人のことについてまた詳しく聞き取りを受ける予定でして」

 そういえば、私達は二人とも事件の第一発見者であった。偶々昨日は事情聴取が無く、調査に集中出来たことから忘れかけていたが、実際のところいつまた警察に呼び出しを受けるか分からない身分である。

「もしかして教授、証拠品を見せてもらう話をつけたって…」

「いや、別にそれは関係無い。まあ、じきにまた呼び出しを受けることになるだろうが」

 教授は澄まし顔で私の質問を躱すと、間先生の方に向き直って、

「まあ、私達は第一発見者ですから。色々と話を聞かせて欲しいという人達がいるわけです」

 にこやかに笑みを浮かべて見せる。それに先生はどうやら納得してくれた様で、お互いに随分と苦労をしますな、と苦笑いした。

 そうして電車に揺られていくこと一時間あまり。同じ桜田門の近辺で降車した私達は、横断歩道を一本渡ったすぐ先にある目的地に到着し、三者三様の形でその姿を見上げたのだった。

「ほら、到着だ」

「ここが警視庁…」

 長いこと東京の辺境ーより良い言い方をするののらば郊外ーに暮らしていた私は、こうした二十三区の中心はテレビで見ることがあっても実際にやってくるのは初めてである。ましてや、一千万都市東京の治安の総元締めでかる警視庁に入るなど、考えるだけで身のすくむ思いであった。

「失礼、捜査一課の神田警部…名刺はここに。彼に取り次いで欲しいのですが。名前は語風子です、はい…」

 カウンターで形式的な手続きを済ませると、程なくして私達は間先生と別れて神田警部の下へ案内された。警部はここ数日間の激務のせいか顔に強い疲労の色を湛えており、力の無い声でやって来た私達を迎えた。

「お世話になっております、警部」

「教授…と、ええと、どなたでしたか」

「田崎です」

「そうでした、どうも。今回は情報を提供して頂けるということで」

「尤も、役に立つかは分かりませんよ」

「いえ、大丈夫です。今はどんな些細な情報でも欲しいですからね」

 ふう、と大きな息を吐いて伸びをすると、警部は長い廊下を通って私達を証拠保管庫へと案内した。彼の立ち会いが確認の必須要件だったらしい。

「ところで、あの二人の死因について詳しいことは分かりましたか?」

「全くと言っていいほど何も。一応二人とも通院歴があり、調べたところ上半身ないし下半身の細胞が少しずつ壊死する症状を呈していた様ですが、どれだけ調べても原因は分からず…」

「なるほど」

「哲学者からの観点としては、どの様にお考えでしょうか?」

「一応、ある程度の目星を付けてはいます…とはいえ、いずれもあなた方のお気に召すようなものではないと思います」

「聞かせて下さい」

「まあ、それは証拠を確認してからです。それ次第で私の仮説があっているか間違っているか、ある程度決まりますからね」

「なるほど?」

 厳重に鍵のかかった保管庫は、清潔だが無機質な壁に小さなロッカーが連なっている様な形をしていた。警部は幾つかのロッカーを通り過ぎた後、やがてそれを見つけ出し、暗証番号と自身のIDカードを読み取らせて開錠した。そして、徐に中から手袋越しに二冊の本を取り出すと、私達の待っていた小さな机の上に持って来た。

「こちらが、新山さんの持っていたヘーゲル全集、こちらが小谷さんのリュックから見つかったヘーゲル全集です」

「ありがとうございます」

 机の上に置かれたのは、あの時二人の死者が手に握っていた古びた函入りのヘーゲル全集である。新山の方には「大論理学」、小谷の方には「精神現象学 上」と記されており、中身の本自体も同じ物だった。

「ところで、警部。この本に素手で触れた人は居ませんね?」

「勿論」

「なら結構です。素手で触っていたら、ちょっと面倒なことになっていたでしょうから」

「それはどういう…」

 教授は自身も手袋をはめて手早く本を函から抜き出すと、紺色の表紙を撫でる様に触った後中を開いて調べ始めた。私と警部がそれを上から覗き込む。

「…すみませんが、あまり上から覗き込まれるとやりにくいので」

「おっと、これは失礼」

「すみません教授」

「そんなにヘーゲルを学びたければ、特別に徹夜で講義しますよ?」

「「結構です」」

 ほぼ同時に私達の答えを聞くと、少々機嫌を損ねたのか教授は軽く鼻を鳴らし調査に戻る。そして引き続きページを繰っていた彼女だったが、やがて「大論理学」のあるページを見てハッと目を見開いた。

「これは、何ですか教授」

「凶器ですよ。警部」

 ページの中央から一円にかけて、大きな円形の図形が描かれている。黒くまだ新しいインクで描かれたそれは、真ん中に下半身を塗りつぶされた人間のシルシを置き、それを中心を同じくする二つの円で囲んだ物だった。円と円の間には奇怪な文字列が連なっており、見て読みとこうとする者の心を波立たせる。

 教授に歩み寄ってページを覗き込んだ警部は、この呪印を見て呻く様に問いかけた。教授はごく簡潔に答えると、次いで二冊目の本「精神現象学」を開く。そして、こちらにも同じ呪印ーただし今度は上半身が黒く塗られていたーが大きく描かれており、その上には所々黒くこびり着いた指紋と手の痕があった。

 知らぬ者が見れば、なんてことのない奇妙な図形に過ぎない。しかし、それはある狂信者が自身の真理をこの世界に顕現させようと用いた小さな鍵であり、彼が神の息吹であると信じた異界の力によって人間を暗黒の地平へ誘う為の標識でもある。

 私は呪われたシルシを目に入れた途端身体中から冷や汗が吹き出し、思わず視界が歪む程の恐怖を覚えた。本能的に歯が震えて音を立て、膝が高らかに笑い出した。

「一体、一体何だと言うんです教授!?」

 私のただならぬ様子を見た警部は荒々しく教授に詰め寄った。彼女は額に浮かんだ汗を拭うと、声だけは冷静さを装って警部に言った。

「一つだけお願いが。この二つのページを、写真に撮って頂きたい。それをして頂けたなら、直ぐにでも真実をお話ししましょう」


 保管庫を出た後、私達三人は警部の案内で警視庁内部のレストランに移動した。教授はランチ代わりにナポリタンを注文したが、私は胃が裏返ったかの様な感覚を覚え、辛うじてカフェラテを一つ注文することができただけだった。一方警部もブラックコーヒーだけを頼み、それと負けず劣らずの渋面を浮かべて彼女を見つめている。

「それで…つまり貴女は、あの奇妙な図形は、亡くなった二人を呪い殺す為に誰かが仕掛けたものだと、そう仰るわけですね」

「煩雑な哲学の理論を省いて言うのならそういうことになる」

「何と言うか、その、大変申し上げにくいのですが…」

「仮にも大学教授がそんな戯言を、とでも言うんだろう。分かり切ったことだ」

「教授何もそんな言い方は…」

 気がつけば教授はリボンを頭から外していて、調子もいつものそれに戻っていた。遥かに年上の警部に対しても遙か上からものを言い、気に入らないものをはっきりと気に入らない、と放言する。

「よく覚えておくことだ冤罪死刑求刑予備軍君。基本的に警察というのは犯罪の立証に役立つ物の他は関心を示さない。従って、先程の呪印について懇切丁寧に説明し、仮に犯人のところにご案内したとしてもそれには残念ながら鐚一文の価値も無い。何故なら説明をした通り、呪術魔法の類は迷信犯ー不能犯だからだ」

「ちょっと、よりによって警察の中で…!」

「…」

 神田警部は迷いと困惑の表情を浮かべていた。果たして、こんな馬鹿らしい話に乗って良いのかどうか。しかし、かといって事件の手掛かりが他に有る訳ではない。例え犯人をこの手に捕まえられないとしても、せめてその真実だけでも掴みたい。そんな欲求が瞳に浮かんでいた。

「教授」

「ん?」

「もしも、もしもです。貴女が犯人を見つけ出したとしたら、貴女はどうしますか?」

「…」

 教授は意味ありげに微笑むと、警部の顔をしっかりと見据えて答えた。

「どうもしない。私の目的は犯人に罰を与えることではなく、一度膝を詰めて話すことだから」

「話す?」

「ええ」

「お待たせしました、ナポリタンです」

 湯気を立てるパスタにフォークを突き立て、教授は改めて宣言した。

「私は一度でいい。一度でいいから、弟子を殺した犯人の顔が見てみたい。それも、失われた哲学の秘宝を用いて…」

「…たったそれだけの為に」

「そう。貴方がたにとっては、確かにそうだ。だが、私にとっては、謎を解き、犯人の顔を見ることは何にも勝る至上命題だ。その為に、出来ることは何でもやる」

「…」

 警部は押し黙った。その間、教授はもぐもぐとパスタを口の中に放り込んでいる。気まずい沈黙の帷が私達の間に降りた。

「…教授」

「なんだ」

「もしかして、貴女は…もう、犯人に辿り着いている、そうではありませんか?」

「そう思うか」

「はい、何となくですが」

「…後一つだけ、ピースが足りない。それが揃えば、もうこの事件は解決する。外面は兎も角、内面はね」

「そのピースとは…?」

「何ですか、教授!?」

「…それは、事件が始まった場所。あの図書館の中にある。そして警部」

「はい?」

「貴方は既に、そのピースを手に入れている筈だ。それを使う」

 教授は最後の一口を飲み込んで笑った。それは、私が久しく見ていなかった、あの剽悍極まる知性の獣ー獲物を前に舌舐めずりをする狼の顔であった。

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