第8話 プネウマ
大学近くの私の部屋に戻ってきた時、時間は既に夕暮れから夜に移ろうとしていた。茜色の空は一分ごとにその濃さを増し、青みを帯びた夜の闇に支配権を譲り渡そうとしていた。
ヘトヘトになりながら階段を登り、部屋の鍵を開ける。しかし、中に入ってぐでんと休んでしまうことは許されない。私達はそのまま座敷へと移動し、買ってきた飲み物と食べ物をちゃぶ台に広げつつ、あの書庫で手に入れた知識の検討にかかった。
「まず、例の魔法陣…もとい、呪印について整理しておこう」
「と言いますと?」
「あれにはかなり詳細な条件と理論が設定されている。要は、単にめったやたらに書けば良いというものではない」
「なるほど」
教授は例によってカップのお酒を口にしながら、広げた大きなルーズリーフにメモを書き連ねていく。
「まず第一に、この呪印は直接モノに書いた時点では威力を発揮しない。具体的には、記載されたモノに呪いをかけるのだが、その呪いが発動するトリガーは『呪印に直接触れること』だ」
「なるほど?」
「本の記述によると、呪印に直接触れると、ボッと炎のようなものが上がり、次いで印の中央に示された半身の末端が壊死を始める。この壊死は少しずつ進んでいき、如何なる薬剤を用いても止める手段を持たない。そして、約一週間前後のうちに壊死が体の四分の一以上を侵すと、一気に反応が進んで半身が腐乱する」
「うっわ。一体どういう理屈なんですかね」
「そんなことはわからん。だが、前に言った通り知のあり方は科学的なもののみではない。科学とは全く別の次元、体系、理屈に基づく何かがあったとしても私は何も驚かんね。『超自然的』、というのは『超科学的』と言い換えて差し支えない、科学の外には何者も無いと思い込んでいる連中の戯言だ」
「ふーむ…」
「まあいい。本によれば、この呪印は『体の中に死を取り込む』ことで、生と死をぶつける止揚の発火点にすることを目的としているらしい。そして、彼らの使った言葉を借りるなら、この腐乱は『スピリトゥス』、君にも馴染みのある言葉で言うのなら『プネウマ』の作用で引き起こされるものだそうだ…まあ、世間的に分かり易い言い方をするなら『魔力』の様なものだろうか」
「プネウマ…確か、息吹という意味でしたっけ」
「そうだ。古代ギリシアから続く西洋の哲学の伝統の中でも重要な観念で、生命や魂、精神、聖霊など非常に広い意味を持つ。…呪印という道標を通してプネウマを体に取り込むことで、体の中に死を生じさせ、本来同居できないはずの二つのものを同居させることができる。そして、生と死が体の中で一つに合わさることで、人間存在そのものが新たな高みに昇る」
「正直よくわかりません」
「まあど平たく言うのなら。一つ、何も無い体の中に死を取り込むには特殊な力がいる。二つ、神の力であるプネウマーここでは世間一般的な魔力のようなニュアンスがあるだろうーを取り込むことでそれを成し遂げる。三つ、生と死を上手く結び合わせることで人間は止揚される。四つ、呪印はそのプネウマをコントロールする標識の様なものである。大体こんなところだな」
「でも、仮にプネウマとやらがあるとして、それが引き起こす死がどうして生と結合出来るんでしょう?」
「その辺についても書いてあった。『人間の生命の淵源は精神である。精神より生ずる霊的な力こそが生命の根幹である…そして、その力はプネウマと同質のものである』。まあ、ヘーゲル的な極めて難解な点を省いて解説するのなら、彼はそもそも人間の中にある種の『霊的』な何かが宿っていて、それが生の源泉だと思っていた。故に、同じ『霊的』な力を基とする呪印と調和できると考えていたんだろう」
「本当に訳がわかりません」
「ただこの辺りは非常に神秘主義的な様相が強く、ヘーゲルから乖離して、むしろ中世から古代末期まで『先祖帰り』している様にも思えるな。なんというか、わかりやすさを追い求めて逃げた感が否めない…尤も、結果として実際に作用を及ぼせる呪印を見つけたのは事実だ。その源泉がプネウマだろうがプシュケーだろうが、兎に角我々に見えない未知の働きかけによって体を腐敗させ、人を殺す恐ろしい効果を持つと言うことだけはわかる。それでまあお前には十分としておこう」
教授は呪印の哲学的基礎について次のように纏めた。
・止揚の観念や精神重視など重要な考え方にヘーゲル哲学の影響が見られる
・しかし、一方でプネウマの考え方などは極めて神秘主義的であり、『先祖帰り』、もっと言えば『難解からの逃避』じみた点が見られる
・とはいえ、実際に事件を起こせているのだから、マルクフーディッヒがそうした目に見えない何かの力にアクセス出来たのは事実とみられる
「で、次に纏めるのは現実的な呪印の使い方だ。さっきも言った通り、単に描けばいいというものではなく、複雑な条件が設定されているからそれを整理する」
「はい」
「まず、インクだが。ただのインクではいかん。術者の血液と、後何か…色々と混ぜ物をした上で使う必要がある。それも、そう簡単に手に入るものでもない薬品が必要な様だ」
「なるほど」
「これを万年筆か何かで描き、文字まで正確に写しとる。この文字は、流れ込む力の方向性を上手く操る為のプログラムのような物らしい。そして、真ん中にどの部分に力を流し込むかを示した図を描き入れたら作業は終了だ。後はこれを術をかけたい者に渡すだけでいい。仮に術者が死にでもしない限り、確実に呪いは発動する」
「でも、この本の図じゃあ、上下どっちが腐るか分かりませんよね」
「まあそこでだ」
教授は最後の一口をぐっと飲み干すと、こともなげに私に言った。
「明日、警視庁に行く。件の本の実物を見せて貰うんだ」
「はい!?」
「神田警部に頼み込んだらなんとかしてくれたよ…さ、込み入った話はここまでだ。晩飯にしよう。今日は何の出前を取るかな」
「流石に毎回では体に悪いので。帰りにパスタの材料を買ってあります」
「大変結構。私はニュースでも見て暇を潰そう」
「暇ならついでにお風呂沸かしておいて下さい」
「教授にやらせるなそれを!」
教授は強く抗議したが、私がパスタを茹で始めると文句を飲み込んで作業に当たってくれた。お陰で家事がスムーズに進む。麺が茹で上がり、一人分の大盛りが出来上がるとそのまま今度はレトルトパウチの支度にかかる。市販のミートソースに一手間加えただけのものだが、中々どうして堪らない味になる。
「出来ましたよ教授」
「こっちも今終わった」
部屋着の袖を捲った教授が風呂場から戻るのに合わせて、私は湯気を立てているパスタをちゃぶ台に乗せた。狭いテレビからは相変わらず大学で起きた不審死事件について的外れな報道が続いている。
「何かの祟り、ねぇ。あながち間違いでもないが、こんな見方を奴らは取れまいよ」
「奴らっていうのは?」
「警察も、マスコミも、裁判所もだ。仮に私達が全ての真相を明らかにして、犯人に辿り着いたとしてもそいつは二人殺したことで罰を受けることは無い。こればかりは一昔前のほうが良かったかもしれんな」
「不能犯というやつですか」
「そうだ。その行為と殺害の因果関係が証明できないからな。かと言って、裁判員のすぐ前でやって見せるわけにもいかん。それで死んだら大ごとになる」
「じゃあ、どうして教授はわざわざ謎を解こうとしているんです?」
「…一つは、単に面白いからだ。哲学の理論が書物を飛び出し、謎という形で私達の現実を今まさに侵しつつある。哲学者としては、それを何もかも解き明かして自らの理論の真贋を見極めたい。誰だってそうだ」
「もう一つは?」
「これも簡単だ。こんな回りくどいやり方で、弟子を二人殺した奴の顔を見てみたいと思ってな」
パスタを食べ終わると、教授はベランダに出てまた一本タバコに火をつけた。そして、適当にふかして吸い終わると、今度は無愛想に風呂に入って寝るとだけ言い残し、風呂場へと消えていった。結局この日は、私が眠りにつくまで教授と言葉を交わすことは無かったのだった。
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