第7話 ある哲学者の生涯
「マルクフーディッヒ、マルクフーディッヒ…」
間先生と別れた後、私たちは再び部屋に戻って来た。事件の情報を連ねたメモ用紙には、再び大きな情報が書き加えられた。「心霊派」と「リーベ・マルクフーディッヒ」である。
教授は家に戻るや私に、部屋で彼について調べろと指示すると、自分は何やら分厚いリストと共に座敷へ籠ってしまって、ずっと携帯で電話をかけている。どうやら図書館や大学、研究室などにに片っ端から電話をかけて、彼に関する情報を探している様だ。
とはいえ、私も含めて調査の結果は芳しくなかった。インターネットで検索してみても、日本語はもちろんドイツ語でさえろくな情報が出てこない。言われた手前何も見つかりませんでした、ではどうしようも無いから私は必死で探し求めた。
或いは哲学者ではなく魔術師としてなら出てくるかも知れないと思ったが、それでも有用な情報は全くと言っていい程出て来なかった。気がつけば調べ始めてからおよそ二時間が経過し、日は高く登ろうとしていた。教授もほぼ絶え間なく電話をかけ続けているが、成果があった気配はまるで無い。そしていい加減疲れ果てた私は、強い眠気に惹かれてキーボードに危うく突っ伏しそうになった。
その時、
「え!あるんですか!?」
教授の甲高い叫び声が鼓膜に突き立ち、私はびくりと震えて目を覚ました。やがて彼女は電話口の向こうに話しかけて早速訪問の約束を取り付けると、何度も礼を言って電話を切った。
「もしかして、見つかったんですか?」
「まさかまさかだ。本当にマルクフーディッヒなるふざけた名前の人物が書いた本があるとはな」
「凄いですね」
「で、そっちはどうだ。何か見つかったか?」
「正直、碌な内容がありませんでした。ただ、強いていうのなら十九世紀の前半に、南ドイツの人名録にそういう名前の哲学者が居た事くらいです。それ以外にそんな名前の人はいませんでした」
「そのくらいで結構。心霊派についてはどうだ?」
「ええと、調べてみたところ、確かにヘーゲルの影響を受けたグループの中に、極めて宗教的な…そう、それこそ魔術を扱おうとしているという過激な連中がいたという話は見つかりました。但し、あくまでも批判するという文脈で…」
「そうだろうな」
「ただし、本人との関係性は分かりません。あくまで批判的な話の一つでしかないので」
「まあいい。少なくとも二つとも実在した可能性はある程度取れた…取り敢えず、これから出かけるぞ。昼飯ついでに、件の資料を探しに出かけよう」
「どこに行くんです?」
「日本で一番いい大学の図書館だ。そこの稀覯本資料室の中に、私達の目的が眠ってる。まあ昼飯がてら、付き合ってもらおうか」
私達は部屋を出るとそのまま最寄りの駅に向かい、電車に乗り込んで東京の中心部まで揺られていった。目的地は日本の誇る最高学府、国立帝国大学である。差し込む夏の日差しは容赦なく私達の体にまとわりついてきて、涼しいクーラーの効いた車内でも汗の球を生じさせた。教授の方を見てみると、彼女も暑さには辟易しているようで、何度も汗を拭いては髪の毛に手櫛を通していた。
「ところで教授。今から調べに行くのは一体何の本なんでしたっけ」
「一応は哲学書だ。一応はな。だが、中身が魔術書であっても私は驚きはしない」
「魔法ですか」
未だ事件の影さえも掴めていなかった頃、私はふと魔法の可能性について教授に話したことをその時思い出した。
「その、この前教授は『魔法』について触れていらっしゃいましたね」
「そうだな。お前の考えをいい考えだ、と褒めた」
「教授は本当に『魔法』があるとお考えなんですか?そんな非科学的な…」
「…」
教授は一度手櫛を髪の間に通すと、大きな失望のため息をついて私を睨んだ。
「やれやれ。随分とつまらないことを言うな、お前は。言うに事欠いて『非科学的』とは。見込みがあると思ったがそこまで酷い知能低下症を患っているとは知らなかった」
「ち、知能低下症…」
「ついでに神経障害と突発性脳軟化忘却障害もつけておいてやる」
久しぶりの過激な毒舌に思わず私は硬直してしまった。忘れていた、そういえばこの人は学生の心や人格などその辺の石ころ同然に扱う哲学者だった。
「ど、どういうことですか?非科学的って言う指摘のどこが…」
「何もかもだ。『非科学的』という言葉をお前は今非難のニュアンスで使った。そこにあらゆる自然科学以外の学問への侮辱がこもっている」
「…説明していただいても良いですか」
私の声の中にある挑戦的な色を感じ取ったのか、教授はあの犬歯を剥き出しにした笑いを浮かべた。電車の長椅子が即席の哲学教室になろうとしている。
「そもそもとして。『science』という言葉はラテン語の『scientia』、知識という言葉に由来する。そして、それを科学と訳したのはお前も知っているだろう西周だ。彼は『様々な学問の集まり』として、『科挙之学』に由来するこの語を使った。つまり、科学とはあらゆる知識、あらゆる学問の意味を含むわけだな」
「なるほど」
「しかし、それが哲学や法学、文学などと別のものとして扱われる様になったのは、科学の一分野である『自然科学』の伸長に理由がある。尤も、自然科学自体も『自然に属しているあらゆる対象を取り扱い、その法則性を明らかにする学問』だと広辞苑では言ってあるがー自然科学に含まれる医学や生物学、物理学などが持て囃されるにつれて、これらごく狭い領域の学問、言い換えるのなら方法論のみが『科学』として持ち上げられるようになり、やがて他の学問に対する優位的な立場を占めるに至った」
「…」
「そもそもとして、西洋型科学の祖先とみなされる古代ギリシアの学者達は、お前も知っての通り『科学者』ではなく『哲学者』だった。彼らは知を愛するという『φιλοσοφία』の営みの一つのやり方として自然を観察し、実験を行い、その分析と理論に基づく探求を行った…しかし、ニュートンやガリレオと言った最後の『自然哲学者』の時代、有名な言葉を借りるなら『科学革命』が起こったことで、その構造は大きく代わった。神学的な宇宙のあり方は覆され、目的論的な自然論ーアリストテレス達がどうして天体が運動するかを追求した様なーはお払い箱になった…そして、科学は一つの独立したものとして歩き出した。近世から近代の急速な技術の発展、欧州中心の世界の発展の中で『科学』は元々の場所から大きく羽ばたいて、人々の価値観に深く根を下ろしたわけだな」
「つまり…元々科学は哲学の一分野だったのに、いつの間にか別の学問になってしまったってことですか?」
「そう『見える』だけのことだ。科学というのはさっきも言った通り、世界を人間が理解できる様に記述し直す方法の一つだからな。そして、科学の各分野は文字通りその部分だけを切り取って書き直すということだ。その『書き直す』仕方が素人目には哲学に見えないだけのことで、科学は今でも哲学の…φιλοσοφίαの一つのあり方に過ぎない」
所々曖昧な言葉を使いながらも教授は自分の考えを説明してくれた。彼女は科学と哲学を分離して考えることはよくない、また科学は哲学の方法論の一つであり、他の方法論に優越するものでも劣後するものでもないことを繰り返し私に言った。
「所謂『科学主義』という言葉でポパーやハイエクが批判をしているが、科学のみを絶対の真実として、他の価値観に優越するものであるというのは単なる思い込みに過ぎない。何度も言った通り、科学とは方法の一つ、知のあり方の一つなんだ。ハイデガーの指摘した様に、科学技術によって思考の枠を嵌められてはならん。科学の外の世界は無ではない。それ以外の知によって見える世界が間違いなくあるはずだ…私が常々、論理は言葉を超えるというのはそういう意味だ。私達が普段それだけと思っている場所を超えたものがあって、それでこそ見ることができるものがある。私が『魔法』と言ったのは、そういうものだ」
教授は言いたいことを言い切って、懐から出した水を一口飲み込んだ。「魔法」。非科学的な迷信として、歴史のゴミ箱に追いやられつつあるもう一つの知の体系。彼女は事件を解き明かす鍵として、科学に対し同格の力を持つ武器として、それを過去から呼び戻そうとしていたのだった。
帝国大学の門を潜った時、私はいい知れぬ威圧感に囚われて、前へ一歩踏み出すのにも非常に大きな気力を必要とした。目の前の銀杏並木と両手に広がる古い様式の建物達。真正面には大学のシンボルである背の高い赤煉瓦製の大講堂が聳え立っている。それはこの国における知識の殿堂であり、千年以上にわたる高等教育の伝統の結実でもあった。
私の様な底辺の学生が足を踏み入れて良い場所ではない。私はそう思って何度も二の足を踏んだが、教授はその様なことを構わずにずんずんとキャンパスの奥に向けて歩いていき、やがてゴシック様式と近代様式が折衷になった特徴的なファザードの建物の前で足を止めた。
教授は私を連れてシャンデリアが照らす図書館の中に入ると、真っ先に中央のカウンターに向けて早歩きで向かった。そして、スマートフォンで保存した画面を見せて、私と共に稀覯本資料室での閲覧を申請する。
「閲覧したいのはマルクフーディッヒの本だ。東京中調べたがここにしか無かった。邦訳も無いらしい」
「はい、語風子様…あら、T…大学の方なんですね」
「そうだが…何かあるのか」
「いえ。実は、前にも同じ大学の方がその本を探しにいらっしゃって」
「何!?」
思わず教授は大声をあげて司書に詰め寄った。栗色の髪の可愛らしい女性は、自分よりも年下に見える金髪の少女に剣幕で詰め寄られ戸惑いの声を上げたが、やがて少し前に訪れたという私達の大学の同胞の名前を口にした。
「なん…その人だけか?本当に」
「え、ええ。もし必要なら、本ごとの閲覧者記録をお出しすることもできますが…」
「い、いや結構だ。ありがとう」
教授は真っ青になって私のところへよろめきながら戻った。そして、うめく様に呟いた。
「どうやら、どうやら私達は知らない方が良いことに首を突っ込んだらしいぞ」
兎に角も。私達はあの司書の案内で稀覯本資料室の中に入った。ここは、帝国大学図書館が有する数百万冊の蔵書の中でも特に貴重な代物ー世界でここだけにしかない資料が千以上ー保存されていて、盗難・火災対策は無論のこと、少しでも本の劣化を防ぐ為、温度管理や湿度管理も厳重に行われている。
中の電動書架は一つ一つが厳重な金庫並みの耐久を持っていて、外の古めかしい外観からは想像できないほどに近未来的な見た目をしている。そして、司書は幾つかの書架を抜けた先にあった一つの操作盤に触れ、手早くパスワードを入力した。すると、シュー、という排気音と共に棚が私の大学よりもずっと滑らかに動いた。
「ひゅう。さすが日本一の大学ですね」
「うちとは予算の桁が違う。文字通りの意味でな」
「本は今お持ちします。写真を撮る際はお申し付け下さい。但し、無料で撮影できるのは十ページまでです」
「百万円払うから一週間貸してくれないか」
「禁帯出です」
教授のジョークを軽く受け流すと、司書は手袋をはめて本を持ってきた。古い紙の匂いが鼻をつく。
「ではどうぞ。お触りになる時は、この使い捨ての手袋をお使いください」
「ありがとう」
教授は自身も手袋をはめて本を受け取った。そして、部屋の隅にある閲覧用の机にそれを置く。
「随分と古い装丁だな。十九世紀の本だとしても古風に過ぎるぞ」
本は非常に古風な装丁だったが、同時に極めて質素だった。おそらくは金文字で入れられていた筈のタイトルはとっくに擦り切れていて、薄黄色の革製表紙は経年劣化で所々茶色になっている。
しかし、私にとって最も気になったのは、その薄黄色の表紙に所々見えるポツポツとした小さな点の集団だった。それは密集して現れたかと思えばすぐに消えて、あちこちに不規則な島を形作っていたが、私にはどうもひどく見慣れた様なものの気がしてならなかった。正しくその可能性を考えた時、私の肌にぞわっと立つものと同じ…。
「なあ、これはまさか、人皮装丁本ではないだろうな?」
「そう見えます?でも、これ牛の皮を舐めした後に黄色く色付けしたものなんですよ。ハーバードの本と同じですね」
「なるほどね。良かったな、人の皮では無かったぞ」
教授はニヤニヤと私に笑いかけながら本を開き、詳しく検めた。タイトルはラテン語で、後から教えてもらったその意味は、「ヘーゲル哲学の精神性とその現実的応用手段についての考察」だったらしい。
「ほう、ラテン語だな」
そう驚きながらも教授はスラスラと複雑なラテン語の文章を読み解いていき、必要と思われる部分を素早く手元のノートに筆写していった。私は何が何やらわからなかったが、所々に「Deus」であったり、「Homo」といったどこか見覚えのある単語が出ていたので、ごく僅かではあったが内容を推測することができた。どうやらこの書物の著者である魔術師は、間先生の与えてくれた情報の通り、ヘーゲルの弁証法と発展の概念を現実の人間に対して応用しようと挑戦した人間だったらしい。そして、その方向性は科学的なものではなく、むしろある種の伝統的回帰ー魔法とも言うべき手段によって、人間存在を止揚しようとしていたのだった。
「ふむふむ、ここを見てみろ。『死へと打ち克ち、不死となり、神のみもとに』。或いは、『生きながらにして、死を経ずして我らは高みへと昇る』。ヘーゲルの唱えたキリスト教的価値観に対する凄まじい挑戦だ。こいつはどうも、青年派どころの話ではないぞ。此奴はヘーゲルに影響を受けたと言いながら、その神学をボロボロに否定しようとしている!」
教授の頬は再び知的興奮によって赤くなっていた。それもそうだろう、私達の紐解いたあの本はまさしくキリスト教という宗教そのものに対する凄まじいまでの冒涜的な言辞を連ねて、その上に自らの哲学的思想を築いていたのだから。
「この恐ろしさがわかるかね。これまで、死ぬことに打ち勝ったのはイエス・キリストただ一人なんだ。人間は皆一度は死んで、最後の審判の日まで待たねばならない。しかし、此奴は魔法によってそれを乗り越えようとしたんだ。魔法によって人間自身を不死の存在へと止揚し、神の国を実現できると信じていた!」
「魔法、まさか本当に…」
教授は一ページ一ページ慎重に捲り、舐める様にして文章を読み解いていった。そして、最後の方のあるページに差し掛かると動きを止め、徐に貸し出されているカメラで一枚写真を撮った。そこに記されていたのは、なんということか、あの二人の哀れな学生が無惨な姿になった、その真相だった。
「見ろ、このページを」
「これは、魔法陣ですか?」
「いや、正確には呪印と言うべきものだ。これを本か何かに仕掛けて、その物自体にある種の呪いをかける。そして、その物に触れたことで始まった呪いが、呪印に直接触れることがトリガーとなって発動する仕掛けなんだ」
見開きのページ、その右側には大きな円形の印が書かれていた。それは大まかには二つの大小の円が二重になっており、その間に未知の文字で何か文章が記されている。だが、最も目を引く異様なシルシは、真ん中に描かれた「半分に切断された人間」の簡略化された図像であった。
「ですが、こんな物一体どうして…」
「それは、これまでの文章に書いてある。止揚だ。その為に仕掛けられた呪印だよ」
「止揚…」
「そうだ。矛盾したものを付き合わせ、『統合』と『破棄』を同時に行う。『切り捨てる』と共に『上へ昇る』。これは、一つの体の中に生と死を同居させ、それによって人間を超越的存在に向けて止揚する為の機構なんだ」
アウフ、ヘーベン。二つの単語から構成される哲学の用語が、まるで自身の体を捕える硬い鎖の様に私には感じられた。超越的な人間への飛躍、それ自体は目新しい思想でも、古臭いとして捨てられた理想でもない。彼らの前にも多くの人間が志向し、彼らの後にも無数の学者たちが挑んだ道だ。
しかし、それらが本の中から飛び出し、「あらゆる知を愛する」本当の意味での哲学の手段として現実に顕現されたことを思うと、私はえもいわれぬ嫌悪感ーもっと言うのならば、本能的な恐怖を感じ、冷や汗と震えが止まらなかった。
「この本を借りていけないのがとても悲しいな。一ヶ月、いや半月でいい。それだけあれば全部写本して徹底的に研究できるのに…」
悔しそうに教授が言うのに対し、私はこの本が持ち出し禁止であることに心の底から感謝した。私の部屋にこの薄黄色の皮表紙があると想像しただけで怖気が走るし、仮に一日でも本当に部屋に置いていたならば正気を失ってしまっただろう。
「だが、まあ仕方がない…ありがとうお嬢さん。大体知りたいことは分かった。おい、爆弾魔、一旦帰るぞ。帰って魔法に関する情報を整理する」
「え、あ、ちょっと教授!?」
本を閉じると教授は早足で歩き出した。事件の真相まで、あと数歩の距離まで来ている。そう確信した顔だった。
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