第6話 心霊

 翌朝。私達は再び大学に来ていた。どうやら大学は警察と協議の末、ある程度学生を絞った上での対面講義再開を掴み取った。事件のあった二つの棟に入居する学部学科は依然として目処が立たないか、もしくは非対面での講義を余儀なくされているが、一先ずは日常に戻りかけているというところだった。

 私はキャンパスの中を自分以外の学生が歩き回っているのをどこか新鮮な面持ちで眺めつつ、いつもの服装ー安物のスーツ上下に白のワイシャツ姿ーの語教授の後ろに続いて、学内の西側にある一号館理学部棟に入った。

 理学部棟はこの大学で最も新しい建物の一つで、どこかカビの生えた古臭さが拭えない文学部棟に比べて進取と清新の雰囲気に満ちた明るい造りが特徴だ。尤も、そこに通う人間がそうかは決して保証しないが。

 私達はエレベーターで十階窓際のカフェテリアに向かった。そこは最近の流行というやつだろうか、窓というより外側の壁一面がガラス張りになっていて、外の光が白と木材風味を基調とした室内のデザインによく映える様に出来ている。夜になれば夜景というほどではないが眼下に広がる景色や月明かりも楽しめたりするのだろう。

「窓の少ない文学部より健康的に見えるな」

「提供メニューはほとんど甘い物ですが」

「科学者というものは兎角糖分が好きなものなのだろう」

 偏見丸出しの会話をしながらテーブルの一つに着席する。教授はちゃっかりクリームのたっぷり入ったココアを注文していて、待ち人が来るまでちびちびと口をつけていた。

 そうして十五分ほど待っただろうか。カフェテリアの入り口に目的の姿が現れた。

「いらっしゃったぞ。間教授だ」

「おはようございます」

「やあおはよう…おはようございます、語先生」

「わざわざありがとうございます」

 間先生はいつもの通り好好爺然とした笑みを浮かべて私達のテーブルに座った。特徴的な白い髭に品よく後ろに撫で付けられた白髪。哲学者としてのキャリアはもう三十年になるらしい。

「語先生、先日の論文拝見致しました。いやあ、まさかあんな着眼点があるとは…」

「間先生こそ。今度五冊目の本を出されるとかで…」

 後で聞いた話だが、教授と間先生との関係は随分と長いもので、彼女によれば「五年前、アイヴィー・リーグの博士課程で知り合った」らしい。間先生はその頃既に哲学者として名声があり、講演者として呼ばれていたのだそうだ。

「さぞ良い大学の教員かと思ったら、こんな底辺の私立大学にいてな。とてもびっくりしたよ。馬鹿みたいな給料と泣き落としに負けてここに居たんだと」

 教授はタバコを吸いつつ、そう間先生のことを回顧していた。

「さて、語先生。今日わざわざ私を呼んだということは…もしかして、亡くなった二人のことについてですか?」

「勘が鋭い。その通りです先生…とはいえ、愛弟子を二人も亡くされたところにいきなりお呼び立てしたことは、本当に申し訳なく思っています」

「いえいえ。二人とも本当に優秀な学生でした…忘れない為にも、どうかお話しさせて下さい」

「ありがとうございます。私達は二人の死の謎を解く為に精一杯動くつもりです」

 教授は慇懃に答えると、間先生に幾つか質問を投げかけた。いずれも二人の学生に関係するものだった。

「亡くなった二人はドイツ観念論ゼミにいましたが、何をテーマにしていたんですか?」

「ヘーゲルです」

「ほう、先生と同じですね?」

「ええ。私としては難解なヘーゲルは人気が無かろうと思っていたのですが、二人も選択してくれてとても嬉しかったんです」

「ヘーゲル…」

 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル。十八世紀後半から十九世紀初頭に活躍したドイツの哲学者だ。弁証法、精神現象学、法哲学、論理学、形而上学、観念論、認識論など多彩な業績を残し、ドイツ観念論を大成させた大哲学者だ。彼の存在が近世哲学から近代哲学、ひいては現代の哲学にもつながる分水嶺となっており、今なお多くの学者が彼のことを生涯かけて追い求めている。

 間先生もそうしたヘーゲルを専門に扱う哲学者の一人で、特に弁証法的論理学を現実の科学や社会構造の研究に『逆輸入(語教授談)』しようとしている、と私は教授に教えてもらった。

「二人は止揚の概念に魅了されていました。二つの対立するものを掛け合わせ、統合し、切り捨てながら上へと進む。この敢えて矛盾を孕み、それを糧として上に登る哲学が大好きだったのです」

「よく覚えています…彼らは弁証法と、もう一つ螺旋状の哲学にも魅せられていた。何度か私のところに来て、アドバイスを求めていたことを思い出しました」

「そうだった。彼らはそれも好きでした。螺旋階段の様に事物が発展していく、というテーマと止揚の関係性を紐解こうとしていました」

「螺旋階段、ですか」

「ヘーゲルは物事の発展を螺旋階段に例えました。あれは上から見るとくるくる同じ場所を回っている様に見えますが、横から見ると上へと登っていく様に見えます。それと同じで、物事が変化し尽くすと原点に回帰する。しかし、それは前よりも進歩した形での回帰なのです、田崎君」

「螺旋階段を回っていく過程で無数の矛盾を孕み、統合、切り捨てを繰り返して上へ上へと昇る。…そうだな、人間の平均寿命のことを考えてみるといい。私達は今でも、生まれては死に、生まれては死にを繰り返す。しかし、これは単なる一本道の直線ではなく生物全体の生命のサイクルを形作っているわけだ…そして、私達は死ぬまでの過程にある様々な生への障壁…『アンチテーゼ』を止揚し、次の世代の寿命を延ばしていく。新しいワクチンの開発、ゲノム編集、クローン技術。これらは皆、人間の前に立ち塞がった生の障壁を私達の欲望で止揚した結果生まれたものだ。そして、結果としてある人間が死の原点に回帰したとしても、その次に生まれる人間はさらに長い寿命を生きられる。結果としてみれば、人類の寿命は少しずつ螺旋状に上へと登っていると言えるだろうな」

「なるほど…」

「私の研究しているシステム論も、多分に彼の影響がある。特に第二世代型システムにおける始まりと終点の回帰的構造は…おっと、失礼。話を続けて下さい先生」

「いえいえ…。大変興味深いお話だったので、つい聞き入ってしまいました…それで、続きでしたな。とにかく、二人はヘーゲルにのめり込んでいました。まるで、彼を教祖か何かの様にさえ思っていたんです」

「偶に居ますね、そういう手合いが」

「そして、やがて二人はある大きなテーマを見つけた、と私に言ってきました。私達の殆どが知らない様な、巨大なテーマがあると」

「そのテーマとは?」

「…ヘーゲル心霊派です」


 心霊の言葉は私の中でひどく異質なものの様に聞こえた。選択のドイツ語で何度か聞いた覚えのある言葉だったが、それがヘーゲルと結びつくことで極めて不吉な響きを帯びている様に思えてならない。教授の顔をチラリと見ると、口許こそいつもの通りにしているが、目はハッキリと獲物を捉えた狼の様な鋭い色を帯びている。

「ヘーゲル学派には多くの派閥がありますが、心霊派というのは聞いたことがありませんな」

「私も少し前まで存在すら知りませんでした。尤も、存在するかどうかも怪しいところですがね」

 ヘーゲルの思想を信奉する、或いはそれに強い影響を受けた学者は数多い。彼らは「ヘーゲル学派」と呼ばれる学術的グループを形成し、現代に至るまで大きな哲学的潮流を作り上げた。第一世代として一般的に知られているのは、彼の教えを忠実に受け継ぎ、その注釈と伝承に努めた「老ヘーゲル派(右派)」、一方時には彼の思想を批判的に受け継ぎつつ、新しい地平を拓くことを目指した「青年ヘーゲル派(左派)」。そして、両派の中間に立った「ヘーゲル中央派」の三つである。

 これらの三派は互いに批判や議論を繰り返しつつ十九世紀前半の哲学界を牽引して行ったが、やがて分裂と衰退、他学派への吸収を繰り返して歴史から消えていった。まず初めに独自の哲学的功績を残せなかった老・中央の両派が表舞台から姿を消し、次いで青年派が批判者たるマルクスの思想的影響下に入ったことで解体された。青年派は唯物論という形で新たな哲学の地平を切り拓いたが、結果としてそれが師匠の教えにとどめを刺したのである。

 十九世紀後半はヘーゲルのみならず、ドイツ観念論全体にとって冬の時代であった。

 しかし、二十世紀以降、マルクスの影響下に入った学者達が哲学的な思索から政治的闘争の地平に飛び立つにつれて、哲学の孤塁を守っていた老派、中央派の残党に再び光が当たった。彼らが残した師の知見を基盤とし、新たな潮流「新ヘーゲル主義」が再び芽吹くのである。

「…と言っても、これらはあくまでも大まかな区分に過ぎず、実際のところはそれぞれの学者ごとに全く違う多様な思想があります」

「確かにそうですね。シュミットの様に、ヘーゲル学派に分類されながらもその枠に留まらない活躍をした学者は多数います」

「そうした多様なポスト思想の中には、よりその精神的なーもっと言えば、スピリチュアルで、宗教的な面を強調したグループがあったのです。彼らは止揚と螺旋発展の概念を現実の人間に応用しようと考えていましたが、その方向性は非常に神秘主義的な…いえ、あえて誤解を恐れずに言うのなら、『魔術』を指向していたのです。それが心霊派です。尤も、その活動は殆ど記録に残ってはおらず、存在したとされる学者も大部分は老ヘーゲル派に分類されている…と、二人はそう言っていました」

「先生ご自身が、何か調査をなさったことはありますか?」

「一応は。ところが、二人のいう心霊派などというグループに迫ろうとしても、影も形も見えないのです。二人が参考資料として提示した文献も、何処をどう探しても見つからない」

「どんな文献ですか?」

「二人によると、幾人もの学者が著書の中で批判的に言及をしている、というんですが、その文献をあたってみても見つからないのです」

「底辺学生特有の大ボラではないですか?」

 一瞬興味の色を示した教授だったが、参考文献も無いあやふやな説であることを知ると途端に冷淡に戻った。彼女は変人ではあるが研究者だ。どれほど権威のある名前を出されようとも、それだけで納得するわけがない。

「私もその様に…いえ、そんなあからさまに言ったわけではありません。ただ、君らの提示した文献は余りにも信頼性が低過ぎるから、もっと良いものを持ってくる様に、と伝えました」

「そうしたらどうしましたか?」

「二人はある名前を提示しました。この人物こそが、心霊派の代表的人物である、と」

「その名前は?」

「確かメモが…ああ、ありました」

 間先生は小さなメモを取り出して、名前を読み上げた。それは奇妙で発音しづらく、本当にこの世界の言語なのか疑わしくなる様な、そんな名前だった。

「リーベ・マルクフーディッヒ。彼らが唯一挙げた『心霊派』の学者の名前です。新山君が亡くなったのは、その名前を私に告げた翌日のことでした」

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