第5話 洞窟の影

 私の下宿は大学から歩いて五分、街の大きな公園のすぐ側にある。部屋のある四階からベランダに出ると、住宅街を照らす街灯と真っ黒でこんもりとした公園の森のコントラストを見ることができるが、余り気持ちを刺激される様な風景ではない。

 部屋の構成は四畳半の座敷が一つ、そこから極めて短い廊下(兼台所場)を抜けてもう一つ六畳間ほどの部屋がある。なお、トイレと風呂は一応別だが両方とも非常に狭く、特に風呂は膝を折ってぎりぎり座れるくらいだ。また、この部屋はビルの突端に位置する角部屋であることから玄関は非常に窮屈で、ちょっとした物を置いただけでアクセスが至極面倒になる。家賃がべらぼうに安いこと以外に特段の魅力が無い、そんな部屋だった。

 そこに人を招き入れたことは何度かあるが、女性が敷居を跨いだことは一度も無い。ましてや、教授をこの荒れ果てた部屋に入れようなどとは考えたこともなかった。

「…まあ、どうぞ」

「世話になる。着替えの類はなんとか持ち出せたから心配無用だ。洗濯機はあるか?」

「あります」

「風呂は?」

「一応あります」

「…ちなみにトイレは?」

「辛うじて別です」

「よかった。何しろあまりにも玄関が狭いのでな。不安になった。荷物はどこに置けばいい?」

「座敷の方にどうぞ。向こうの部屋はゴミ溜め同然の状態なので」

「何があった」

「主に本です」

 教授が中に入ると、薄暗く沈澱していたカビ臭い部屋の空気がぱっと華やいだ気がした。ヘビースモーカーで自称大酒呑み、空気が良くなる要素など一つも無いのだが、不思議と彼女が居るだけで空気が二段階ほど明るくなった感がある。

「よっしょ。まあ長居はしない。どうせ週末には自宅に戻らなきゃならんからな」

「ご自宅はどこに?」

「埼玉の田舎だ。ここから電車で一時間は余裕でかかる。一応家政婦を雇ってはいるが、住人が居ないと何かと面倒なんだ」

 教授は持ってきたジャケットをハンガーにかけると、早くも自分の家のように寛ぎ始めた。近くにあった座布団を引き出して座り、帰り道のコンビニで買ったカップの日本酒とおつまみのさきイカなどを出し、大きくもないテレビを付けて見入っている。完全に仕事帰りの中年であった。

「夕飯はどうしますか」

「なんでもいい。出前を取るなら纏めて金は出す」

「分かりましたっと…。ピザでいいですか?」

「結構。フライドポテトと甘味も付けてくれ」

 私は側に転がっていたピザ屋のチラシを手に取ると、子供向けのピザを二枚とフライドポテト、それからプリンを電話で注文し、自分も部屋着に着替えた。

「教授。お酒を飲むのは結構ですけど、あんまり派手にやるのはやめてくださいよ。大家さんにバレたらことですからね」

「私は成人済みだから問題無い」

「それ買う時も何度も身分証明求められましたよね。免許証、パスポート、大学職員証その他諸々」

「そろそろ住民票の写しを持ち歩くべきかと考えている。まあお前も座れ」

「ここ俺の家なんですけどね!?」

 教授が鷹揚に寛ぐ一方で、私はといえば大学で起きたばかりのあの事件の感触が生々しく残っており、あまり明るく振る舞うことはできなかった。死体を見た時のあの不気味な冷徹さの代わりに、今更になって悲しみと同情の気持ちが浮かんできたのだ。凄惨さに対する私の感受性はとっくに乾き切っていたが、他人の境遇に対する同情や憐憫の心は未だに心の奥底に蟠っていた。

 彼は一体なんの因果であの様な無惨な死を迎えることになったのだろうか。それを思うと私は笑顔一つ浮かべることも出来なかった。届いたピザを齧りつつ、教授とお笑い番組を眺めている時でさえそうだった。

「そういえば風呂は沸いてるか」

「一応沸かしました。入りますか?」

「じゃあそうさせてもらう。何から何まですまないな」

「いえ、大丈夫です。それよりも、お酒飲んだ後なので気をつけてくださいね。まだお若いので大丈夫だとは思いますが…」

「心配ありがとう」

「タオルとかはお風呂脇の棚にあります。洗濯機がないので洗濯物はまとめて袋に入れて置いてください。明日コインランドリーまで洗いに行きます」

「分かった」

 教授が狭苦しい浴室に消えていくと、私はチャンネルをニュースに変えた。メインはやはり私達の大学で起きた事件のことーマスコミは事件ではなく「遺体が発見された件について…」と内容をぼかしていた。おそらく警察も情報を伏せていたのだろう、奇怪なあの現象についてのコメントは何も無かった。

「…」

 私は黙ってフライドポテトの残りをつまみながら、ぼんやりと画面を眺めていた。映る見慣れた大学の正門はどこか遠い場所の様で、一昨日までの平和な様子を切り取って凍らせたのではないかとさえ思えた。

「おい」

「は、はい」

「出た。お前も早く入れ」

 急に後ろから投げかけられた声に驚くと、そこには頭をタオルで包んだ教授が立っていた。服装は持ってきたのか古いジャージの上下で、ちょこんと覗いた髪の毛は湿って滴をぶら下げている。頬は湯気に当てられてほんのりと色づいていて、どこか兎を思わせる可愛らしさだった。

「まともに風呂に入ったのは久しぶりだ。お陰でよく考えをまとめることができたよ」

「それはよかったです」

「ひとまず明日やることは決まりだ。間教授に話を聞きにいく。彼はきっと私達の知らない何かを知っているだろうから」

 教授は得意げに言った後で、忘れていた様にその根拠を付け加えた。

「小谷がわざわざ死にかけてまで大学に来たのは、彼があの死斑を解決する手段がここにあると思っていたからだろう。それを探しに行くんだ。いいな?」

「は、はい」

「じゃ、私はもう寝る。明日の朝は早いからな。座敷を使ってもいいか?」

「ええ。俺は自分の部屋で寝ますから」

「布団を貸せとは言わんが、毛布か何か一枚無いか?」

「はい、ありますよ。ちなみにエアコンはこの家一台しかないので窓開けておいて下さい。ここ四階なので多分大丈夫です」

「おいおいどんな暮らししてるんだ。いっそウチに書生兼召使として居候に来た方がいいんじゃないか?」

「前者はともかく後者は勘弁してください」

 私はテレビを切って流し台で歯磨きをすると、教授におやすみなさいを言ってそのまま部屋に引っ込んだ。常に犬が引っ掻き回した様な惨状の部屋を適当に整理して、そろそろ洗わなければカビが生えそうな布団を敷いて中に潜る。部屋の中は蒸し暑く気分は不快だったが、タイマー設定のエアコンが何とか生存を確保してくれていた。

「何というか、大変な二日間だったな…」

 天井を見上げつつ私はそう独りごちた。尤も、まだ事件は終わってはいない。明日は間教授…亡くなった二人のゼミの教員に話を聞きに行かなくてはならないのだ。事件はまだ始まったばかり、しかし教授の推理である程度道らしきものが見えてきた。余りにも細い糸ではあったが、私はそれに縋るより他に無かった。


 それから少し時間が経った頃。私は耐え難い蒸し暑さの中で目を覚ました。パジャマがわりの下着は汗でじっとりと体に張り付いていて、汗と皮膚とが触れ合って強い痒みも感じる。

「(仕方ない、水でも飲んで気分を変えようか)」

 そう考えて起き上がり、部屋を出て流し場の水道に向かう。すると、半開きになった座敷の障子の向こうから、ひんやりとした夜の風が吹き込んでいた。教授はもう寝てしまっただろうか。ふと気になった私は、戸の向こうから座敷の中を覗いた。

「あれ…教授?」

 しかし、そこに教授の姿は無かった。打ち捨てられた毛布が所在無げに転がっているだけで、畳の上には誰もいない。代わりに私が窓の方を見ると、靡くカーテンの向こう、酷く狭苦しいベランダに人の影があった。

「教授?どうしたんですか?」

「…邪魔をするな。せっかく気をつかってベランダでタバコを吸ってやってるのに」

 カーテンを開けて外に向けて煙を吐く教授は、決してこちらに顔を見せようとはしなかった。しかし、その声はどこか震えていて、いつもらしからぬ弱々しさだった。

「教授。もしかして、泣いて」

「そんなわけがあるか。私だぞ。大学一の天才で、大学一性格の悪い哲学者だ。そんな私が、毎年来ては去っていく、一学部生如きの為に涙を流すとでも?」

「…愚問でした」

「ならいい。お前も早く寝ておけ」

「はい。でも教授…シケモクは体に悪いですよ」

「…心しておく。だがあいにくと、この湿気のせいでな。どれに火をつけても湿気っている。お陰で煙が目に沁みるよ」

 私達はこれ以上言葉を交わすことは無かった。しかし、行く時と戻る時とで、間違い無く私の中で何かが変わった。少なくとも、事件の裏に広がる暗黒の世界を恐れる気持ちは、微塵も無くなっていたのだった。

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