第4話 鶏口牛後

 小谷正一郎という学生のことを知っている人間はこの大学にも決して多くはない。彼は文学部哲学科の二年生で、亡くなった学生と同じドイツ観念論を専攻していた。体つきは中肉中背、顔つきは年相応の若々しさと諦念が入り混じっている。卓越した勤勉さがあるわけでもなく、常軌を逸した怠惰な人物でもない。正しく彼は何処にでもいる学生だったと言っていい。

「君はこの男のことを知っているか、異端」

「…全くと言っていいほど知りません。ただ、哲学史の先生と廊下で話しているところを見た覚えがあります」

「間教授か。あの人の専門は本来ヘーゲルとハイデガーだからな」

 ホワイトボードの事項を整理しながら教授は言った。既に情報は大きく書き換えられ、事件の様相は様変わりしていた。元は単なる「異様な死体」から、人間が生きながら腐った「奇妙な事象」へと検討の対象が変わったのである。

「実際のところ、人が生きながら腐ることってあるんでしょうか」

「生きながら腐る、というより」

 教授は器用にペンを回しながら呟いた。

「人間はあらゆる小さな生き物の棲家になっている。例えば毛穴に棲むダニや髪につくシラミ。ないしは耳の奥にカビが生えた例もたくさんある」

「カビ…」

「後は、腸内に住む腸内細菌も良い例だ。細菌のおかげで消化器は上手く回るが、バランスが崩れると腹痛を起こす」

「でも、そうした菌や微生物を飼っていても、人の身体は腐ったりしませんよね」

「それは免疫系統と細胞にきちんとエネルギーが届いていることが理由だ。どちらかが不調をきたすことで体に変化が起きる…まあ、基本的には細胞にエネルギーが届かないことで形が崩壊し、それを餌に微生物が増える、というイメージでよかろう」

「ふうむ…」

「まあ取り敢えず。今現在現場で分かることはこのくらいだ。これより後のことは目撃者の詳しい証言を検討しなきゃ始まらん」

「目撃者。…小谷先輩ですか」

「そうだ。後もう少しで研究室に来るはずだから準備しろ」

「え!?警察の召喚があるんじゃ」

「その後で来るように言った。彼らは動きが早い、もう彼は呼び出されているだろう」

 教授はそう言って、本来禁止されている研究室内でタバコに火をつけた。本に燃え移ったらどうする、という危機感が彼女には決定的に欠けているらしい。そして、暇な時間を潰す為か、今度は下の段ボールから唐津焼の皿を取り出して眺めていた。

 結局、小谷正一郎が姿を現すまで随分長い時間がかかった。窓から見える風景は昼を通り越して夕暮れにかかりつつあり、灰皿に一本置かれた吸い殻はいつの間にか五本分に増えていた。かくいう私も最初は緊張感を持って待っていたが、段々とそれが緩み、気がつけば船を漕いでいた。

「あ、あの」

「…ん、あ、はい。どなたでしょう」

「お、お呼びを受けてきました、お、小谷と言います」

「教授、小谷さんが来ました」

「入りたまえ」

 扉を開けて入ってきた小谷の風体に、私は目を見張った。頭に被っているのは灰色のニット帽、顔には黒いサングラスに下半分をすっぽり覆う不織布マスク。これだけでも十分に怪しいが、服装はさらに異様だった。この盛夏だと言うのに分厚いジャンパーを着て、首元には目立つ赤色のマフラーを巻いているのだ。蒸し暑い東京の夏に一人だけ冬の北海道から転移してきたかの様な格好で、小谷青年は私達の前に現れたのだった。

「小谷君だったか。警察に呼ばれて大学に来たのだろう。ご苦労だったな」

「は、はい。その、お、同じゼミの仲間が亡くなったのは、かか悲しいですから」

 マスクの向こうから聞こえる声は酷く震えていて、非常に聴き取りづらい。しかし、意外にも教授はにこやかな態度を崩さず、彼に対して質問を続けた。

「それで、君は死体が見つかるちょうど一時間ほど前にヘーゲルの本を借りているが、亡くなった彼とは会わなかったかね」

「え、えと、そ、そそっその…あ、会いました」

「会った。彼はどんな様子だったね」

「ええと…ふ、普通でした。普通に資料を、さ、探していて…」

「普通に資料を、ね。君はドイツ観念論のゼミにいるらしいが、今そっちではヘーゲルが流行っているのかい?」

「え、えええ。まあ。間教授が、へ、ヘーゲルを専門にして、い、ますから」

「ふむ、なるほどね…まあいい。君がヘーゲルの棚に行った時、彼はまだ生きていた。それは間違いないね」

「は、はい。け、警察にもお、同じ様に話しました」

 小谷は何度も頷いた。しかし、その態度はあまりにも不自然であり、私でさえ彼が何かを隠していると疑った。特に左手の震えは酷く、私が挨拶として出すようにと言われた茶の湯呑みがひどく揺れて、中身が溢れるのではと危惧されるくらいだった。そして、そのことに教授が気づかないはずがない。彼女はスッと目を細め、睨みつける様にして小谷に問うた。

「小谷君。一つどうしても聞かせて欲しいことがあるんだが」

「な、なななんでしょう」

「君、一体何だってこの夏の盛りにそんな服装をしているんだ?」

 それは正しく致命的な質問だった。教授にそれを問われた小谷は、一度ぴたりと震えを止める。そして一瞬の後、カッと目を見開き、ガタガタとより酷く震え出した。最初は左手だけだった振動が今度は両手へと広がり、マスクには唾液のシミがどんどん大きくなっていく。

「小谷君。落ち着いてよく聞きたまえ。これはあくまで私の推理だが…君は今ちょっと面倒なことになっているだろう。それこそ、そんな風に体を隠さなきゃいけないようにね。だが、そこを敢えて頼もう。一旦それを脱いでくれないか?君の恥を見るのはとても忍びないが、君と君の友達の問題を解決するために、それが是非とも必要なんだ」

 教授はパニックに陥りそうな小谷を宥めるため、その両手を掴み顔をじっと見つめて言い切った。それが彼の心にどのくらいの感銘を与えたかは分からない。しかし、彼女の真実を含んだ説得に彼の震えは止まり、吃りながら彼は承諾の言葉を吐いた。

「では、頼むよ」

 震える手がジャンパーのファスナーを下ろし、マフラーと共にぱさりと床に落とした。その瞬間、部屋の中に耐えがたい腐臭が広がる。私は思わず鼻を押さえかけたが、教授は微動だにしない。手は止まらず、次いでワイシャツに手をかけ、ついに最後の下着を脱いだ。

「なるほど、やはりそう言うことだったか」

 教授は感心する様に呟いた。その目は小谷の上半身ー左手から胸、首にかけて斑点の様にあちこちが壊死から腐敗を起こし、腐臭を放っているーに向けられていた。

「これはいつからだい」

「い、いっしゅうか、間前…ぜ、ゼミの後。本を返しに行って、い、家に帰ったら…」

「医者には?」

「な、何度も言って…で、でも原因はわからなくて…入院って言われても、お金も、なくて…」

「家で静養せずに大学までわざわざ来たのは何故だ」

「そ、そそ、それは…」

「言うんだ小谷。そこに大きなヒントがある、この死の斑点が全身に広がる前に…」

「ひ、ひろが、るっ…!俺も、俺もあいつみたいにっ…あ、あいつ、俺の目の前で、めの、目の前でっ…!」

「待て、落ち着くんだ!」

「い、いや、嫌だぁーァ!」

 瞬間、私たちは信じられないものを見た。小谷が断末魔の叫びを上げた時、各地に点々としていた腐敗がうぞうぞと蠢いたかと思うと、一斉に胸全体に広がったのだ。そして、それはわずか一秒ほどの間に頭部に達し、今まで私達が見ていた彼の顔の輪郭をどろどろの死肉と体液だったものの集合に変えた。黄色と赤色を呈していた頬は赤茶けた悍ましい色に変色し、肌は収縮して中の筋肉の残骸が露出し、その重さを支えきれなくなった背骨がばきばきとへし折れる音がする。そして、そのまま小谷だった物が大きく倒れ込むと、腐肉と廃血液の破片が部屋中に飛び散った。

 私は驚きのあまり声も出なかった。彼が急激に腐敗し、恐ろしい死を迎えたこともそうだったが、最も驚いたのは、彼の死に際して私の本能的な嫌悪感がほとんど働かなかった点だ。私はあまりにも冷静に目の前の「死体」を見つめていた。それこそ、道路の真ん中でひっくり返ったカエルのそれを見るように、私は冷然と彼だったものを見つめていた。

「…おい。今すぐにひとっ走り警部を呼んでこい。どうも、掃除が大変だなこれは」

 ころころと彼の眼球が教授の足元に転がった。彼女はそれを踏まない様に、小さく椅子を後ろに下げて、足を組み替えた。


 その後のことは余り詳しく語る必要も無いだろう。部屋に駆けつけた神田警部は、下半身のみがまともな形で残った小谷の遺体を見つけると、すぐに警官達を呼び出して現場を保存する作業にかかった。しかし、事件発生当時そのままに現場を保存できるはずもなく、何人かの警官が蔵書に足をぶつけたり、思わず踏んづけるなどして盛大に転び、現場を荒らして二方向から激しい怒声を浴びた。

 一通りの片付けと写真撮影が終わると、遺体は検視解剖に回される為部屋から運び出されていく。尤も部屋は引き続き調査のため封鎖されるし、例え終わったとしても極めて手間のかかる後処理無しでは使えそうにないが。

「さて、どうしたものかな」

「教授?」

「いや何、服は別にいい。正直このワイシャツとズボンと最低限下着があれば夏の間はなんとかなる。だが、研究室が無いとなると非常に面倒なんだ」

「と言いますと?」

「家まで帰るのが面倒くさい。資料を馬鹿みたいに大きい書斎から拾うのが面倒くさい。書きかけの論文も研究のデータも全部あそこのパソコンとデスクに入ってる。これで一体どうしたらいいんだ」

「正直な話、この事件で大学の再開はまた大きく遠のいたと思うので、そうお気になさることも無いと思いますよ」

「当分は論理学は休講だな。一先ず学内システムで演習を配信して…そういえば、お前試験は大丈夫なのか?全く心に留めていなかったが」

「まあなんとかなるかと思います」

 そう答えつつも私は新鮮な驚きを感じていた。語教授が、顎で使っている私の他の単位のことを心配する人の心があったとは。先程の凄惨な事件の記憶を上書きしたい心理作用も相まって、私は小さな感動さえ覚えていた。しかし、次の瞬間それは粉々に打ち砕かれることになるら、

「まあ、なら良いか。当分はお前の下宿に世話になろう。しばらく調査拠点として借りるぞ」

「…はい!?」

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