ありがとう心筋

草森ゆき

ありがとう心筋

 村橋は不定期に焼肉屋をハシゴする。今日は自宅付近にある個人経営店「炭火の中村堂」に向かっていた。個人経営は焼肉の○○、炭火の○○の○○の部分が店舗経営者の名字である場合が多いと村橋は思う。「炭火の中村堂」は「中村」さんであり、しかしそれではパンチに欠けると「堂」をつけたのだろうと訳知り顔をしながら暖簾を潜った。出迎えてくれたのは元気な笑顔の店主であり、名札には「中村堂」と書かれてあった。寺院のような名字で美しいと村橋は納得した。


 焼肉である。しかし村橋は取り分け肉が好きという訳ではない。好物は草だ。ほうれん草がマストだと常に思っているが近頃は千切りキャベツに塩昆布をかけて食っている。そんなことはどうでもよい。村橋はメニューを開き、店員を呼んだ。笑顔で現れた妙齢の女性店員が朗らかに注文を聞くと村橋は、

「ハツ三人前と生中とチョレギサラダ」

 迷いなく答えてメニューを閉じた。


 ハツ。村橋を捉えて離さない魅惑の部位である。本日の「炭火の中村堂」はハツ一人前がおよそ四百円。そこそこたなと村橋は一人で頷く。問題は味である。ところが然程味の違いがわからないため、実質村橋は何のハツを食べても満足している。

 村橋の常人ならざる特技──そう言ってしまって差し支えのない何か──はここからであった。

 村橋が一人鎮座する二人席へとやってきた三人前の牛の心臓は赤黒く輝き、皿の白さは店内照明を跳ね返して殊更眩しい。ハツから滴る血潮も美しい赤さを持っており一枚をトングで摘み上げると唾液のように糸を引きそれが、村橋の心臓の鼓動をにわかに速めていく。

 金網にハツを──乗せた。表面が音を立てて焼け始め、そのいっそ爽快である音声は屠殺場の様子を想像させた。実際は牛が悲鳴を上げて惨殺されることはない。屠畜銃を眉間に打ち込まれて失神し、その間に血を抜かれて失血死するためにある程度は安らかな解体が待ち受けている。だが村橋は聞いている。失神し、眠りながらも心臓は当然動いている──そうおれが今から口にする食物は牛の最期の断末魔と見ても遜色ない──最期まで生きた末の最期の脈動を確かに送っていた臓器こそが牛並びに生物において最も尊ぶべき器官なのである──と、村橋は完全に信じ切っている。

 ハツは時折染みのような小さな血を表面に出す。ぽつぽつと不規則に滲む血を村橋はじっと見つめてから、裏返す。いつも食べ時をあまりわかっていない男である。チョレギサラダと生中を半分ほど消費してから、村橋は金網一面に敷いていたハツの軍勢を小皿へと取り分けた。

 実食である──。村橋は一口食べ、咀嚼しながら目を閉じた。そして、タイゾウ……と頭に浮かべた。このハツを胸に収めていた牛の名前である。タイゾウは宮城の山奥で生まれ、牧場主に手塩に掛けて育てられる。タイゾウの好物はたっぷり陽の光を浴びた牧草だ。友人は敷地内で育てられている豚のカツドンで、二匹は放牧時、よく寄り添い並んで牧草を食べていた。タイゾウは健康で大きく、穏やかな瞳が愛らしい牛だった。立派に成長した後に県内有数の屠殺場へと送られて、前述の通り眉間をズドン、眠るように倒れてから逆さに釣られ主要血管を切り裂かれて失血死する。薄桃色の腹を曝け出すタイゾウ──その柔い肉に刃物が刺さる。どろりと溢れるタイゾウの内臓は黄色い脂肪を纏わせる大変美味いホルモンとなる。てきぱきと進められる解体の中、遂にそこへ──村橋が愛してやまない心臓の元へと指が伸びる。赤黒く、先程までは確かに動いていたそれ。筋肉の塊であり、生き物の要である心臓!

 村橋は目頭を押さえた。彼はこのようにして、口にしたハツの持ち主であった牛について妄想することが生きがいなのだった。妄想であると理解しつつもやめられないのだ。愛するほうれん草を差し置いてもハツという生命の筋肉を求め、自身の糧となる牛の生涯を思わねば気が済まない体になっていた。すまないタイゾウ──いや名も知らぬ牛。この妄想妄執こそが今のおれの生きがいなのだ──。村橋は溢れる涙を拭いつつ懺悔し、次のハツを口に含む。皿にはタイゾウと、タロウと、エリックがいた。皆愛らしく健康で美しい牛たちだった。

 ところでこれは妄想ではない。村橋は妄想と思い込んでいるが事実である。タイゾウはカツドンという豚の友人がいるし、タロウはジロウとの双子で、エリックは牧場主がサウスパークを観ていたせいでついた名前だ。

 村橋の特技ないし、特殊能力である。心臓を食えば持ち主の情報が頭に流れ込んでくるこの特殊能力は、ハツを食べながら涙を流す不審極まりない男だけが持ち得る役に立つ場面がピンポイントであり倫理観が下世話な風刺アニメ級ではあるが、妄想ではないのである。

 だがしかし、村橋はもちろん、やばい男がいる……と厨房で情報交換をする「炭火の中村堂」従業員一同も、村橋の両親も兄弟も、一生気付くことのない特殊能力なのだ。


 実食終了──。

 皿を空にした村橋は椅子の背もたれに体を預けながら、満足気な息を吐き出した。満腹だった。ハツは当然のことながら、チョレギサラダも美味だった。

 脳裏に浮かんだ牛たちの姿を再び思い出してから、村橋は鼻を啜りつつ、ゆっくりと手を合わせた。

「ご馳走様でした──安らかに」

 そして突っ伏し大泣きした。あまりにもでかい泣き声であり、店の空気は瞬時にお通夜と化した。


 出禁である。

 こうして村橋は焼肉屋をハシゴする──いや、ハシゴせざるを得ないのであった。

 

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