傍にいるよ

 冷たい夜風が肌を撫でながらも、胸に温かい感触が伝わっている。

 華奢で、可愛らしく、今にでも折れそうなほど弱々しい表情を浮かべている女の子。

 胸の内にいるこの子を離したくない、自然とそう思ってしまった。

 この温もりは手放した瞬間、秋の夜風に攫われてしまうかもしれない。

 だから全てが完璧に伝わらなくても、この気持ちを言葉にする。


「な、んで……?」


 有栖は信じられないと、そうありありと伝わってくるぐらいの呆けた顔を見せる。


「こんなこと言ったら、普通はさ……そ、その、離れていっちゃうものなんじゃないの? だって、私はなんにもないんだよ!?」


 何もない、それはもうちゃんと聞いた。

 俺が進んでいる先は結局後悔して死んでいった時と同じレールが敷かれていて、辿り着いた先には「ある」と思っていた何かが何もなくて。

 有栖の言う通り、このまま進んでいっても意味がないのなら引き返した方がいいのかもしれない。


 坂月や健吾さん達の期待? 仕事を請け負った者の責任?


 ハッ、クソどうでもいい。

 俺は責任や期待よりもほしいものがあった。

 だからこそ後悔して、やり直すチャンスをもらって、有栖の提示してくれた選択肢を選んだんだ。

 何も得られないのなら進んでも意味がない。

 有栖の言う通り、離れていくのが自然な流れだろう。


 だが―――


「俺はお前を放っておけない」


 結局、有栖という人間を選んでしまうんだ。


「初めはさ、今日ここに来たのは……有栖の期待を選ぶか、坂月達の期待のどっちかを決めるためだったんだ」


 作品として、役者としてのクオリティを求める坂月達の期待。

 何がどうかなど分からなかったが、俺が泣かせてしまう原因を作った有栖の期待。

 そのどちらを選んで、どちらを切り捨てるか。そういう話のつもりだった。

 しかし、まさか有栖が何も持っていないのだとは思わなかった。


 それでも―――


「俺は気持ちに従うって決めた」

「従う?」

「合理とか責任とか期待とか勘定とか打算とか未来とか経験とか損得とか……そういうんじゃなくて、気持ちを選ぶことにした」


 ここに来れば決心がつくと思っていた。

 俺が選ぼうとした選択は本当に正しくて、気持ちは本当にこっちに向いているのかどうか。

 後悔しても、その後悔が薄くなるのは本当にこの先で合っているのか。


 そして、有栖に会った。

 有栖の話を聞いた。

 正直に、何も取り繕うこともない素直な吐露を。

 それで、余計に思った―――

 そう思ってしまった時点で、俺の選択はこっちで合っているのだと理解した。


「俺もお前の言う通り空っぽだよ」


 何も持っていなくて、他人に興味が持てなくて、自分や周囲がどうでもよくて。

 周りには俺とは違う人だらけで、皆俺が持っていない何かを持っていて……嫉妬して、諦めて、折れた。

 俺の人生なんてこんなもんなんだと、そう思って流されるように生きてきた。

 だからこそ、有栖が伸ばしてくれた手を握らなかったあの日をずっと後悔していたんだ。


「空っぽでさ、つまらない男だって。周囲もヤクザの息子だって誰一人として俺を見ちゃくれない」


 肩書きとか生まれとかだけでなく、俺にも原因があるのは分かっている。

 それでも、俺は誰か俺を見てくれる人を欲した。


「有栖だけは、俺を見てくれたんだよ」

「そ、それは……」

「分かってるよ、言わんでも。結局、お前が俺を見てくれたのは俺と同じ空っぽで、ヤクザの息子とか周囲の外聞なんて興味がなかったからだろ」


 結局、隣の芝生は青く見えたってだけ。

 なんでも持っていそうな有栖あいつは、何一つとして持っていなかった。

 だが―――


「あの時見てくれたのはお前だけだった」

「ッ!?」

「どんな理由があろうが関係ない。俺を見てくれたのは幾多有栖っていう女優おんなのこだったんだ」


 俺は有栖の顔を優しくて真っ直ぐに覗き込んだ。

 端麗で、小さくて、愛嬌があって、ずっとテレビの向こうで追っていた……綺麗な顔を。


「傷の舐め合いでもいいよ」


 この先、辿り着いた場所に何もなかったのだとしても。

 先を歩いている有栖が泣いているのなら、引き返しもせずに歩いて行く。


「それで、お前が笑ってくれるんだったらさ」


 有栖の透き通った瞳が潤み始めた。

 そして、震える口をゆっくり動かす。


「い、いいの? 私、空っぽな人間だよ?」

「構わない」

「いっつも笑ってるのだって、こうした方がいいから……皆の輪から外れないようにしてるだけだよ?」

「別に問題ない。空っぽなのは俺も同じだ」


 俺も同じなんだ、お前と。

 だから―――



「俺はお前の横に行くよ。今度は目標ってわけじゃなくて、お前を一人にしないために」



 その言葉を口にした瞬間、有栖の瞳から溢れた涙が胸の内に落ちた。

 ゆっくりと、背中に回されている手の力も強くなり、有栖は再び顔を埋めてくる。

 拭ってやろうかとも思ったが、寸前で言葉に遮られる。


「桜花くん……」

「おう」

「桜花くん、桜花くん、桜花くん、桜花くん……ッ!」

「心配しないでも、嘘は言わねぇって。ヤクザの息子でも、筋はしっかり通す」


 そっと、代わりに俺は有栖の頭を撫で続けた。

 泣きじゃくる子供をあやすように、胸の内に広がる温もりを感じながら。


「……桜花くん」

「なんだ?」


 有栖は顔を埋めたまま、小さく笑みを浮かべた。

 どうして埋めているのに分かったのか?

 それは―――


「ありが、と……ッ!」


 彼女の声が、明るく嬉しさが滲んでいたからだ。



(これでいいんだよな、雅……?)


 悩んでも、どっちを選んでも後悔しかない。

 なら、より後悔が薄くなる方へ……自分の気持ちを優先する。

 俺の取った選択は有栖こっちになった。

 雅は、今の俺を見てどう思うだろうか?


(多分、後悔はする)


 しかし、こっちの方が幾分かマシだ。

 何せ、有栖の泣き顔は見ていられないから。


 寂しいのなら、隣に座ってたわいもない雑談でもしてやりたい。

 辛いのなら、優しく抱き締めて頭を撫でてあげたい。

 苦しんでいるのなら、手を差し伸べて横に並んでやりたい。


 そう思ってしまうのも───


(お前にっていうのだけは、結局二回目の人生でも変わらなかったな)


 俺は有栖の頭を撫で続けた。

 彼女の嗚咽が聞こえなくなるまで、ずっと。

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