特別扱い

「今から行くから住所教えろって言われたけど……」


 冷たい夜風が肌を撫でる時間帯。

 辺りには人気はすっかりなく、ただ一人の声がよく耳に残った。


「まさか、本当に私の家に来ちゃうなんてなぁ」


 玄関のライトが照らしている中、少し暖かそうな寝間着姿の有栖が目の前で苦笑いを浮かべていた。

 俺と有栖の目の前には一つの玄関門が隔たれており、手を伸ばさないと彼女に触れない距離であった。

 ちらりと横を向けば、石壁についている『幾多』という表札がある。

 とはいえ、表札を見なくとも有栖が出てきた時点でこの家が彼女の家で間違いないというのは理解している。


「行くって言っただろ」


 俺はあれから有栖に電話をかけ、住所を教えてもらったあとに有栖の家へと訪れた。

 二駅ほど離れた場所にあり、比較的俺の家から近かったのが幸いした。そのおかげで、あれからあまり有栖を待たせることなくすぐにやって来られた。


「それでも、もう二十三時超えてるよ? 補導されちゃう時間なんだよ」

「今更俺が補導を気にするように見えるか?」

「……やんちゃボーイくんには困ったものだね」


 今まで何度補導されたことか。

 素行が悪かった時代の俺を思い返せば、今更一回二回の補導など気にしない。


「中に入る? このまま話してたら桜花くん、補導されちゃうかもだし」

「いいよ、俺は別に。寒いって言うんなら好意に甘えるが、夜に男なんか入れたくないだろ?」


 その言葉に、ふと思考が止まる。


「……なぁ、有栖」

「ん? なーに?」

「どうして、有栖は俺を気にかけてくれるんだ?」


 いいや、気にかけているだけではないだろう。

 今まで受けてきた有栖からの態度を鑑みるに、これは明らかに特別扱いだ。

 ずっと考えてはこなかった。それでも、改めて考えてみるとそうとしか思えない。


「…………」


 俺の言葉に、有栖は押し黙ってしまう。

 困らせたか? そう一瞬だけ罪悪感が芽生えたが、俺は太股を抓って再び口を開く。


「俺に才能がある、それは分かった。文化祭の時に無理なお願いをしたから、それも分かる。だが、そこまでだ―――こうしてわざわざ夜遅いのに会ってくれて、坂月を紹介してくれて、俺のことを心配してくれて。全部、他の人間にはしない行動だろ?」


 有栖はよくも悪くも平等だ。

 皆に同じ笑顔を向けて、皆に同じ言葉を話してくれて、皆と同じ態度を見せる。

 出会った時に俺を俺として見てくれたのも、きっとここが大きいはず。

 多少の相違はあるだろう。後輩の坂月や仕事相手、家族には違う態度かもしれない。


 ―――だが、前々から有栖は変わったような気がした。

 正確に言うと、俺が屋上で読み合わせをしようとした時から。


「なぁ、有栖」

「…………」

「どうして、俺を特別扱いする?」


 

 それでも聞いておきたくて、モヤの一部がこれなような気がして。

 確信めいた疑問を払拭するためだけに、俺は有栖の顔を真っ直ぐに見つめる。

 そして―――


「……桜花くんってズルいよね、本当に」


 有栖は小さく俺へ手招きをした。

 入って来いという合図だろう。だから俺は門を開け、有栖の目の前へと行く。

 すると、有栖はいきなり俺の胸にへと抱き着いてきた。

 そのことに、俺は思わず戸惑ってしまう。


「あ、有栖……?」

「桜花くんの言う通り、私は君を特別扱いしていると思う」


 抱き締められた時の力は弱かった。

 女の子らしい柔らかい感触が伝わってくるだけで、苦しいということはない。


「じゃなかったら、抱き着いてこねぇだろ」

「ふふっ、言えてるね……でもさ、これって多分君のことが好きだからっていうわけじゃないと思うんだ」


 分かっている。

 これが好意を寄せている相手だからこそ見せる行為ではないということを。

 今見せているのは、どちらかというと―――


「私はさ、桜花くんのことを勝手に仲間だって思ってたんだ」

「仲間?」

「うん、仲間……空っぽ同盟の、仲間」


 空っぽ、という言葉に眉が動く。


「私ってさぁ、空っぽなんだ」


 ゆっくりと、有栖は俺の胸に顔を埋めながら口にした。


「何をするにも何も思えなくて、誰に対しても一線以上の感情が抱けなくて、何をしたいわけじゃなくて、ただ流されるようにお仕事も勉強もしているだけ。昔はこうじゃなかったのに、もうすっかり空っぽだよ」


 その言葉は、痛いほど胸に突き刺さった。

 脳裏に浮かぶのは、死ぬ前の自分の人生。何をするにしても退屈で、興味も抱けなくて、自分も他人もどうでもよくて、ただただ意味もない人生を歩いていた。

 それがどれほど苦しくてつまらなかったのかなど、今更語るまでもない。


「私だけじゃないよねって、思いたかった。だけど進んでも進んでも誰も追いかけてこなかった。横を向いても振り向いても、皆は何かを持っていて、持っていない人は私だけだったんだ」

「…………」

「空っぽってだけだったらまだよかったよ。でも、周りに空っぽな人がいないなんて……ただ寂しいだけだ。私は寂しくて、寂しくて、泣きたくなるくらい苦しかった」


 でもね、と。

 有栖は弱々しい笑みを浮かべながら俺の顔を見上げた。


「そんな時に見つけたんだ。偶然だけど、役者も目指していて、ヤクザの息子なのに優しくて、温かい人で、私と同じ空っぽな人を」


 それが誰か、なんて聞く必要もない。

 そんな人間、きっと俺しかいないだろうから。


「嬉しかったの、ようやく寂しくなくなるって。けど、今日の桜花くんの芝居を見て私は置いて行かれる気持ちになっちゃった。同じ才能を抑えてる桜花くんを見て、離れていってしまう感覚になった」


 ……ようやく今の言葉で有栖がらしくもない言動を見せたのか分かった。


 俺が俯瞰に意識を割いていたことが、成り切る演技を抑えてしまった。

 有栖は自分と同じ才能を抑えている姿が『変わる』ように見えたのだろう。

 俺は何かを手に入れて、後ろに下がって。同じ道の先を進む有栖は何も持っていなくて、置いて行かれるような気分になって。

 だから我慢ができなくて、俺に当たってしまったんだ。


「本当に、あんなことを言うつもりじゃなかったの。だって上手くなってもらえるように野乃ちゃんにお願いしたのは私で、野乃ちゃんにお願いすればあんな風になるのなんて分かっていたからね」

「だったら……」

「あはは……我慢しきれなかったんだ、と思う」


 それほどまでに、俺に置いて行かれることが堪えられなかった。

 泣いて、折れそうで、壊れてしまいそうな姿を見せるぐらいには。


 これが有栖が俺を特別扱いする理由。

 あの時見せた行動の全て。


「ごめんね、桜花くん。私を目指してくれるって言ってくれたのに、私がこんなんで。?」


 有栖は少し泣き出しそうな顔を見せながら、小さく笑みを浮かべた。


 ―――蓋を開けてみれば予想外のことばかりだ。


 有栖は俺にない何かを持っていると思っていたのに、彼女は何も持っていなかった。

 有栖のいる場所に行けば何かを得られると思っていたのに、有栖のいる場所には何もなかった。

 有栖がくれた選択肢を手に取れば後悔はなくなると思っていたのに、この選択は今までの自分と変わらない路線なんだと言われた。


 今までの苦労はなんだったのか? 役者を目指す意味は? 有栖を追いかける意味は?

 落胆を隠し切れない。結局、有栖も俺と同類で、単なるこの先にあるのは傷の舐め合いが待っているだけ。


 ……あぁ、クソッタレ。

 ふざけんじゃねぇ———


(って、なんだがなぁ)


 俺は有栖の泣き出しそうな顔に手を添える。


「桜花、くん……?」


 すると、有栖は不思議そうに小さく首を傾げた。



「なぁ、有栖」



 人は言葉でしか気持ちを伝えられない。

 完璧に伝わることなどないけど、口にしていれば大体は理解してもらえるのだと、雅に教えてもらった。

 だから―――



「それでも、俺はお前を追いかけるよ」



 この気持ちを、できるだけ言葉にしよう。


 俺は坂月や他の人間の合理きたいより、有栖を優先したいから。

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