有栖の異変

『カット!』


 振り返る前に、乾いた音が響き渡った。

 何か糸が切れるような感覚———それと同時に、いつの間にか視界の端にスタッフの姿が映る。

 それが現実に戻ってきたのだと理解するのに、少し時間がかかった。


(クソ……危ない)


 文化祭で行った演劇の時は戻って来れなかったらしいが、今回は無事に一人でも戻って来られたみたいだ。

 これもあの日から少しずつ雅に手伝ってもらいながら自分の中での『トリガー』を作ったおかげだ。

 あとは、自分がまだイメージに染まり切ってなかったからだろう。まだまだ精進が必要だと、こんな場所で思わせられる。

 いや、それよりも―――


『どうしたの、有栖ちゃん? 珍しいね』


 何故、撮影が止まったのか?

 横を向くと、坂月が入口の方を見ていた。

 つられて、俺も後ろを振り向く。すると、そこには茫然とした有栖の姿があって……いきなり俺の方へと歩き出した。

 そして俺の目の前に立つと、瞳に涙を浮かべ始める。


「どうしてッ!」


 多分、涙を浮かべた有栖を見て戸惑ったのは俺だけじゃないと思う。

 坂月も、健吾さんも、他のスタッフの人間も。

 唐突に発せられた大きな声は、誰もの動きを止めるぐらい教室内に響き渡った。


「どうして!?」


 俺が本気を出していない、ということだろうか?

 それとも、俺におかしな部分があったからか?

 戸惑いながらも、俺は肩を震わせる有栖の手をそっと握る。


 何せ今の彼女は、今にでも折れてしまいそうな、消えてしまいそうな……そんな感じがしたから。


「いや、ちゃんとやってたつもりなんだが……なんか悪いところあったか? すまん、別に有栖を怒らせる気はなかった―――」

「ちゃんとやってない! 文化祭の時と全然違う! 桜花くんの演技じゃない!」


 握った手は勢いよく振り払われ、俺の胸が何度も殴られる。

 華奢な腕から放たれる拳は然程痛くはないが、あまりの様子に戸惑いが深まるばかり。

 こんな様子の有栖は、いつも観ていた画面の中でも戻ってきた数日でも見たことがない。

 いつもの明るく活発で、愛らしい姿からは想像がつかないほど弱々しくて……唯一縋っていたものに裏切られたような、そんな可哀想な子に見えた。

 撮影が始まる前は、あんなに楽しみにしていたのに。


「い、幾多先輩……でも、先輩はちゃんとやってましたよ? そりゃ、カメラワークに意識が向いちゃってる感はありますけど」

「ッ!?」


 坂月がおずおずと口にすると、有栖は我に返ったように肩を震わせる。

 そして、俺から視線を逸らしていきなり周りを見渡し始めた。

 固まってしまった現場。それを受けて、有栖は皆に頭を下げる。


「ご、ごめんなさいっ! 私、ご迷惑を……」

『んー……その様子だと、少し休憩挟んだ方がいいかもね。多分、今の様子じゃ有栖ちゃんもノレないだろうし』

「本当にごめんなさいっ」


 健吾さんは有栖らしくない様子を見て、一度時間を挟むことに決めたようだ。

 恐らく、ノーカットで撮るつもりだったこのシーンを別撮りすることなんてしない。きっと撮り直しになるだろう。


「本当に、ごめんなさい……」


 そう言って、気まずそうな顔を浮かべた有栖はそそくさと逃げるように教室を出て行ってしまった。

 追いかけるべきか、そっとしておくべきか。坂月の伸ばした手が空中で止まる。

 だから、俺はその手をそっと降ろさせた。


「……先輩」

「……俺が行く」


 何故か、俺が行かなきゃいけないような気がしたから。


 俺は消えていってしまった有栖のその後ろを追いかけるように足を進める。

 廊下に出ると、足取りが重そうな有栖はすぐに見つけることができた。


「有栖」

「ッ!」


 声をかけると、有栖の肩が跳ねた。

 有栖は振り返ることはしない。俯いたまま、ゆっくりと口を開いた。


「ごめんね、桜花くん」

「いや、別に俺は構わんが」


 有栖のこんな姿を見たことはなかったが、調子が悪い時だって誰にだってあるだろう。

 それに、あの様子を見る限りは俺に何か原因があるのだと思う。

 だから、謝られる必要はないはずだ。


「桜花くんはさ、私の隣まで来てくれるって言ったよね?」

「あ、あぁ……」

「だったら、?」


 離れていく? なんの話をしているんだ?

 俺は思わず首を傾げてしまう。

 だって、俺は離れたいと思ったことなどない―――むしろ近づきたいと、今日も必死になっているだけだ。


 しかし、有栖は違うと思っている。


「離れてるよッッッ!!!」


 有栖の震える悲鳴が耳に届いた。

 そして、勢いよく振り返る……瞳に涙を浮かべながら。


「どうして桜花くんまで私から離れていくの!? なんで、私の隣には誰もいないの!? 私はずっと独りぼっちなの!?」

「お、おい……有栖」

「やっと見つかったって思ったのに! 一人じゃないって思えたのに……どうして、どうしてなんだよッ!」


 どうして、と。聞きたいのは俺の方だった。

 何を言っているのか分からなくて、何をしたいのか分からなくて。

 俺に非があるのなら改善する。未熟な部分があるのなら努力する―――自然と、そう思ってしまう。

 だって、有栖にこんな顔をしてほしくないと思ってしまったのだから。


「これじゃあ、私はずっとじゃんッッッ!!!」


 手が俺の意思とは無関係に有栖へと伸びる。

 だが、それは有栖に届くことなく、逃げるように身を引かれた。


「あっ、ごめ……私、こんなこと……言いたかったわけじゃ……!」


 有栖は俺の顔を見て、もう一度泣き出しそうな顔を浮かべる。

 そして、堪えきれなかったのか、廊下の先へと走り去ってしまった。


(なに、が……)


 どうなっているんだ?

 分からない、本当に分からない。

 どうして有栖があんな顔を浮かべてしまったのか? 原因が、何一つ。


(クソッ)


 心に大きなモヤが残る。

 自分というキャンパスの上に、拭いきれない汚色しみが残っている気分。

 不快で、気持ち悪く、頭の中から消すことができない。

 結局、それは今日の撮影が終わるまで解消されることはなかった。



 ―――一方、有栖の芝居は天才の見る影もなかった。

 撮影が終わるまで、ずっと。最低なまま。

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