本番前

 本当に時間が過ぎるのは早い。

 いつものようにただ慌ただしい日々を過ごしているだけで、あっという間に撮影の日を迎えてしまった。

 家から電車で五駅ぐらい離れたところに今回の現場がある。

 意外と通っている高校から近く、校門を横抜けた時に見えた学校名が見覚えのあるものであった。

 休日ということもあって、学校内は異様なほど閑散としている。

 本来なら部活動でもしている生徒がいるのだろうが、恐らく今日の撮影のために出入りを制限したのだろう。


 そして———


「桜花くん、ひっさしぶりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」

「ぐふっ!?」


 現場に到着した俺は、挨拶よりも先にタックルを食らってしまった。


「おい、お前、何してんだ、あァ?」

「桜花くん、痛い。謝るから頭を離してミシミシ聞こえる!」


 胸に飛び込んできた少女の頭を掴むと、可愛らしい悲鳴が聞こえてきた。

 久しぶりに聞く声だ。本当に一ヶ月ぶりぐらいだろうか? 腹部に走る痛みよりも、懐かしい声に思わず口元が緩んでしまう。


「久しぶり、有栖」

「うんっ、久しぶり! あ、っていうか髪染めたんだ」


 見慣れない学生服を着た有栖は、端麗な顔を覗かせて首を傾げてくる。

 今日の撮影のために染めてきた髪を見て少し驚いているようだ。


「流石に撮影があるのに染めてちゃマズいと思ったからな」


 俺は有栖を引き剥がして、現場にいる人達に頭を下げた。


「おはようございます、本日はよろしくお願いいたします」

『『『『『よろしくお願いしまーす』』』』』


 機材の調整をしている人達、打ち合わせをしている人達が挨拶を返してくれる。

 こっちを向いて頭を下げてくれる人もいれば、何か作業しながら声だけを返してくれた人達もいた。

 この中で俺は一番新参者だ。こっちを見て挨拶しろ、などと今の反応にどうこう思うことはない。思うとすれば「皆忙しいんだろうな」と、他人事のようなものだ。


(っていうか、集合場所が教室って……)


 カメラやマイク、機材がそこら辺に並んでいる。

 最近よく見るようになった教室には、とても似つかわしくないものだ。

 だからこそ、こうして見ているだけで新鮮さと、撮影が始まるのだという実感が湧いてくる。


「ねぇねぇ、桜花くん! 今日ね、私すっごい楽しみにしてたんだよ!」

「へぇー」

「夜楽しみすぎて眠れなかった!」


 ……この子は遠足前の子供か?


「お前なら、撮影なんて珍しいもんじゃねぇだろ? その反応をするなら、どっちかというと俺じゃね?」

「にししっ! 分かってないなぁ、桜花くんは」


 そう言って、有栖は可愛らしい笑みを浮かべた。


「桜花くんと初めてのお仕事だよ? これが嬉しくないわけないじゃん!」

「……そうかよ」


 俺は有栖の頭を思わず撫でてしまう。

 本当に子供のように可愛らしい女の子だ。どうして俺に対してそんなことを思ってくれるのかは分からないが、何故か胸が温かくなる。

 その時———


「あー! 先輩が幾多先輩の頭撫でてるー!」


 後ろから不意に声をかけられる。

 振り返ると、そこにいたのは有栖と同じ見慣れない学生服を着た坂月の姿があった。


「ずっこい、私だって幾多先輩の頭を撫でたいのに!」

「えー……後輩に撫でられるのはちょっと」

「有栖にも先輩の威厳があったんだな」

「くっ……いっそのこと、先輩みたいに歳上の威厳を捨ててくれればよかったのに!」


 待て、俺は歳上の威厳を捨てたことはないぞ?

 確かに、後輩からあれこれ教えてもらってはいるが。


「やぁ、今日の主役達が揃ったね」


 そして、今度は後ろから丸めた台本を片手に健吾さんが現れた。

 親子だから今日は一緒に来たのだろうか? そんな疑問を一瞬抱いたが、すぐさま俺は頭を下げる。

 続くように、有栖も俺の横でお辞儀をした。


「本日はよろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「ははっ! 今日はよろしくね!」


 俺に仕事をくれた人。健吾さんは緊張の面影すらもない上機嫌な笑いを見せた。


「さて、学校を貸し切れるなんてあんまりできないし、時間も限られているからちゃっちゃと進めようか」


 健吾さんは俺達三人に視線を向けて、丸めた台本を広げる。

 その姿が、どことなく貫禄を与えてきた。知り合いだという親しみやすさが霧散し、一気にビジネスマンとしての雰囲気を見せてくる。


「今日の撮影は台本の流れに沿って行う。入れてほしい行動、仕草は支持しているけど、それ以外は全て君達に任せる」


 支持が入っているのは、最低限曲にマッチした行動だからだろう。

 アドリブを入れて進むものの、俺達の解釈と違っていた場合はただの無駄な撮り直し。そういったリテイクを避けるためだと思われる。

 あとは、ある程度のラインを引いておくことで俺達が「どんなストーリーで何をすればいいのか?」をイメージしやすくしていることだろうか?


「適宜にこっちからも支持を入れることはあると思うけど、基本的には場面が変わらない限りはノーカットだ。こっちの方で切り取ったり編集したりで調整するからね。なんだったらセリフを作ってもいい。要らなければ消すし、必要だと思ったら拾う。僕から君達に求めるのは―――」


 真っ直ぐに、健吾さんは俺達を見据える。


「最高の作品だ。それ以外を、僕は求めない」


 期待、プレッシャー、監督しての矜持。

 それらが俺達へと向けられ……不意に改めて実感する。


(役者、か)


 本当に役者としてこの場に立つんだなと、この言葉で胸の奥が言い表せない感情で埋め尽くされる。

 文化祭の時とは違う。最高の舞台にしよう……というベクトルが違う。

 金がかかっている以上、失敗すれば色々なものを失ってしまう。

 思い出には残るだろうが、失敗すれば黒歴史になるだけでは済まされない。

 観る人間は、体育館の中にいた生徒の数とは比べ物にならないのだから。


「先輩、ビビってるんですか?」


 そんなことを思っていると、坂月がからかうような笑みを浮かべてくる。


「正直に言おう……少し緊張している」

「その怖い顔のまま言うと、すっげぇダサいです。あ、そういえば背中のタトゥーも消したんですか?」

「あるぞ」

「あとで見せてほしいです」


 タトゥー好きだよな、お前。


「まぁまぁ、あんまり緊張しないで! こんなこと言ったけど、ここにはサポートがいっぱいいるからね!」


 その視線は俺にへと注がれる。

 きっと、有栖や坂月なら知っているから。俺が一番緊張しているからという配慮だろう。

 それがありがたく、背中をさすっている坂月を無視して健吾さんに頭を下げた。


「それじゃ、あと少しで撮影始めるから、準備しておいてね」


 そう言って、健吾さんはスタッフのところへ向かって行ってしまった。

 その時───


「ねぇ、桜花くん」


 有栖がふと俺に声をかける。

 そして、本当に遠足に行く前の子供のような満面の笑みを向けるのであった。


!」


 ───そういえば。



『桜花くんが私の隣に来てくれますように』



 いつの日か、薄暗い夜道で言われた言葉。

 あれはどういった意味があったのだろう?


(……まぁ、いいか)


 今はこれから始まる本番のことに集中しよう。

 俺は笑みを浮かべる有栖の頭をそっと優しく撫でた。

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