幾田有栖という女優

 くそっ。

 くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそッッッ!!!


 何が、どうなりやがった。


【ねぇ、私……あまり、ダンスが得意ではないの】


 どうして、頭の中が混乱する?

 ただ着飾った有栖が目の前に現れて、ただ何回かセリフを口にしただけなのに。

 何故、足元がふらついてしまう? まるで、全てを持っていかれそうになるぐらい。

 全て、目の前の有栖のせいだ。


【それでも、私と踊っていただけますか?】


 差し出された手はおずおずと。

 気弱なジュリエットらしい、緊張気味に緩められた口元。仮面越しから覗く視線は揺れながらも真っ直ぐにロミオへと向けられて。

 目の前の人間は、果たして幾多有栖か?


【君の方こそ、こんな僕でよろしければ】


 頭の中に染まったロミオという偶像が少しずつ錆びていくような感覚。

 鍍金は剥がれ、紡ぐ言葉が震え、目の前の少女が息を吸う度に飲まれてしまいそうになる。

 スポットライトに照らされているはずなのに、君の方しか輝いていないような―――


(こんなこと……ッ!)


 あってたまるか。

 この話の主演は俺で、この人生の主役はロミオだ。

 俺はこの舞台上で誰よりも輝いて見られないといけない人間なのだ。

 それなのに、どうして有栖ジュリエットの方が輝いて見える?


【えぇ!】


 満面の笑みを浮かべた有栖ジュリエットは俺の手を取る。

 舞台上から流れてくる緩やかなピアノの曲が、自然と俺の足を動かしてきた。


 そう、自然とだ。

 緊張しているはずのロミオが、なんの抵抗もなく自然と足が動いてしまったのだ。

 台本を知る俺が―――戻ってくる。


(ふ、っざっけんなッ!)


 ロミオは俺だ。俺はこの時この場所ではロミオとして生きているのだ。

 邪魔をするな、と。声を大にして言いたい。

 目の前にいる、少しの気恥しさと幸せを滲ませたジュリエットに向かって―――


(……ァ?)


 その時、ふと違和感を覚えた。

 瞬きを何回か。それでも、視界に映る景色は変わらない。

 上から降り注ぐスポットライトも、会場で曲に身を委ねながら傍観する観客ギャラリーも。

 当たり前だ、転生や瞬間移動なんて非科学的な超常現象は何も発揮されていないのだから。


 あぁ、変わらない。

 なのに、目で捉えた情報が頭の中にあった印象と変わってしまっている。眼前にいる少女に対してだけ、だ。


(いつから、お前はジュリエットに成った……?)


 明るく悩みなんて感じさせない表情はどうした? 無邪気で高い怖音は? 奔放で問答無用で振り回してくる自由な態度は? 愛らしい雰囲気は?


 幾多有栖はどこに行った? 同じ舞台に立っているはずなのに、有栖の姿がどこにも見当たらない。

 立っているのは、スポットライトに照らされたロミオと、だけ。

 どう思考を回しても、強く念じても目の前の少女が幾多有栖に戻らない。


 ―――説得力。

 説得力が段違いだ。自分はこの役なんだと、舞台に立つ自分はジュリエットなのだと、他者に納得させる力。

 何も知らない観客だけじゃない。舞台上にいる俺にすら納得させてくる。

 少なくとも、俺がロミオとして立っていた時は演劇部の皆は───ロミオだと思っている空気を感じた。


(俺と、同じ?)


 いいや、俺とは違う。レベルが、違う。

 だから飲み込まれてしまいそうになるんだ……ジュリエットというキャラクターの空気が、蔓延しすぎて。

 ロミオという存在が霞み始めたから。俺のイメージの中に、ジュリエットという存在が介入してきたから。


(こ、これが幾多有栖……)


 同い歳にして、役者の第一線で活躍する実力派。

 誰もが納得して、誰もが注目している人気若手女優。

 舞台女優ではなく、テレビ女優のはずなのに、実際に目の前にするだけでこんなにも彼女の凄さが分かるものなのだろうか?

 小手先の技術がどうこうって話じゃない。

 才能があると言われて、どこか内心セーフティーゾーンに立っていた気になっていたのかもしれない。

 その実、まだ麓までしか登っていないのに、頂上だと勘違いして。


 何が追いつくだ。

 何が横に並ぶだ。

 凄いのなんて分かりきっていたはず。今まで追ってきた過去から。

 だが、実際にこうして相対したからこそ余計に分かることもあった。幾多有栖はあの時と同じで手の届かない場所に―――


(馬鹿が……ッ!)


 ふざけるな。ここで折れることは俺が許さない。

 諦めて、実力差を痛感したところで何が残る? 何も残らないだろ。

 あの時と同じ、空っぽのまま人生を終えてしまうことになってもいいのか?


(いいわけあるかッッッ!!!)


 もっとだ、もっと。

 俺はモンタギュー家のロミオで、そのイメージをもっとインプットしろ。

 誰にも流されることなく、誰の意見も耳に入れず、自分が感じたロミオだけを空っぽの器に注いで。

 その思考をもっと深めろ。深く、深く潜り続けろ。


 深く、深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く―――



(染めろッッッ!!!)


 ♦♦♦



(※有栖視点)


 空っぽの人がどうして才能があると思う?

 前に言ったかもしれないけど、空っぽの人って自分を手放すことに抵抗がないの。

 真っ白な紙に綺麗なインクを落とした時と同じ。

 少しでも自分を手放すのに躊躇がある人は、紙に滲んだ自分を守ろうと無意識にインクが広がらないよう手を止める。

 でも、インクの量だけそのイメージが体に入り込んできて。その分だけ自分は役に近づける。


 桜花くんは、真っ白な画用紙。

 インクをぶちまけられても、文句も言わずに自分も一緒に染め始める子。

 だから、桜花くんは芝居の才能がある。

 どんな役をしようとも、自分を捨てて役に成りきることができるから。


(もし、私に負けているって思っているんだったら)


 それは解釈の浅さ。

 いくら自分を染められるとしても、インクが薄ければ容易に他のものへと染まってしまう。

 ロミオという存在が台本の上で止まっているんだ。

 確かに台本上の人生を歩んでいるとしても、題材は別にある。つまりは、大きな構図の中を抽出しているだけで、大きな構図自体があまり入っていないの。

 大きな構図そのものを理解している人と、大きな構図の表面しか理解していない人が同じ舞台に立ったらどうなるかなんて明白だ。

 構図を理解していれば役の解釈に深みが出る。深い色の方に、人間は意識を持っていかれる。

 でも、問題はない。それはこれからどんどん知識と経験を積んでいけば自ずと意識するようになるから。



 だから、今日はお勉強。

 これから本当に役者を目指すんだったら、今日のことを思い出してこれからに生かしてほしい。


 私は素直に、桜花くんには一緒の世界に来てほしいと思っている。

 だってさ―――


(空っぽ者同士って、きっと寂しくならないと思うんだよ)


 大丈夫、大丈夫。

 桜花くんは絶対に私の場所まで来るよ。

 それは、私が保証してあげるさ。


(さぁ、もっと染めようか)


 深く、自分が見つからないところまで。

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