肉の記憶
釣舟草
筋肉の記憶
久しぶりに高校時代の友人Nから連絡が来た。
変わらぬ気さくさでやり取りが続き、今夜一緒に晩飯でも、という話になった。店はNが決め、駅から一緒に歩いて行ったのだが……。
「ここ、ヴィーガンの店だよな?」
「そうだよ。俺、肉は食わないんだ」
俺は小さな驚きとともに彼の告白を受け入れ、ヴィーガンレストランの門をくぐった。
「へぇ。肉を使わなくてもハンバーグやステーキが作れるんだな。これなんて、肉だと言われて出されたら分からないくらいだ」
大豆で作られたというハンバーグを
「大豆ミートも年々優秀になってるからな。環境破壊につながる肉食は、今じゃ世界中で危険視されている。北欧には、空気中の微生物からプロテイン粉を作る技術もあるんだ」
「すごいな。プロテインは俺も飲んでるよ」
Nの癖のある話題をかわし、俺たちは他愛のない話に花を咲かせた。
「そういえばさ、加藤は今、家族はいるの?」
流れで家族の話になり、俺は素直に答えた。
「生後六ヶ月の娘と嫁がね。子供は可愛いぞぉ」
「え、なら早く帰んなくちゃ怒られるだろ?」
「大丈夫、大丈夫。俺なんか邪魔なだけだからさ。『変な時間に帰ってくるから愛ちゃんが起きちゃったじゃない! これから一時間かけて寝かしつけするのはわたしなのよ!』だって」
嫁の声色を真似て実演してみせると、Nはケタケタと笑った。
「亭主元気で留守がいいってやつだな」
「夫婦仲なんてそんなもんさ。そういえば、N、おまえは家族はいるのか?」
「いや、独身貴族続行だよ。気楽なもんだ。自由に旅行に行けるからな」
Nはスマホの写真フォルダを開いて見せた。
「これはロサンゼルス。パリに、こっちはカイロだろ? モスクワ、それにこれは……」
「すげぇな。旅行が趣味なのか」
「まぁな」
得意げなN。羨ましく思いながら、俺はふと、ある一枚の写真に目を留める。
「これはどこだ? アフリカ?」
「いや、南米だ。俺が肉食をやめるキッカケを作った国だ」
「へぇ……。何があったんだ?」
興味本位で訊ねると、Nはゆっくりと語り出した。
✸ ✹ ✺ ✻ ✼ ✽ ✾ ✿ ❀ ❁
Nがその国を訪れたのは偶然だった。もともと乗る予定だった飛行機が欠航になったので、座席の空いていた別の飛行機に乗ってぶらり旅に出ることにしたのだという。
その国、A国に着いたNは、空港で貨幣を両替したあと、ヒッチハイクを試みた。幸い英語が使えたため、コミュニケーションには困らず、軽トラックを捕まえることに成功した。
小型トラックの助手席で現地人と話していると、痩せた子供が目の前に飛び出してきた。
トラックは急停止し、幸い事故には至らなかった。
その子供は、10歳くらいの少年だった。
現地人とNが少年に事情を聞くと、どうやら街へ買い物に出たときに親とはぐれ、迷子になっているらしい。
現地人とNは、少年に村の名を聞き、送り届けることにした。
「俺も名前くらいは知ったぁいるが……あんな山奥の村、行ったことがねぇな。車は通れるのか?」
現地人はそんなことをブツブツと呟いていたという。
結果的に、車は山の中腹までしか入れなかった。引き返すと言い張る現地人に餞別を渡し、Nは少年と二人で山を登った。
少し開けた場所に出ると、少年は目を輝かせて走り出した。
村だ。
こんな山奥に、本当に村があった。
家に帰りつき、涙ながらに母親と抱き合う少年を見てほっとしたのも束の間――。
その母親が少年を抱きしめながら、ギロリとこちらを睨んだ。
これまでの人生で、このときほど殺意に満ちた視線を向けられたことはないという。
すぐに村長に呼ばれ、Nはその村の中で一番大きな木造の建物へと連れていかれた。
人里離れた村だから当然といえば当然だが、彼らの言語は英語ではなかった。村長をはじめとする村民たちの部族語を、Nはさっぱり理解できない。ただ、村長がNに対して非常に好意的であることだけは確かだった。
その日は深夜まで歓待を受けた。
村の食事は「美味しい」と言えるようなものではなかった。それでも腹は膨らみ、村人たちの親切な気遣いが心を満たし、Nはホクホクした気持ちで眠りについた。
翌日、何かの儀式に参加させられた。
花に囲まれた祭壇と思われる岩の向こう側に座らされ、Nは神様になったようで得意げだったという。能天気な男である。
やがて、生贄の食事が運ばれてきた。豆と野菜の盛り合わせの上に、ステーキと思われる肉の塊が乗っている。
村民たちの熱い視線が注がれる中、Nは少し気恥ずかしく感じながらそれを完食した。初めて食べる赤身の食感、味。スパイスも効いていて、美味しいと感じた。
村人たちは大いに喜び、歌い踊り、何度も何度もNにひれ伏した。こんなに良い村なら、何日だって何ヶ月だっていたい。そう思ったという。
ところが、その夜のことだ。夕食に出された肉を食べたとき、Nは白昼夢に襲われた。
ジャングルを枝から枝へ飛び回る自分。やがて嫌な予感がし、ふと下を見ると、男がこちらに鉄砲を向けているではないか。大慌てで逃げようとするも、脇腹に強い痛みを感じ……そして、ハッと目が覚めた。
呼吸は荒く、冷や汗をかいているNを見て、村長は何やら嬉しそうに言葉を紡いだ。Nには理解できない言葉を。
それからというもの、肉を食べると毎食のように白昼夢を見た。あるときは空を飛んでいたし、あるときはミミズのように地を這っていた。そして白昼夢の終わりはいつも、鉄砲で撃たれるのだ。
Nにはだんだんわかってきた。
これは〝肉の記憶〟だと。
Nが見る白昼夢は、Nが食べた肉の〝最期の記憶〟なのだ。脂身だけ食べたときにはこの現象は起きないため、〝筋肉の記憶〟と言い換えても良いかもしれない。
Nは考えた。
あの儀式の日、祭壇で食べた肉をもう一度食べたら、元に戻るのではないかと。
実際、この村に来て食べたものの中で最も美味しかったのがあの肉だったので、もう一度食べたいという願望も無いわけではなかった。
滞在を始めて数週間が経っていた。
少しずつ言語を理解するようになっていたNは、給仕係に賄賂を渡し、たどたどしい言葉で「あの日の肉をもう一度食べたい」と伝えた。
すると給仕はサッと青ざめたあと、バタバタと駆けていってしまった。残されたNは、何かまずいことを言っただろうかと、申し訳ない気持ちになった。
その日の夕食に、あの儀式の日と同じメニューが並んだ。感謝してその肉を口に入れた途端――。
そこは村の裏の雑木林だった。
Nは、ままごとに使う赤い木の実を集めている。
どうしてだろう、さっき屈強な男と村を出るとき、両親が泣いていた。泣きながら力いっぱいNを抱きしめたのだった。
Nは木の実に集中している。そうするよう、男に命じられたからだ。
背後でカチャカチャという金属音。
次の瞬間、うなじに強烈な痛みが走り、Nは現実に引き戻された。
冷や汗の量はこれまでの比ではない。
「人間の……子供の肉……」
Nは村長宅を飛び出し、この村に来るキッカケとなった少年の家の戸を叩いた。正確には、藁葺きの家なので戸は無く、外から大声で少年を呼んだ。
すると、母親が出てきた。以前のような殺気はもうなく、しょぼくれた目でNを見上げてこう言った。
「ミンガは〝選ばれし子〟だったの。今では誇りに思うわ」
家の中では五人の子供が食事していたが、助けた少年の姿はない。
すべてを理解したNは、居ても立っても居られず、日も暮れそうなジャングルに飛び込み、無我夢中で山を降りた。真っ暗なジャングルで猛獣の唸りに怯え、生きた心地もしなかったという。
朝日の昇るころ、命からがら麓に降りたNは街へと走り、捕まえたタクシーで空港まで急いだ。
何も考えずに飛行機に乗り込み、いくつかの空港を経由して、やっとのこと日本に帰ってきたという。
✸ ✹ ✺ ✻ ✼ ✽ ✾ ✿ ❀ ❁
「……作り話だろ、そんなの」
俺はにわかには信じられず、Nにぎこちない笑みを向ける。作り話であってほしい。そう願いながら。
「作り話だったらどんなに良かったか……」
Nは大きなため息をつく。その眉間には、これまでの苦労を思わせる深い皺が刻まれている。
「いまだに肉を食べないってことは……その……」
その白昼夢はきっと、今も続いているのだ。
Nは力なく笑った。
「日本に着いて、もう大丈夫だと思ってハンバーガーを食ったんだ。何が見えたと思う?」
灰色の建物に向かって並ばされる、延々と続く同胞の列。涙を流す者もいる。
牛という賢い動物にはわかるのだ、最期のときが来たことが。これまで世話し、育んでくれた人間に裏切られ、殺されていくことが。
Nの話を聞いた俺は、もう二度と牛肉を食べられないのではないかと思った。
「筋肉には神経細胞が張り巡らされているだろ。脂肪では白昼夢を見ず、筋肉だけに反応するっていうのは、神経細胞と関係があるんじゃないかな」
そんなことをうそぶくNに、俺はかぶりを振って強く言った。
「その白昼夢、止める方法はないのか? もしかしたら精神の問題って可能性もあるぞ。病院には行ったのか?」
自分でそう言いながら、俺は少し光が見えた気がした。
そうだ、すべてはNの勘違いだ。
見知らぬ部族に囲まれ、ストレスで精神に異常をきたしたNが見た幻。そう考えた方が自然だ。
「ひとつだけ、白昼夢を見なくなる方法があるらしい」
しばし口籠もったあと、Nはそう言った。
「方法?」
「ああ」
Nは続けて語る。
「村を飛び出す直前、村長宅に財布を置き去りにしていることに気がついて、一旦戻ったんだ。そのとき給仕にばったり出くわしたから、訊いてみたんだ。どうやったらこれが終わるのか」
固唾を飲み、俺はNを見守る。
「ちゃんと言語を理解できたわけじゃない。だから、もしかしたら聞き間違いかもしれない。が、給仕は言った」
——〝選ばれし子〟の肉を自分で調理し、新しい神に捧げれば、神の座が交代する——。
俺はしばし、Nの言葉の真意が理解できなかった。しかし次第に、胸にゾワゾワとした異物感と嫌悪感が押し寄せた。
「なぁ、N……。まさかとは思うけどさ……さっきの大豆ハンバーグ……」
俺の言葉を遮るように、Nは続ける。
「ここは俺がコックを務めているレストランなんだ。食材の発注から調理までの工程を任されている……。ついさっき、駅におまえを迎えにいくまで、俺はここの厨房にいた。それで……」
そのあとの言葉は憶えていない。
気がつくと俺は、Nと待ち合わせした駅の改札前にいた。いつもと変わらぬ人の群れが行き来している。
無我夢中で走ったのだろうか。身体中から吹き出した汗で、背中も腹もすっかり冷えてしまっている。
「夢だ……夢だったんだ……」
そのとき、腹がグゥと鳴った。ほら、夢だった。
二十四時間営業のハンバーガー屋が、目の前でどぎついネオンを放っている。看板には、肉のパテが何枚も挟まれた豪華なバーガーの写真が並んでいる。
「晩飯はこれにしよう」
俺はいつもそうするように、何の疑いもなくハンバーガー屋の扉を開けるのだった。
肉の記憶 釣舟草 @TSURIFUNESO
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