第38話:対決の時
狙うは鼻。サメに襲われた時、鼻先を殴れば退散するという動画を見た。一つ残念なのは、そこに居るのがサメでないくらいで。
迷いはない。他にこのみさんの望みを叶える方法が思いつかなかったから。
バーディーも同じのようだ。十年ほどで初めて聞く、猛々しい雄叫びを上げた。
速度計が三十を過ぎ、四十も超える。
あのバイク屋さん。初めての給油で、意味もなくハイオクを入れたこと。初めての通勤。初めての立ちゴケ。
今日までの景色が一つずつ、はっきりと目に浮かぶ。
「デブ舐めんな! 二百キロ爆弾じゃ!」
手足を突っ張り、待ち受けた熊の顔面へ突き進む。黄色く照らされた巨体から、エンジン音に対抗する唸りが轟いた。
「グオォォォ!」
開いた口へ、ちょうどライトが吸い込まれた。メキメキと何やら潰れる、不快な音。一気に明るさが失せ、何も見えない。
分かるのは激しい衝撃と、弾みで放り出されたこと。僕の意識はその辺りで、うやむやに消えていった。
——どれくらいが経ったろう。目を開いても、黒の一色だった。風の音も、土の感触も、身体の痛みも何もない。
死後の世界というやつか。まあ、そうなるかもと思ってのことだ。
「何やっとんや」
どこからか、誰かの声。不思議と知っている、たとえば海太くんのような。
「おい、動けんのんか? 目ぇ覚めとるんじゃろ」
「あ。海太くん」
本人だった。証拠に、彼の顔が目の前へ突き出る。ずっと高いところへ、星も見え始めた。
「海太くん、じゃなあわ。目ぇ覚めたんなら、早よ起きぃ。熊の奴が戻ってきたらヤバいわ」
「えっと僕、気ぃ
「何十秒かなあ」
話すうち、五感が戻ってくる。そよぐ風と葉の感触。バーディーのエンジンがチリチリと冷えていく音。押さえつけたような、鼻の奥の違和感。
「顔、打ったかも」
「顔だけじゃなあじゃろ。まあそりゃあ後よ、お宮ん中へ入りんさい」
ああ、熊はどっか行ったんか。と、まだ思考がワンテンポ遅い。
言われるまま身体を起こし、途端に痛みだした胸を押さえる。
「あ
「立てんか?」
「いや大丈夫」
立てないほどではなかった。息を整え、見回す。しゃがむ海太くんの隣に、カンタも元気そうだ。
違うほうへ、転んだバーディーもある。ざっと見てもハンドルやタイヤが、おかしな形にひん曲がった。
「そうじゃ。寒いけえ思うて、毛布持ってきたんよ」
傍へ行くため、立ち上がろうとした。けれども右の足首に強い痛みが走る。
勢いまま、濃い土の臭いの地面に倒れた。
「おいっ」
「ご、ごめん。ちょっと挫いたかもしれん」
負傷に気づくと、急激に痛みを感じる。足首はちょっとでなく、そこへ小さな心臓ができたみたいに脈打つ。
「なんや、一枚しかなあで?」
「う、うん。海太くんの」
代わりに彼が、毛布を拾ってきてくれた。小脇に抱え、空いたもう一方の手を僕に差し出す。
握ると、左足だけで立てるように強く引かれた。そのまま肩を借り、お宮の階段まで運ばれる。
「熊ぁ怪我して逃げたけどなぁ、手負いいうことよ。戻ってきたら、今度こそ死ぬで」
「怪我?」
「あんたのバイク、ようけ血が付いとるわ」
五段を這って上り、突っ伏した。あとは転がってでも中へ入れるが、海太くんは来ない。
「血は、まあ。うん、でも悪いことしたかもしれん」
「なんでや」
そうしなければ、今ごろ血を流していたのは海太くんだった。彼のなんでやは当然だけど、やったぜとも思えない。
「あれ、どこ行くん」
「あんたと一緒の毛布に入るのも気持ち悪いじゃろ。布団、調達してくるわ」
「どっから?」
見えた背中に問うと、「そこよ」とだけ答えた。それで向かったのは、刈った草の山。
なるほど。理解して待ち、運ばれた草をお宮へ押し込んだ。
まだ青くさい草のベッドは、それでもとても暖かい。臭いもすぐに気にならなくなって、すっかり全身で潜り込む。
海太くんは毛布を羽織り、格子戸の間際へ座った。熊が戻ってこないか、監視だろう。
「僕だけ寝転んどったら悪いね」
「草ぁ出たら寒いで。俺は怪我もしとらんし」
寄り添うカンタの背を撫でつつ、「フッ」と小馬鹿に笑う。なんだか久しぶりで、僕も笑った。
「助けられて言うのもじゃけど、なんであんな無茶したんや」
「無茶?」
バーディーでの突撃とは分かるが、そこまでだったかなと首をひねった。「はあ?」と、彼の不興を買ったけれど。
「ヘタすりゃ、いうか死ぬ確率のほうが高かった思うで。あの熊がバカみたあに待ち構えとったけえ、命中したけど」
「なんかそれ、僕がバカ言うとらん?」
「言うとる」
くっくっと笑いを堪え、海太くんはスマホを眺めた。そういえば何時だろう、お腹が減ってきた。
「このみさんが、もの凄い心配しとった。普段と全然
「へえ」
「へえ、って」
「
どこか人ごとっぽいのは、目がスマホに向いたままだからか。あとで謝ると言うのだから、いいけれども。
「で? このみが死ね言うたら死ぬいう話か」
いくらか操作をして、スマホの光が消える。すると彼の目は、また外を向いた。
「ほうよ。このみさんが海太くんとカンタを助けたい思うとるけえ、僕は来たんよ。ほうじゃなかったら、こんな度胸ないわ」
正直に答えた。少しは驚いた顔でもするかと思ったが、彼は小さく「ふうん」と頷くだけだった。
それからじっと僕を見たのが、もしかしてとも感じるけど。
「お、返事あったわ」
このみさんの言うことなら何でも従う。彼女の望みが僕のすべて。そういう気持ちが伝わらなかったのか、海太くんの感想は聞けなかった。
代わりに言ったのは、勝手に光ったスマホを見てだ。
「返事?」
「譲さんが熊ぁやっつけて、毛布も持ってきてくれたけえ心配すな言うたんよ。じゃけど手負いになったけえ、迎えは明日でええいうて」
向けられた画面に、輝一さんと名前があった。申しわけないがそうさせてもらうという、簡潔な返答も。
「うん、猟師さん
言って、海太くんも「うん」と応じた。それでしばらく、お互いに何も言わなかった。
何か言わなきゃと、あせることはない。広島では沈黙が怖かったのに。
ただそれとは別に、聞いてみたいことはある。また怒らせるかもしれないが、たぶん聞かなければいけない。
「海太くんも、このみさんが好きなんよね?」
切り出し方をいくつも考えたが、余計に彼をイラつかせる気がした。だからシンプルに、最初は、はあ? と凄まれるだろうけど。
「はあ?」
「いや、その。心配すなって、最初にこのみさんへ送ったん、そういうことじゃろ。助かると思うてなかったのに」
予想通りの顔と声。僕は縮こまって、しかし言うことは言う。きっと今を逃せば、二度と話せないと思って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます