第37話:唯一の武器

 夜の森は寒かった。つい三十分前には、強い陽射しで夏も近いような気さえしたのに。

 どこか先のほうで霧吹きをしているみたいな、冷え冷えした空気を押し分けて進んだ。


 少し視線を上げれば、藍の空が見える。でも木々は真っ黒なシルエットで、バーディーのヘッドライトがなければ僕は立ち竦んだだろう。

 洗濯板という物を使ったことはないが、その上を走ればこんなかもしれない。激しく上下するハンドルを、手放さないだけでもひと苦労だ。


 自分の足で走るよりは速い程度。今、熊と出くわしたらどうしよう。正面を塞がれるのも恐いが、太い腕が横から突き出たら。

 考えなければいいのに。そう思うほど、イメージが精細化していく。


 逃げようとして、ヒョイッと摘み上げられるかも。振り回した腕で、スポンと首を持っていかれるかも。

 ぶるっ、と全身が震える。地に足がつかないというか、シートにお尻が乗っていない感覚。


「このみさんのためじゃ!」


 叫んで、アクセルを回した。

 おかげでというか、当たり前というか。歩いて登るより、山頂付近までの時間は圧倒的に短かった。

 傾斜が緩くなり、刈った草の匂いがする。


 ここまで来れば。

 ほっとして、速度を落とす。急いだ様子を見せれば、熊に怯えていたと言い当てられてしまう。

 すると、だ。すぐに見えたお宮の前、あってほしくない姿が浮かび上がる。


「グオッ」


 耳慣れない、厭に耳へ残る音色。顔を見なくとも機嫌の悪さが伝わる、熊の唸り声。

 母熊だろう。一頭だけで、子熊は見えない。

 ノシノシ、ウロウロ。お宮の前から側面、前に戻って反対へ。入り口を探しているのか、ゆっくりと歩き回った。


 僕が照らしているのも、バーディーのエンジン音も。まったくどうでもいいくらい、お宮の中が気になるらしい。


「海太くん……」


 本気になれば格子戸くらい壊せそうだが、遊んでいるのか。どうであれ、閉じ込められたほうは生きた心地がしない。

 来て良かった。明日の朝まで、きっと持たなかった。


 ただ、僕も同じ。いつ、たった今にでもこちらへ向かってくれば終わりだ。

 熊を撃退して海太くんを救うか、逃げ帰るか。選択肢は二つあるが、後者を取ることはない。


 じゃけど、撃退いうて。

 木の枝や石で殴りつけても、返り討ちに決まっている。どのみち殺すのは無理だが、一撃で退散してもらう方法でないと勝ち目がない。


 火は?

 動物は火を怖がるというし、松の枝を燃やした煙を熊は嫌がると聞いたことがある。

 ——山火事にする気か。だいいちライターも持っていなかった。


 武器。武器になる物。

 忘れているだけで何か持っていなかったか。ポケットを探ってみるが、ない。

 持ってきた毛布もダメ。他にバーディーに積んだ物もなく、役に立たない僕が乗っているだけ。


 前カゴから足下を見下ろし、たるんだ腹にため息を吐く。

 と、気づいた。


「武器、あったわ」


 通用するか、悩んでいても答えは出ない。熊の手が格子戸に叩きつけられ、嫌な音もしたところだ。

 ウワンワンワワンと暴走族っぽく、エンジンを吹かす。なるべく耳障りに、僕を見ろと。


「グルォォ」


 きっと広島弁で、「何じゃワレ」だ。階段にかけた手を戻し、四つん這いの熊がこちらを向く。

 ぶわっと全身から汗の噴き出た感触が気持ち悪い。脂汗でアクセルを滑らしそうだ。


 のそり、のそり。一歩ずつ、巨体が向かってくる。一瞬、目を瞑って「よし」と見開く。

 前ブレーキを全力でかけ、アクセルをめいっぱい回す。後輪が横滑りし始めたところで、ブレーキを放した。


 すぐさま二速にシフトアップ。このままフルスロットルで突っ込むのだ。

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