第六章:看板を掲げまして
第36話:このみの望み
「うわあああああ、うわあああああん」
火の点いたような泣き声。みんなへの気遣いとか、恥じらいとか、何もなく。
彼女の喉と心が焼けついてしまいそうで、でも僕にはできることがない。
輝一さんたちと合流し、バーディーを置いた転回場所へ戻ってもなお。
父娘で抱き合った瞬間には、ほっとした表情まで見えた気がしたのだけど。助けに向かうどころか山道を下り始め、僕の話すいきさつを聞いて、治まらなくなった。
「助けにゃあ行く。じゃが
その通りすぎて反論の余地もない返答を聞いても、「海太ちゃんが! カンタが!」と。言った輝一さんを揺すった。
事実、もう駐在さんへ電話をかけた。麓の猟友会にも。
今も竹中さんたちが、ご近所へ個別に電話中。これは人数を集めるより、危険を知らせる意味合いだろうけど。
「海太ちゃぁん! カンタぁぁぁ!」
父の鼓膜を破けば、彼らが救われる。そういうおまじないみたいに、このみさんは叫んだ。鼻水とよだれと、拭いてあげる輝一さんの袖をぐしょぐしょにして。
誰も彼女に、無茶を言うなと告げることはない。
黒電話っぽい古めかしい音で、輝一さんのスマホが鳴った。
今日の責任者であり、山あいに住む家々の町内会長のような立ち場らしい。あちこち連絡がつくつど、折り返しがかかった。
「譲くん悪いんじゃが、このみを見といてくれんか」
込み入った話なのか、少し話して頼まれた。どうであれ、もちろん構わない。
引き剥がすと、輝一さんのシャツが破けそうなくらいにしっかり握っていた。指の一本ずつを開かせ、やっとだ。
「はあ? そがいに悠長な話があるかいや」
どこで落ち着こう。行き先を迷う間に、静かながらも怒気を孕む声が響いた。電話の向こうが誰か分からないが、あちらもかなりの喚き立てようだった。
結局、聞き入れるしかないらしい。歯がゆく舌打ちで、輝一さんは辺りを見回す。
途中、僕の正面で視線が止まった。が、数秒も待たずによそへ動く。最終的に竹中さんへ声がかかる。
「のうやぁ、役場ぁ行ってもらえんか」
「どしたんです?」
「害獣駆除の申請に、当事者ぁ連れてこい言うらしいんよ」
「そがぁな悠長な」
「儂も言うたよ。じゃが、そうせにゃあ猟友会も動けん」
大人が二人してため息をかけ合う。それは役場とやらへ向けてだが、うなだれたのはその間だけだ。
「ほいじゃ、行ってきますわ」
「しゃあしいが、頼むわ」(※しゃあしい=せわしい)
歳とビールっ腹に似合わず、竹中さんは颯爽と山を下っていった。誰やらが車で迎えてくれるという叫びにも手を振って。
それから輝一さんのスマホは、ひっきりなしに鳴る。長くなるものも短いものもあったが、およそすべてに経緯を説明していた。
漏れ聞こえる中でもひどい相手は、なぜ熊を刺激したか、なぜ危険を冒して駆除しなければいけないのか。と、輝一さんの話を聞いていたか問い詰めたくなる。
みんなが輪になったところから離れていても、昂ぶった声はよく届いた。倒木へ座らせたこのみさんにも、間違いなく聞こえている。
さすがに疲弊し、肩で息をしていた。その上にどんな心持ちで聞いているか、僕などが同情するのもおこがましい。
「このみさん。家、帰っときますか」
このままでは倒れてしまう。そのために帰宅するのをダメだという人も居ないはず。
と思うが、他でもない当人が首を横に振る。
「海太ちゃん……カンタ……
虚ろな眼で、ボソボソと。僕の問いかけへの返答だが、僕に言ってはいない。
真横で、耳もとへ囁く僕の立ち場は。なんて寂しく思うのも否定できないが、これで当たり前と思う。
重ねてきた時間が違うのだ。
せめて地面に正座で待ち構え、彼女が望むことにすぐさま答える。そうして時間が過ぎるのを、救出の準備を待った。
「——今日はどうもならんのですか?」
「まだ駆除の許可が下りん。今すぐ下りたとして、もう日ぃ暮れる」
午後五時前。駐在さんもやって来て、転回場所に二十人ほどが集った。
しかしたしかに、ここからはもう太陽が見えない。正式な日没時間も間もなくだろう。
「ほしたら海太くんは」
「明日の朝まで堪えてもらうしかなあ」
山頂への道は、夜の様相を見せ始めた。そんな中を歩き、銃を使うのは危険と理解できる。
しかしそんな中を、彼はカンタとだけで居る。怒り狂った熊に怯えながら、山の夜に凍えろと言うのか。
「明日いうて、そりゃあ」
思わず、口をついた。どう取り繕っても、責める言葉でしかない。
悔しそうに顔をしかめる輝一さんへ、僕は深々と頭を下げた。
「すんません、要らんこと言いました」
「いや、譲くんが案じてくれるんはありがたあよ。でもどうしょうもなあけえ、下りようや」
薄く笑い、立てと手が動いた。
他のみんなも下山の方向へ歩き始めている。毛布や飲み物といった物資も運ばれていたが、ブルーシートをかぶせて置いていくようだ。
「このみさん、立てます?」
憔悴して抜け殻のような彼女。耳を向ければ、海太くんとカンタをずっと呼び続けているけれど。
抱き起こしても逆らわず、歩けば合わせて足を動かしてくれた。
輝一さんと左右で支え、隊列の最後尾を行く。来る時には明るかった道が、別世界への途道に見える。
その時、何度か聞いた着信音が聞こえた。このみさんのスマホだ。
彼女はのろのろとポーチを探り、画面をぼんやり眺める。プライバシーを覗く趣味はないが、釣られて僕も見てしまった。
『お宮さんおる、 ぬくいけあ止まってく 心配すな)』
海太くんからのメッセージだった。途端、ぼとぼとと雫の落ちる音がする。それがどこから生まれたか、たしかめるまでもない。
顔を覗くような不躾を今度こそしない。しかし変だなと思う。彼がこんな、誤字と誤変換だらけのメッセージを送るだろうか。
意味は分かる。お宮さんに避難していて、暖かいから泊まっていく、心配しなくていい、だ。
「助けて」
「えっ、なんです?」
このみさんの呟きが、嗚咽混じりで聞き取れなかった。耳を近づけたけれど、やはり誰かと話そうという意識はないらしい。
「譲くん、置いてかれるわ。行くで」
「はっ、はい」
急かす輝一さんに従い、彼女の腕を抱え直す。と、聞こえた。
「助けてお兄ちゃん……海太ちゃんが……」
うん。うん。分かる。このみさんは今すぐにでも彼を助けたいのだ。当然にカンタも。
頷き、振り返った。すぐそこの転回場所と、その先の道。数分前とさえ比較にならないほど、夜に呑まれている。
「あっ」
「ん、どした?」
「すんません。僕、バイク取ってきます。明日も来るのに、あったほうがええんで」
うっかり、相棒を置き去りにするところだった。
「いや明日も来てもらうか分からんが」
「ほしたらやっぱり、持って帰ったほうがええですね」
輝一さんに娘を任せ、走って戻る。
ブルーシートを捲って毛布を一枚。バーディーに跨って見ると、十数メートル先の輝一さんたちがどこか分からなかった。
「よし、行くで」
エンジンをかけ、ゆっくり走り始める。僕は決めたのだから。
すべてはあなたのために。このみさんが望むことを僕はすると。
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