第35話:誰も誰かを思い

 動物園で見たことはある。かなり昔のことだけど、言うほど大きくないと感じた記憶が。自分の家に居てくれたら、常に撫で回していたいと。


「シャレんならんわ……」


 無理。

 四つん這いで、ただ立っているだけだろう。カンタのような剥き出しの感情は見えない。

 睥睨という言葉があるけれど、まさに。平伏して見逃してくれるなら、いくらでもやらせてくださいと言いたくなった。


「熊に鈴とか、ありゃあ嘘か」


 食いしばった歯の隙間から、海太くんの声。カンタを繋ぐロープが、ずっと張り詰めている。

 でも、たしかに。

 ちょっと離れていたものの、十一人の大所帯。静かに黙々とは反対の道行きだった。

 もちろん全員が、どこかしらに鈴を付けていた。音色もまちまちのヘタクソすぎる合奏。


「なんか、探しよる?」


 鼻先がヒクヒク動いて見えた。目と顔を動かすのも、あまり僕たちに意識がないように思う。カンタへだけは煩わしそうに、ギロッと睨みが向くけれど。


 人間には用のない、野生動物が欲しがるもの。

 食べ物? でもお昼は食べてしまったし、そんな物は——


「お、お重?」


 このみさんの持つ包み。すっかり空っぽだけど、あちら様は知らない。気になるのはから揚げかウインナーか、匂いは残っているはずだ。


「それじゃ」


 小さく舌打ちで、海太くんは手を伸ばした。驚かせないよう、ゆっくりと。


「このみ、それ貸せぇ」


 ヒソヒソ声が聞こえなかったか、彼女は答えない。腕を上げる素振りもない。もう一度「このみ」と呼ばれても。

 僕もそっと、このみさんに近づいた。コントみたいな抜き足差し足で、彼女の視界へ入ろうとした。


 ダメだ。

 今にも泣き出しそうな、張り裂けた痛みに耐えるような。悲痛を飛び越えた壮絶な顔で凍りついている。


「このみ、このみ!」


 呼びかけが強まっても、このみさんは動かない。むしろ相手、熊のほうが不機嫌な咳払いみたいな声を落とす。

 もしかすれば「そこか」と言ったのかも。地面から生えた太い幹のような脚が、一歩。お重のほうへ踏み出した。


 海太くんとこのみさんの間には、二歩の距離。彼女も手を出せば問題なく届き、どちらかが足を動かすのでもいい。

 けれど正真正銘の猛獣とも、せいぜいが五、六歩。まともに会話をする彼のほうが、きっと変だ。


 ドッ、と。重々しい足音が鳴る。僅か揺れた巨体に逃げるどころか、海太くんは身を乗り出した。

 それはカンタが引き摺るから。熊の視線はもう明らかにお重へ向き、つまりこのみさんに近づく。


 漆黒のシュナウザーは行く手へ立ちはだかり、牙を剥き続けた。ひと声たりと、ムダな雄叫びを上げることなしに。


「ちょっ、待てやカンタ」


 じり、じり。海太くんの足裏が砂を擦る。また一歩を進んだ熊と、もはや会食の距離。

 放っておけば、熊の爪はこのみさんへ向いただろう。あるいはお重だけを奪い、おとなしく消え去ったかもしれない。


 それを待てば良かったのに。誰かが言ったなら、僕はカンタの名誉のために怒るだろう。彼女の位置へ、お前が立って言ってみろと。


「まあ、しゃあないなぁあ?」


 ロープを持つ男も意を同じく、仕方がないと嘯いた。今にも飛びかかりそうなカンタを引き留め、必死の形相で。


「譲さん、このみぃ頼むわ」

「えっ、うん。いや、海太くんは?」


 急に普通の声量で言われ、僕も返した。

 しかし続けて話す猶予も余裕もない。熊の上体が沈み、動物博士でない誰の目にも何らかの溜め・・の動きと分かる。

 薙ぎ払われるか、圧し潰されるか。およそ歓迎したくない二択、いや噛み砕くのもあった。


 僕が一人で青褪める間に、海太くんはさっと動く。大胆にも反復横跳びで、このみさんからお重を奪った。

 やはり。振り回した包みを追い、熊の視線がぐるんと回る。

 彼も察したらしく「へっ、へへっ、こっちじゃ」と、途切れて震えた笑声で誘う。お重をガタガタ揺らしながら。


 今のうち。

 このみさんへの注意がなくなり、僕など問題外の位置。彼女の手を取り、少しでも引き離す。

 役目は分かっている。

 だが動かない。僕の脚が。


 普通に歩いて、前へ進めばいい。普通ってどうやるんじゃったっけ。バカバカしいが、本当に分からなくなった。

 下半身そのものがなくなった気がして、見下ろす。演技とすればやりすぎと言われそうに、両脚が震える。


「勘弁せえや」


 呻いて、太ももに爪を立てた。それさえ触れた感覚に乏しく、強引に脚を持ち上げた。

 ようやくだ。ハッと意識を取り戻した我が脚と、神経が繋がった。まだ借り物みたいなあやふやな感覚をごまかし、腰を屈めてこのみさんへ近づく。


 お重は揺れ続けていた。一瞬たりとも怠けず。ガタガタ鳴るのもあいまって、視線で追う熊が催眠術にかかったようでもある。

 そのまま。

 そのまま。

 願いながら、このみさんとの二十歩を縮めていった。きっとこれから先、これほど遠い二十歩は絶対にない。


「このみさん、このみさん!」


 指先が触れた。彼女の甲を叩き、握って、ぐっと引っ張る。

 反応がない。では無理やりに引いていこうと、反対の肩をつかんだ。


 自分で歩かない人を後ろ向きに? いざ試みて、歩かせるのは諦めた。

 彼女の腋へ腕を差し、引き摺る。土を掻く音も最小限に。


 しかし熊のご意向には背いたらしい。「気に入らん」と言いたげに鼻を鳴らし、こちらへ首が向く。


「おい、こっちじゃ」


 一歩。踏み出したところで、海太くんが腕を突き出す。荒々しく揺すられるお重は、誘うのでなく威嚇の道具となり果てた。


 そんなことをしたら。

 案じた未来が、直ちに現実となる。熊の巨体が起き上がり、人間にはあり得ない高さから覆いかぶさろうとする。


「海太くん!」


 咄嗟に叫んだ。大声を出しては危ないとか、そんな気遣いは吹き飛んでいた。


「くうぅっ」


 恐怖に崩れた顔と嗚咽。それでも彼の目は熊を睨みつけた。

 見ている僕でも、泣きじゃくったように喉が痙攣を起こしている。うまく呼吸もできなくて、ただただこのみさんを引き摺った。


「う……」


 微かに彼女の声がして、助かったと思う。いやそれだけで何も解決はないが、自分で逃げてくれるだけでも。


「海太ちゃん!」


 絶叫。耳の奥に、きぃんとこだまが残る。続けざま、僕の腕から逃れようともがき始めた。


「こっ、このみさん!」


 信じられない力。いやキャベツを軽々と運ぶ筋力で存分に暴れた。優しくつかむのではどうもならず、羽交い締めで抑える。


「ゥワンッ!」


 今度はカンタの怒号。目を離した数秒に何があったか、あからさまな戦闘開始の合図が轟く。

 見ると、あと一歩のところに熊の爪があった。だがそれ以上は伸びず、自身の鼻先を振り払うのに使われた。


「ギャンッ」


 大きな黒い毛玉が宙を舞う。熊の鼻面へ噛みついたカンタだ。

 ロープの長さ限界を飛び、地面に叩きつけられた。が、瞬間に起き上がって戦う姿勢へ戻る。


「カンタぁ! 海太ちゃぁん!」


 もがく彼女を放せば、必ず彼らのところへ駆けつけるだろう。

 させられない。「ごめん、ごめん」と、渾身の力で引き摺った。


「逃げええ!」


 海太くんの、咆哮とでも言うべき叫び。

 眼と眼も合った。もちろん僕は答えない。言う通り、このみさんを安全な場所へ連れていくまでは。


 彼はお重を横薙ぎに振るい、熊の鼻へ直撃させた。人間でも犬でもない悲鳴が小さく上がる。

 その隙に、一人と一匹は走り始めた。熊の手の届かない山頂方向へ。

 僕も逃げる、このみさんを抱えたまま。海太くんを追う熊の姿に、安堵する気持ちは欠片も湧かなかった。

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